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発達障害・精神障害の死にたがりが辛くなること

こんばんは。死にたがりの孤高です。
noteはキラキラな人たちがいっぱいポジティブなことを仰ってくださいます。かく言う私も、表の人間ではそんな感じです。

でも、敢えて、誰かの為になりそうな「ネガティブ」なことを書くのも良いのかなと思い、筆をとります。

私は精神障害を12年ほど患っておりまして、発達グレーで幼少期から周りとの違いに悩み苦しんできました。

最初に「死にたい」と自覚したのは、小学校4年生の時。
当時は夜、一人部屋に籠もって、死にたい気持ちをいっぱい自由帳に描いていました。自分なりに吐き出したかったのだと思います。学校でも家でも、明るい良い子を振る舞っていました。親を支えて、しっかりした子。そんな私が死にたい気持ちを周りに吐露したら、周りが悲しむと思って言えませんでした。それに、何となく後ろめたい気持ちがあって。小学生で死にたいって思っている時点で、私、おかしいんじゃないかとも疑いました。でも、誰にも言えず、その時から時々、胸の内に「死にたい」気持ちが浮かぶようになりました。

そんな気持ちを抱えながら、高校生になって。
受賞歴があったり、成績が良いと思われて、部活の先輩や同級生から嫌がらせをされるようになって、それは徐々に大きくなりました。私も当時、付き合い方に偏りがあって、それをよく思わなかった人たちも少しずつ増えていって。知ってる人からも知らない人からも「死ね」「消えろ」と言われるようになり、学校のどこにも居場所がなくなってしまいました。

その頃から「死にたい」という気持ちが一層強くなったように思います。
学費を貯める為に、睡眠時間を数時間に削って、働いて働いて、うつ病になったことが決定打になりました。何度か死のうと行動を起こしました。

その度に母は、泣いて怒りました。「あんたが死ぬなら私も死ぬけれど良いの?」と毎回言うのです。それは何の救いにもならなかったし、余計に辛くなった言葉です。

私のロジックとしては、鬱になって、勉強も働くことも、何もできなくなったけれど、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、トイレに行ったり人間としての生活はしないといけない自分を殺したかったのに、というもの。
だから、何の罪もない母を巻き添えにして死ぬことほど、心が痛むことはなかったです。むしろ、小学生の頃から親を養う為に、勉強して、早く稼げるようにならなきゃと思っていた私からしたら、心が殺されたようなものでした。

発達や精神に障害がある私の「死にたがり」な心

この「死にたがり」は、発達障害や精神障害になってみないと分からない苦痛なのだと私は思います。普通からのズレを抱えて生きることは、生涯に渡っての苦しみです。自分が意図していない言葉や行動がどれだけ周りに不快を与えているか、またそれを思い知らされるか。人は他人と関わらずには生きていけないのに、他人と関わると心が痛いことばかりで。

故に「死にたい」気持ちが、いつも付き纏います。
それでいて、普通の人は、そんな私たちを励まそうとしてくれたり、叱咤してくれる。それは、とても痛くて辛いことです。

「生きていれば良いこともあるから頑張れ!」
「心が弱すぎるから強くなれ!」

いやいや、だって、あなたたちは私みたいに、普通とのズレにいつも苦しんでいる側の人間ではないじゃないですか、って心の中では思います。

その上で「頑張れない自分はダメだ。」「心が弱い自分がダメだ。」と落ち込みます。自分のズレを理解しているからこそ、自分自身を信用できない、肯定できないのです。

私を受け止めて、死にたい気持ちを和らげてくれる人

私には弟がいて、彼も発達グレーで、適応障害を抱えています。私と同じように学校や会社というコミュニティで長年苦しんできたようです。

先日も弟が「生きるのに疲れた」と言っていたので、少し話をしました。私が「死にたがり」の気持ちを爆発させている時も、彼は真剣に向き合ってくれます。そして、彼と話しているうちに「死にたがり」は小さくなります。

まず、私が「死にたがり」が溢れてくる気持ちを話すと、彼は「それは辛かったな。しんどかったな。」と、ただただ聞いてくれます。

障害を持たない人は、最初に「なぜ、死にたいなんて思うんだ?」「死にたいなんて言うもんじゃない。」という否定から入られることが多いです。
ただ、今にも死にたい気持ちに襲われている時に、これらの言葉を突き付けられると、余計に辛くなります。

そして、弟は大体「仕事をそんなに頑張らなくていいよ。もっと自分を労ってくれ。」「いつも頑張らなくていい。休んでいいんだ。」と言ってくれます。実際、いきなり仕事を辞めることはできないのですが、少し気持ちが楽になります。

私が楽になった考え方

弟がこうして話を聞いてくれたりするわけですが、いつもいつも頼るわけにはいかないので、どうしてもという時だけ連絡しています。

8割方、私は死にたいと思った時には、一人部屋でとにかくググります。「確実に死ぬ方法」や「海外の安楽死制度」などを頼ろうと検索し始めるのが癖です。

大体、最終的には、やっぱり100%確実に死ぬ方法というのはなくて、もし助かってしまったら後遺症が残って、今より周りにもっと迷惑をかけるかもしれない...。安楽死も今すぐはできない...。となって、思い留まることが多いです。

ただ、それでも気持ちが押さえきれない時があります。頭の中に、無意識にどんどん死ぬための方法が浮かんできて、行動に移したくなります。何度か行動に移してしまうことがあります。幸い、後遺症は残りませんでした。

行動に移してしまってから、こんな時に為に、死にたくなったら見るものを日々ストックしています。

僕もそうですが、この年になると「不急不要」の存在になります。早い話が「要らねえじゃないか」という(笑)いなくなっても、誰も困らない状況になります。そこには、意味も何もない。世界には無意味なものがたくさんあるんです。

では、何事にも意味があると思ってしまうのはなぜか。
それは、我々が人間のつくった環境にいるからです。人為的な環境にいれば、すべての物事に意味があると考える。だから僕は「自然の中で過ごせ」と言っているんです。

養老孟司さんの言葉です。
冒頭だけ読むと、不急不要なら死んでも良いと早とちりしてしまうかもですが、「死にたがり」の気持ちが大きくなっている時は、生きている意味や価値を探しがちで、その時に負の思考ループから脱するのに、この言葉は私にとって有効です。

「そうか、そもそも私が生きる意味なんて、仮にあったとしてもわかるはずもなく、考えることすら無意味だ。」とループを終了させてくれる言葉です。この自分の生きる意味・価値を探す思考から抜け出せるだけで、とても楽になります。

他にも以下のような言葉を仰られています。

僕が思うのは、「対人」と「対物」を分けたときに、若い人は「対人」に集中しすぎているのではないかと。子どもの自殺はいじめが原因とかよく言われるけど、対人ですよね。そんな時、僕は「山に行きなさい」とよく言っています。人の顔ばっかり見ているんじゃなくて。

山は「炎上」したりしませんから。「いいね」「わるいね」なんて言いませんよ。

物との関係をもっと大きくしたらどうですか。ただ、都会はそれがなかなかできない。僕なんかが子どもの頃だったら、山へ虫捕りに行っちゃう。都会は子育てに向かないんですね。

ポイントは「対人」「対物」という考え方にあると思います。
人に向き合いすぎて疲弊しているから(私は)死にたがっている、と理解できます。「物との関係をもっと大きくする」とありますが、確かに無心に「モノ」に向き合っている時間は、人のことを考えなくていいので、少し心を解放できます。

自然に身を寄せるというのも良いのかもしれませんが、私はインドアな人間なので、一心不乱に(他者の繋がりを考えなくて良い)ゲームをやっています。あまり頭を使わない格闘ゲームやアクションゲームが個人的にはオススメです。

また、先日もご紹介しました、坂口 恭平さんの記事も助けになりました。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74535

この記事にある「破壊的な反省をしてしまう」状態に私もよくなります。
大体、以下のルートを辿ります。

【出来事】→【関係者から何か言われる】→【(出来事を悪く捉えて)私のせいで...?】→【私がいたから、こうなったのでは...。(存在の否定)】→【私がダメな人間だから、こうなった。(勝手に出来事と自分の人格を結びつける)】→【生きている意味と価値がない...。】→【死にたい】

坂口さんの仰る「健全でない反省」に陥ります。
しかも、冷静に考えれば、全く私が悪くないことまで、心身が疲れていると、それすら自分のせいに思えてしまいます。

この間は、私の意見が一案も通らなかったというか、声の大きい人に全てかき消されたのに、プロジェクトがポシャったのは私のせいだと言われたのに、そうか...と思い込んでしまいました。

そこに、全くコミュニケーションをとっていない人から「頭が悪い」「日本語がおかしい」となぞの指摘をされて、私はなんてダメな人間なんだ...となってしまって。

今日思い止まって生きていられるのも、弟が話を聞いてくれたり、世の中に自身の考えを発信してくださる人がいたりするからなので、大変有難いです。

死ぬこと自体が怖いのかは、正直分かりません。ただ、行動を起こして、死にかけて、後遺症が残らずに今も生きていけることは、ある意味、奇跡で。こういうことがあると、身内を心配させてしまうし、事実を話せないまでも勘が鋭い人には「何かある」と思われて信用を失ってしまうので、それがよくないですよね。だから、確実に死ねないのに行動を起こすのも間違っていると思うので、今は行動を起こさずにいるのが一番だと考えています。

また、そう遠くない日に「死にたがり」が大きくなってしまうのだと思うのですが、障害を抱えている私はこんな風に考えて、日々生きています。もし、他人の「死にたがり」を見つけても、安易に否定しないであげて欲しいなと思います。



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