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『リベラルの敵はリベラルにあり』第1章

こんにちは。ゆきうさぎです。
倉持麟太郎氏の『リベラルの敵はリベラルにあり』を読了しました。

この本は、日本の政治が膠着状態にあることを非常によく言語化されていると思います。感想を交えながら内容を紹介したいと思います。

【はじめに】

倉持麟太郎氏は、本著の中のはじめにの部分で「リベラル」と思想自認していると書いています。

〝現在、日本に真のリベラル勢力が存在するのかという根本的な問題も含めて、我が国ではリベラルと目される勢力は極めて劣勢である。リベラルが語る言葉や社会設計は、およそ一般の生活者には届かないし響いていない。
〝リベラルが語る社会設計には現実味が無い。リベラルな社会の基礎単位である「個人(individual)」概念が生身の人間と乖離しすぎているのだ。(中略)もうひとつ、リベラルが語る言葉が生活者に届かないのは、リベラルな価値を共有する対話の姿勢が上から目線すぎるからだ。〟

これは、私自身も政治的なテーマについて考えるときに、しばしば対立が起こり議論が成立せずに、膠着状態となることを体験したことがあります。

例えば、今、野党だけではなく与党でも賛成派が増えてきた選択的夫婦別姓婚の法整備化を巡る賛成派と反対派の対立。

あくまで私は選択的夫婦別姓婚〝容認〟の立場で、同姓婚で夫側の姓に結婚時に改姓しています。

私は夫側の姓になって、夫のご両親やその祖先のお墓に一緒にお参りして、ずっと前に生きてきた人たちの末裔(私と夫)が出会って縁を持てたこと、そうしてまた次世代に命を繋げられたことを奇跡のように感じたので、自分の実家姓を継げないことが悲しい・寂しい…しかし、だからと言って夫にもまた先祖から受け継いだ姓を継承できなくさせるというのは良いことでは無いな…と思い、選択的夫婦別姓婚を魅力的に感じていました。
 
これは姓の継承を子の代に先送りするだけで、そうした動機で私の家庭で夫婦別姓を導入すると、自分は姓を変えずに実家姓を残すことを目的化すると、子どもや孫にも改姓を許さない事になってしまいます。これは私が夫と話し合う事で指摘された矛盾なので、私は同姓婚を続けるが選択的夫婦別姓婚を強く求めはしないが、困っている人のために賛成という立場になりました。あくまで「生まれ育った姓を変えずに結婚したい」人が必ずしも子どもをもうけるかどうかまでは分からないからです。

当然ですが姓を同一にすることが家族の絆を深めるという考え方には賛同しません。大切なのは一緒に生活していく中で共に過ごす時間の中で育まれる相手への思いやりや、愛情を示すと言った思い出が絆そのものだと思っています。

選択的夫婦別姓婚を政治的なテーマとしてひとつ取り上げましたが、姓を変えずに結婚したい人たちが戸籍の廃止を目論むかのように、与党反対派の議員さんがtweetされて、それに呼応するかのように、そうした陰謀があるとして多くの選択的夫婦別姓婚をのぞむ人に繰り返し悲観的な意見(ときには誹謗中傷)を浴びせることは非常に残念です。

また同時に、そうやって賛成派の人が多くの反対派と接することで態度を硬化させてしまい、白熱したやりとりが可視化されて、強く賛成する人たちと強く反対する人たちの間でどちらに賛同するか決めかねている多くの人たちがたじろぎ、議論に加わることをやめてしまった事…そのことが本著の〝はじめに〟の部分で語られた引用に無関係ではないと思えるのです。

妻が夫側の姓に改姓する、あるいは夫が妻の姓に改姓する事にとって、結婚というイニシエーションに公的な意味を持たせて、結婚する当事者がひとつの家庭を築いていくことを決意する…こうした価値観を大切にする人たちを否定しませんし、そういう価値観の人はこれまで通りに同姓婚を両者の同意によって選択すればいいのです。
 
しかし、同時に別姓婚が法整備化された際の不安をもつ人たちがいる事に対して「改姓を相手に強要させる」として差別主義者と断じても、なかなか、そうやって批判された人は良い気持ちがせずに賛成派になってくれることはありません…この対立の中で、リベラルが長い時間をかけて人権問題として考えていることを、同様に考えてくれない人も大勢いるのです。

個人が解放され身分や帰属関係から断ち切られたことによって、我々はいくつもの生の選択肢を前に、「自分らしい生」の選択を丸投げされた。

この言葉は選択的夫婦別姓婚について考え、夫婦で姓を別々にすること、実家姓のままで生きていくことを現実的に想像した私に響きました。

【第1章 君たちはアイデンティティを知っているか】アイデンティティとは…

アイデンティティ=「自分の中の真の自己の価値観や尊厳を十分に認めようとしない社会的ルールや規範から成り立つ外の世界とのギャップから生まれる」ー政治学者フランシス・フクヤマのアイデンティティ概念の定義

そもそもアイデンティティとはなんなのかを政治学者やソクラテスを引用して、アイデンティティ…自己とは?リベラルな個人とは?を説明しています。この部分は端折るには勿体無いのですが、興味がありましたら読んでみてください。

アイデンティティの危機

西洋社会においては、それまで支配的であった教会的価値観からの解放であり、キリスト教を通じた支配的な共通価値からの解放であった。ニーチェいわく「神は死んだ」。そして神の死により生まれた道徳の隙間で、人はより自律的に思考し、生き方を自由に構想できるはずであった。まさに身分保留なしのまっさらな「個人(individual)」概念の誕生だ。しかし、問題は、この「個人の解放」が必ずしも「個人の幸せ」とは同義ではなかったことにある。
「人間はきわめて社会的な動物であり、周囲の規範に合わせようとする感情を持つ。安定した共通の道徳的地平がなくなり、競合する価値体系が不協和音を生むようになったとき、道徳の自由ができて嬉しいと喜ぶ人はあまりいない。むしろ強い不安と疎外感を覚える人がほとんどである。ほんとうの自分が何者なのか、わからなくなるからだ。」この状態をアイデンティティの危機と呼ぼう。

この後、著者の倉持氏は、独裁国家から逃れてきた人が自由民主主義国家において、多様な生き方の選択を前に茫然自失の表情を浮かべていたことを述べています。

ポピュリズムとアンタゴニズム

2020年の現在、ファシズムやナチズムといったナショナリズムの亜型に「勝利したリベラリズムが生んだ病理であるグローバリズムやエリート主義への反発として、右派・左派を問わず、ポピュリズムが台頭している。これは、後に見る通り、リベラルな「個人(individual)」概念を前提とした世界観から追いやられ落第された人々の「敵対性(アンタゴニズム)」の受け皿としてポピュリズムが機能したからである。ここで重要なのが、アイデンティティの危機を埋め合わせるために提供される価値観は、特定の宗教やイデオロギーを奉じる集団であったり、特定の国家、地域、民族、宗教という「限定的」なものであって、「人類普遍の…」ではないことだ。
人は、選択肢が多ければ、危機としてその中から自分がもっとも「自分らしく」いられる選択をできると信じていた。しかし、我々はそんなに独立して合理的な判断ができる「強い個人」ではなかったのである。

【はじめに】の部分でも触れた、個人が解放され身分や帰属関係から断ち切られたことによって、我々はいくつもの生の選択肢を前に、「自分らしい生」の選択を丸投げされているのが、今のグローバリゼーションによって多種多様な価値観を前に生きているのが私たちです。

下記も【はじめに】からの抜粋となります。

不安感と孤独感は、その裏返しとして、強い公的承認をセラピー的に求めた。「強い個人」から落ちこぼれた「生身の個人」が求めたセラピーは、民族や土地や言葉等という直截的な統合(ナショナリズム)か、自分をふるい落とした人々が座るエリートの説教台を「既得権益」として徹底的に敵視しその打破を目指す(ポピュリズム)か、あるいは社会の周縁における少数疎外者と感じる集団で結集する(アイデンティティ・リベラリズム)という形で表出した。そして、セラピーにすら無力感を感じる大多数は政治的無関心=ニヒリズムへと染まっていたのである。
「個人」という結び目がパチンとキレた社会は、各人の細分化されたアイデンティティ集団の集合体となり、それぞれが我先にと社会からの承認を求めて他者との差異を強調し、理性的な対話ができない。民主決定の主語となる「私たち」はできるだけ広く包摂的にとられるべきなのに、むしろアイデンティティの数だけ「私たち」が出現し、社会が取り組むべき共通の課題について立場を超えた合意形成はもはや困難になりつつある。
リベラルな社会設計が生んだ今一つの病理はグローバリゼーションである。リベラルな「個人」や「自由」は人類普遍の概念として世界中に輸出され、国境の壁を下げるアクセルとなった。「人類みな兄弟」的コスモポリタニズムは一見理想的に見えたが、下がった国境を越えたのは強欲資本主義だった。国境ベースの競争が世界地図全てを戦場とする弱肉強食の競争に変わり、世界規模での格差を生んだ。

下記の『戦争と資本』★という書籍からも引用しますが

★現在、資本主義が〝グローバルな内戦〟を引き起こしている
資本主義とリベラリズム(自由主義)は、雲か嵐を抱え込んでいるように戦争を懐に抱え込んでいる。19世紀から20世紀初めにかけての金融化は全面戦争とロシア革命に行き着き、さらには1929年の恐慌とヨーロッパの内戦に至ったのだが、現代の金融化は世界のあらゆる地域に号令をかけながらグローバルな内戦を発動している。

グローバリゼーションが生んだ格差が引き起こしたものは何か。

普遍性を標榜しつつ、同質圧力も強く、国家だけでなく、その内部の地域共同体も破壊した。我々は経済という金目の話を優先しすぎたのだ。ショッピングモールの跋扈を例に論じるが、我々は「活き活きとした地域コミュニティ(人格)より、安い下着(金)をくれ」という選択に至った。

自分の意思で自由を選びとってきたはずなのに、生まれた場所や育った地域の共同体を失い、自由主義経済の中で、そして憲法が想定した「強い個人」ほどには強くなかった現代の私たち…。なかなか不安になる内容ですが、倉持麟太郎氏は〝リベラル〟な価値観を再生する企てが本著作としていますから、長くなりますが2章以降も紹介していきたいと思います(公開日未定)





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