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コロナ禍を経て再燃した「海外で暮らしたい」欲求|編集者・立花実咲|私が学ぶ「私的な」理由

学ばなければではなく、学びたい、知りたいから学ぶ。自身の体験や問題意識に基づいた理由があると、学びはもっと豊かになる。学び直す道を選んださまざまな職業人に、学びのスタイルと「私的」な理由を伺います。

立花実咲(たちばな・みさき)さんは静岡県出身の32歳。ウェブメディア「灯台もと暮らし」を運営する株式会社Waseiでキャリアをスタートさせた編集者です。2017年には、同社の編集業務に引き続き携わりながら、林業が盛んな北海道下川町に移住。地域おこし協力隊としてさまざまな形で同町の魅力を発信してきました。

3年間の任期を終えたあと1年のフリーランス期間を経て鹿児島県大崎町へと移り、環境問題の普及啓発などの仕事に携わっていたという立花さん。ですが2023年秋、三たび見知らぬ土地への移住を決行します。今度のフィールドは、海を渡ってラトビアの首都・リガ。この9月からラトビア大学大学院で文化人類学を学び直しています。

立花さん(写真中央)と、大学院の友人(写真右)

編集という仕事との共通点、コロナ禍の下川町で芽生えた気候変動への危機意識……彼女が文化人類学を学ぶのにはいくつかの「私的な」理由がありました。しかし「今、海を渡らなきゃ!」と思わせた根底には、それらとは別の欲求があったといいます。

「学びたい」より先に「暮らしたい」があった

——なぜラトビアで文化人類学を学ぶという決断を?

その質問にお答えする前に前提をお伝えしなければなりません。というのも、私がラトビアに来た一番最初の理由は「大学院留学がしたい」ではなかったんです。

——留学したのは留学したいからではなかった。どういうことですか?

海外で「学びたい」の前に、海外に「住みたい」がまずありました。

これは決して突発的な欲求というわけではありません。大学3年になる前に休学して一人旅をしたときからなので、もう10年くらいずっと思っていたこと。ただ、2020年にコロナ禍に突入したことで、胸の内にしまってあったんです。

——海外に住むどころか自由に旅をすることもできない期間が続きましたよね。

それが昨秋、久しぶりに一人旅をしたことで、しまってあった欲求が再燃してしまって。

犬の散歩をするドイツ人の友人と

ちょうど1年前にヨーロッパの数カ国をめぐる旅をしたんです。今回の旅のテーマは、学生のときの旅で出会った人に再会すること。ドイツ人とチェコ人の、同世代の友人と数年ぶりに会うことができました。

コロナ禍を前にして、彼らもこれからの人生についていろいろと考えていました。そんな彼らと国も時間も超えて語り合えたことがすごく嬉しかったし、刺激になって。やっぱり内なる欲求はしまったままではダメなのではないか、ちゃんと紐解いてあげないといけないのではないかと思いました。

——止まっていた時計の針が動き出したという感じでしょうか。

一方ではウクライナとロシアの戦争が勃発するなど、世界情勢は不安定になってきていました。コロナも一時期より落ち着いたとはいえ、またいつ日本を出られない状況になっても不思議ではありません。また、家族も元気なので、介護などでどうしても離れられない状況もない。

そんなふうに考えたら「今行かなければダメだ」という気持ちになって。それで帰国してから1年かけて準備を進め、この秋に決行したかたちです。

「その土地の人」になるなんて可能なの?

2022年に旅したヨーロッパの街並み

——そもそも立花さんの「海外に住みたい」欲求とはどういうものなんですか?

一つはそこでの暮らし、生活への興味です。

私はラトビアに渡る前に下川町と大崎町という二つの町に移り住んだ経験があります。どちらも同じ日本ですが、そこに住む人の暮らしは大きく違っていました。

北海道と鹿児島では気候も違えば地形も違います。そうするとそこに住む人の生活やメンタリティも大きく変わってくるのを感じました。どちらに住んでいる方々も人懐っこいという意味では一緒ですが、それはまったく種類の異なる人懐っこさです。

まして海外ともなれば、その違いはもっと大きなものになるかもしれません。あるいは逆に、日本と同じことだってあるかもしれない。そういう暮らしを味わってみたいというのがまずあります。

——立花さんは取材でもさまざまな土地を訪れていますから、そういう面白さに触れる機会が多かったのでしょうね。

土地によって人の暮らしが異なる面白さは、学生のときの一人旅でも感じたことでした。でも、旅行客はどこまで行ってもお客さま。消費している立場、そこで培われたものをお裾分けしてもらっている立場でしかないというのも、同時に感じたことでした。

そうではなく、自分がその中の一人になるというのはどういう感覚なのか。そもそもそんなことが本当に可能なのか。そういったことへの興味があります。

——でも、海外で暮らす手段は留学以外にもあるはず。なぜ留学だったのでしょうか?

そう、当初考えたのは留学ではなく、就職だったんです。「暮らす」と言うからには、その国や隣国の人と一緒に仕事がしたい気持ちがありました。

単に働くだけならフリーランスビザを取得し、日本の仕事を持ってリモートワークすることもできますが、それでは結局場所を変えただけ。もちろんそのやり方を選ぶ可能性はありましたが、私としては仕事の中でも現地の人との関わりを作りたかった。

でも、その時点で私は外資系企業に勤めたことも、語学留学したこともなかったので。現実的に考えて、いきなり現地の企業に就職するのは難しいだろうと。それで留学という手段を模索し始めたんです。

留学直後、風邪をひいてしまった立花さん。日本人の友人が食材を差し入れてくれた

——今のお話にも通じると思うんですが、立花さんが考える「暮らし」ってどんなものですか? というのも、単に「住む」のと「暮らす」のとでは微妙に違う気がするので。

暮らすとは何か、か……。私にとっては、一つは「その場所に自分のコミュニティがあるかどうか」ですかね。

そういう意味では、大崎町に移住してすぐは苦労しました。端的に言うなら、引っ越してしばらく友達が全然できなかったんですよ。

——友達が。

誤解しないで欲しいんですけど、町の人や職場はあたたかく迎えてくれました。そうではなく、引っ越したのがコロナ禍の真っ只中だったことが大きくて。

まだみんな気を張っていた時期で、集まってご飯を食べたり遊びに行ったりする機会もほとんどなかった。それでなかなか友達ができなくて「受け入れられている感じ」が得づらかったんです。

本当に事務所と自宅を往復するような毎日で、東京にいたときよりも東京っぽい生活と言いますか。仕事のやりがいなどを一旦置いておくと、大崎町である必然性を感じづらい瞬間がありました。その期間は「暮らしている」実感がなかったかもな、と。

ラトビアではまず、大学という「属する場所」があることに助けられています。知り合いというより、友達がいるかどうかが自分にとっては大きいのだなと感じています。

——noteにもよく「大学の友達と……」という記述がありますね。

そうそう。「ああ、良かった。友達ができた」と思って、嬉しくてつい。

暮らす、編集、文化人類学

ラトビアの首都・リガ

——最初にあったのは「海外で暮らしたい」欲求で、そのための手段として検討したのが「大学院留学」だったと。そこで改めてお聞きしますが、なぜ「ラトビア」で「文化人類学」だったんでしょうか?

そうですよね。「海外で暮らすために大学院に留学する」といったら、その次には当然「どこで」「何を」学ぶのかという話になるわけで。

それでいろいろな大学を探し始めたんですが、そこで感じたのは「大学はスキルを学ぶところなんだ」ということでした。

——スキルを学ぶための大学。

私はどちらかと言えば、大学を「教養を学ぶ場所」だと思っていました。でも、実際に探してみると、医者や研究者、アナリストなど、専門職に就くための学部や間口ばかりが目について。だから一度は「私も海外の大学に行くとなったらそういう道になるのかな」と納得しかけたんです。

でも、情報収集のためにシラバスをめくっていて「やっぱり無理だ」と思いました。私は性格上、前のめりに興味のあることでないと長続きしない自覚があったから。

たとえ「海外で暮らす」という長年温めてきた夢のためとはいえ、まったく関心も経験もない分野に2〜3年も飛び込めるだろうか。しかも決して得意ではない英語で、です。そう考えたら「ちょっと違うな」となって。

たとえ具体的な技術職につながっていなかったとしても、自分がずっと興味のある学問を勉強した方がいい。その方が長続きしてちゃんと卒業もできるだろうと思い直しました。

それで文化人類学にしようと決めました。そこから学費やタイミング、英語のスコア基準など諸々の条件で絞っていって、最終的に残ったのがラトビアという感じです。

よく行くカフェで、大学院の課題と格闘中

——まだ数カ月ではありますが、実際に行ってみてどうですか?

やはり興味のある分野を選んでおいてよかったです。

今は文化人類学の基本的な考え方や観察の仕方などを学んでいて、そのための文献を読んで小論文を書いたりしているんですが、なにしろ読むものの量がものすごく多いんですよ!

これがたとえばデータアナリストのための授業だったら、よく知らない人のまったく知らない視点の文献ばかり読まなければならなかった。それはすごくしんどかっただろうなと思います。

——文化人類学って、主にフィールドワークを通じてその土地の文化や暮らしを明らかにしていく学問だと理解しているんですが、ライター・編集者としていろいろな土地を取材してきた経験と今学んでいることとで通じると感じる部分はありますか?

すごくあります。薄々感じていたことではありますけど「私がやってきたことは文化人類学と繋がっていたのか!」と思いました。

ただ、私はこれまでそれを体当たり的にやってきただけ。体系立って知っていたわけではありませんでした。それをここへ来て勉強できるのはすごく学びになると感じます。

あまり型にはめられるのは得意ではないんですけど、そのくせ型には興味があるというタイプなので。すごく面白がることができています。

——やはりそれまでやってきたこととつながっているんですね。

ただ、メディアと文化人類学では違うと感じるところもあります。

メディアには必ず、運営するライターや編集者、母体となる企業や団体の意図があります。「どんなメッセージ」を「どんな人」に届けるのかということがかなりシビアに言語化されている必要がありますよね?

文化人類学ではむしろ「それを持ってはいけない」という主張もあります。あくまで客観的に、ありのままを観察せよ、と。そのための具体的な方法としても、少しでも誘導尋問のようになってはいけない、とか。

——メディアの仕事をやってきたぶん、それが難しいと感じることも?

どうでしょう。それはあまりないですかね。むしろ日本人というまったく異なるアイデンティティを持つことが強みになると感じます。

ラトビア人がラトビア人にインタビューするよりも、ラトビアのバックグラウンドを持たない私が疑問に思ったことを素直に聞く方が、観察の最たるものに近づけるのではないかと。

——よそ者だから聞けることがある、というのは確かにありそうですね。

ただ、それは私のもともとの欲求とは真逆の要素でもあるから悩ましい。

——そうなんですか?

まったくのよそ者だからこそ、学問としては適切な姿勢で適切な質問ができるかもしれないけれど。私の最初のモチベーションは「その土地の暮らしに溶け込みたい」というものだから。「自分の矛盾に気づいてしまったな」みたいなことも感じているところです。

今はこの贅沢を味わい尽くしたい

夏はよくベンチに座って課題の論文を読んでいた、ラトビアの公園。
秋の美しい紅葉を見に、最近もよくこの公園を通って出かけているそう

——なるほど、現地の暮らしに溶け込みたいけれど、溶け込むことを許されないというジレンマが生まれるわけですね。その矛盾はどうなっていきそうですか?

今はまだアルバイトも始めていないし、現地の暮らしを疑似体験している感覚なんですが。でももしかしたら永遠に、死ぬまで疑似体験なのかもとも思ったりします。

これはラトビアに限った話ではなく。私にはどうしたって観察する人の視点が抜けないところがあるので。下川に行ったときも、大崎にいたときも、こっちへ来てもそう。すぐに「鳥の目」になってしまうんです。これはもう、性格ですね。

——2年間の留学を終えたころにどうなっているか、またお話を伺えたら面白そうです。では、現時点で「文化人類学でこの分野を追求したい」というイメージはありますか?

「森との共存」をテーマにしようかと思っています。

ラトビアは日本と似ていて、森林面積が国土の5割近くを占めています。林産業に携わる人も多く、北欧が近いので出稼ぎに行く人も結構いるそうです。宗教という意味でも森が大切にされる「ラトビア神道」という信仰があって、キリスト教よりどちらかと言えばそちらの信仰が根付いていると言われることもあります。

——4年間を過ごした下川町も林業が盛んな土地でしたね。

そう、下川には間違いなく影響を受けています。文化人類学ともう一つ、気候危機も興味がある大きなキーワードだったんですが、それもきっかけは下川での経験が大きくて。

ちょうど協力隊の任期を終え、次の身の振り方を考えていたタイミングでコロナ禍に突入したんですけど。当時「人の移動がなくなったことで河川の水が綺麗になった」「温室効果ガスが減った」といった報道があったじゃないですか。ああいうニュースを目にしたことで、人が自然環境に与える影響の大きさを実感するようになりました。

下川にはもともと環境問題に関心を持つ方々が多い気がして、そこでの暮らし自体も私が環境問題に興味を持つ大きなきっかけになっています。ただ、仕事が忙しくてこれまでは深く掘り下げることができていなかった。それがコロナ禍になって家で過ごす時間が増えたことで、本を読んだりドキュメンタリーを見たりして自分なりに勉強をするようになりました。

——暮らし、森、エネルギー……これまでの人生で触れたきたいろいろなものがつながって、学ぶ理由ができているんですね。

テーマを林業に絞るか、それとももう少し暮らしというか「森の恵みをどう生かしているか」といった話にまで広げるのかはまだ決めていないんですが。

森との共存の仕方が気候危機の具体的な解決策にどう結びつくのか、そこで育まれたメンタリティがどう生きるのかをテーマにしようかなと、漠然と思っているところです。

文化人類学も気候危機も、切り口が多すぎるんですよね。一方で時間は有限なので。このまま興味のあることをバラバラとやり続けるよりは、トピックやフィールドをある程度絞ってみようという気持ちになっています。それで今は森というものに優先度を置いている感じです。

ラトビアの海辺にあるリゾート地・ユールマラ

——大学院での2年間を終えたあとのことは?

それは本当にいろいろな人、それこそラトビアの同級生にもよく聞かれるんですが、今は全然考えていなくて……。

せっかくこれだけ腰を据えて勉強できるボーナスタイムみたいな時間を作ったのだから、今は与えられた課題をやったり、いろいろなものを読んだり体験したりすることに集中しよう、と。そうしたら次にやりたいことがまた見えてくるだろう、という気持ちでいます。

——日本に帰るかどうかも?

全然決めていないです。

社会人にもなってこんなに勉強ができるって、すごく贅沢だなと思うんですよね。今はその贅沢を噛み締めている感じです。

高校生のころの私は、世界史で赤点を取りかけたくらいだったんですよ。ヨーロッパの横文字の人の名前とか、本当に全然覚えられなかった。別に英語ができたわけでもないですし。当時の私が今の自分を見たら仰天するくらいだと思う。

あのころはまったく頭に入ってこなかった世界地図だけど、今は何がどこにあって、というのがわかる。やっぱり学びたいタイミングが勉強するタイミングなんだと思います。

写真提供:立花実咲 執筆:鈴木陸夫  編集:友光だんご(Huuuu)