定量的ハンバーガーと私

 この文章は私が好きなハンバーガーについて記述する。

 この文章を読むにあたって、読者の方にとって私の素性は重要ではない。国籍、人種、性別、年齢……etc。人間にはアンケートで問われるような様々なパラメータは存在する。しかしそれを知って読むようなほどのものではない。私は見る者を圧倒させる屈強な男性であるかもしれないし、花も恥じらう可憐な女性かもしれない。または昼の繁盛を築くビジネスパーソン、落ち着いた昼下がりに集会をする老人の可能性もある。日本人ではなくハンバーガーの本場といえるアメリカ人であることは否定できない。要はカウンター席に虚空を眺め、商品をかぶりついている、「袖振り合うのも多少の縁」なんてことわざにも値しない過小な縁に結ばれた消費者の一人にすぎないということだ。読者のあなたは私を記憶の隅にも存在しないほどの者と捉えていい。だからこそ、この文章を書きたいと考えた。だからこそ、この文章を読んでほしいと思った。それは「今日は健康の為に一駅くらい歩いてみるか」というとっさの思いつきレベルの考えだ。ジャンクフードを食べる私の歪が生じた文章である。

 私はハンバーガー好きだ。しかしハンバーガーが好きと言っても、例えばTV番組で紹介されるようなハンバーガーに心血を注ぎ、知識や経験豊富な人間――いわゆる”マニア”では無い。ただ単に有名なフランチャイズ展開をするようなチェーン店に行く程度の人間である。敬虔なハンバーガーマニアからすれば「あなたはハンバーガー好きではなく、”好きな食べ物”がハンバーガーであるだけだ」と批判が寄せられるかもしれない。確かに好きな食べ物であるが、そのような質問をされてあれこれとひとしきり考えた後2,3位辺りに挙げるだろう。ちなみに1位はトンカツだ。

 マクドナルド、モスバーガー、ロッテリア、バーガーキング――。日本には様々なハンバーガーチェーン店が日々生存競争を行っている。しかし、今回はマクドナルドについて言及する。重ね重ね申し上げるが、私はマクドナルドから派遣された広告塔や、回し者ではない。ただ一人の消費者だ。企業の闇が垣間見られるような、いかがわしい存在でないことはすぐにわかるだろう。

  昼食。慌ただしい日々から捻出されたひと時の休息というよどんだ墨汁一滴。ただランチだとか称してちょっとしたイタリアンだの、洒落た物は私には縁が無い。この資本主義という言葉を意識させられる時間の私の過ごし方はどこで安く昼食をとるかという選択をするだけである。検索エンジンで提案されるリーズナブルという口説き文句には騙されることは無い。個人経営の店は”ワンコイン”ではまず食べられない。ここでいう”ワンコイン”は500円ではなく、100円だ。100円(消費税の関係上もあり150円ほど。だせても200円。それ以上は出すことをためらってしまう。)という前提条件である以上、まず実店舗の食事は絶望的。コンビニ、いやコンビニよりも安いドラッグストアやスーパー、ディスカウントストア……。軽食程度の目的に開発されたレディ・メイドのパンや、おにぎり。そういったものかカップラーメンなどインスタント食品のみが選択肢に挙がる。大量生産品である以上、愛などそこには存在しないだろう。冷えた心で従事する作業員の手で作られているのだから。もう少し高ければ熱意というものもあるだろうか。そのような食品を摂取しているとたちまち、愛欠乏症になってしまう。贅沢なものだ。100円だけで愛を求める卑しい私は。せめてもう少し人の手を感じ取れるものが食べたい。少し街を彷徨うとマクドナルドの看板を見つけた。占めた、と思い、私はマクドナルドに駆け込んだ。それからというもの、私は毎回のようにマクドナルドに向かうようになった。

 マクドナルドの公式ではハンバーガーではなく、サンドイッチと呼びたがるという話を聞いたためここでは商品をサンドイッチと表現させていただく。「100円あったらマックへ行こう!」と意気揚々と子供が呼びかけるCMを私は覚えている。そのためマクドナルドに行く場合は子供が駄菓子屋に向かう時のようにワクワクとした気分で100円玉1枚を握りしめる。いつもように私が行くと繁盛であるため並ぶ人々が出迎える。皆、思い思いの注文をする。私の後ろを並ぶ幼稚園児は私よりも数倍高いサンドイッチのセットにサイドメニューまでつけようとしている。この夢語りを私はこれを聞きまいと固く思い、「はやく順番がこないかな」と辛抱強く待つのだ。
 「いらっしゃいませ」と店員は形式ばった挨拶をしたのち私の注文を待つ。私は呪文のように「チキンクリスプ1つ、店内で、以上で」と慣れた口ぶりで詠唱する。店員の手間をかけないよう、問われることはすべてあらかじめ言っておく。レジを打ち、やがて「ポイントカードはあるか」という呼びかけにも対応するようにポイントカードのバーコードをスマートフォンで表示させ、差し出す。これがいつものやりとりだ。

 注文を待つ私はさしずめ子供ようだ。順番待ちのディスプレイをかぶりつくように眺める。しかしそれを眺める必要があるほどの物ではない。トレイの様子や(持ち帰りの場合)包みの大きさが他の客と段違いだからだ。孤独で縮こまったサンドイッチが店員に運ばれているとカウンターへ我先にと向かう。店員のコールが尻つぼみになるほど早く受け取ると私は席を探し始める。昼先はまさに賭博の感覚だ。席があるという保証はないのだから。ならば席の空き具合を一瞥してから注文をすべきでは、という考えが浮かべてもおかしくないだろうが、私はそういう野暮なことをしたくはない。チェックしてからでは遅いと思うからだ。例え空いていないとしても呆然と立ちすくむわけではなく、店を出て歩きながら食事をすればいいことだ。腹を満たすという結果が変わることは無い。

 大抵、一人がけのカウンターが空いているためそこにトレイをゆっくりと置き、荷物を床に降ろす。サンドイッチを持つとできたての熱を感じ、私の体は今か今かと疼きを示すが、はやる気持ちを抑え、昆虫観察が如く包み紙をまじまじと見つめ、静かに空ける。服を脱がせるように。プレゼントを開ける子供ではない、私は少しばかし成長した人間なのだと言い聞かせながら。サンドイッチの姿を拝む時間だ。バンズの間にフライドチキンとソース、レタスが少し飛び出ているという、いつも通りの姿を見せる。毎回、これは量産された現代の偶像なのだと再認識する。自然と唾液が溢れ、腹がゴングを鳴らすころには私の口にサンドイッチが運ばれる。いつもの味だ。変わりは無い。言うとすれば少しばかし温度が違うだけ。これはタンパク質、つまり肉なのだと思わせてくれるフライドチキンのうまみと香辛料の若干の辛さ。ジャンクフードが体裁よく整えるために入れられたようなレタスは主張しすぎないが、シャキシャキとしたみずみずしさを演出し、ジャンクフードを食べているのだという一抹の罪悪感をぼやかしてくれる。そしてこれはマスタードのなのだろうか、公式サイトでも何も触れられていない黄色のソースはバンズとチキン、レタスととても合う。このサンドイッチに深みを持たせてくれるのだ。私は序盤、チキンクリスプを凝視しながら食べる。確かに食事をしているという認識を持たせるためだ。やがて咀嚼に集中することには眼をつぶり、いつも決まった味をかみしめる。こうすることで味を忘れさせないように身体に叩き込んでいる。なぜこのような事をするか。答えは簡単である。例えばファストフード店ではスマートフォンなどを閲覧しながら食事をする人を散見するが、そのような粗雑な食事方法はやはり食べたという事実が残らないような気がするのだ。栄養を取るだけではなく食べるという事を認識することが人間の食事ではないか。手持無沙汰な目線を泳がし、虚空を見つめて食事というものも乙なものだが、それはある程度食事をしたという記録を身体に残してから行う。このように書いた通り、サンドイッチを半分ほど食べた中盤は虚空を見つめ食事をする。特に何かを考えるという訳ではなく、ただ頭に身を任せるだけだ。泡のように自然と沸いた思いに馳せる。最後の1口、2口ほどになる時、我に返り、また凝視を行いサンドイッチに君を忘れていないよというシグナルを出し、胃に送る。そうして私はチキンクリスプを楽しむのだ。一つ食べる頃には満足し身体に活力が生まれる。

 そうするうちに私はマクドナルドに愛着がわき始めた。昼食の選択肢はやがてマクドナルド一つとなり、レジで呪文を唱える日々を送るようになった。昼の喧騒の中、店内には私の様に昼食をとる者もいれば、せわしない時間を過ごす者もいる。様々な人間模様を観察できるのもマクドナルドの魅力の一つだ。そして私もその模様に一つとなり、皆と混じり合うのだ。
 とある日。いつものように呪文を唱え、ポイントカードを差し出す私の一連の行動を遮ることが起きた。店員は呪文を唱える私の様子を少し憐みの目で見た後、おずおずとこう訪ねてきた。
「お水は要りますか?」
一瞬言葉を失う私がいた。ついにやってきてしまった現実。店員も私のかたくなにドリンク頼まない矜持を鑑みた瞬間であった。私は一言。
「ください」
いつもの威勢の良い声とは段違いのか細い声で答えた。注文を終え、やがて注文の品が届き、トレイにはSサイズの紙コップに水が注がれていた。しかしそれにフタは無い。水は水であるという事を意思表示するように。いつも内心に潜めていた思いが解き放たれた。

“チキンクリスプは喉が渇く。”

虚空を見つめ食事を始める。いつのまにか食事を終え、店を出る。寒空の下、肩を縮ませながら歩く私には、春の訪れはまだ、聞こえてこない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?