危険回避思考とチャレンジ精神

最近、ボルタリングをやり始めた。一度やったことがあるものの「ちゃんと」やったことはなかったので、手取り足取り色々教えてもらいながら。

もともと運動は好き。今もバスケを週に1回はやるし、今年になってから運動する機会を増やすために週に2回くらいはジムに通っている(半分はダイエット目的なのは…まぁ…)なので、「ボルタリングをする」ということ自体は面白いし楽しい。まだまだ全然初心者なので身体の使い方が下手ですぐ筋肉は疲労するし、一番下のレベルですら登れないことも多い。でもそれらの問題は「やらない、やりたくない」の理由には全く、ならない。
しかし、本当にちょっと壁の種類が変わっただけで一気に「恐怖心」が芽生える。壁が高い(高所恐怖症)、落ちるときに顔を怪我しそう、着地した時膝への影響が…と運動には怪我は付き物という言葉通り、「怪我のパターン」や「マイナス要因」が登ろうとしている壁を見ていると頭をよぎることがある。今までの私だったらそれでもガンガンチャレンジしてうまくなろうとするが、今回はやたらと抵抗心が出る。
膝の怪我が大きな原因であることは間違いないが、バスケはボルタリングと比にならないくらい負担がかかるし、接触競技なので防ぎようのない衝撃すら加わる。それに比べればボルタリングは自分でコントロールできる範囲が大きいのでうまくやっていけるはずである。それでも…バスケよりも積極性に欠けるのは「下手(経験不足)」だからではないか。
運動はある程度うまくなれば、怪我をしにくくなれる。だが、今の自分は下手すぎて怪我を防ぐ術がない。ボルタリングに対してこういう時はこうすれば大丈夫、ここからは止めておいたほうがいいという指標が自分の中で持てていない。指標がないので漠然とした不安を持ってしまい、恐怖心になって、チャレンジ精神が落ちてくる。
指標の持ち方はわかる。やるしかないのだ。そして、うまくなる。うまくなるにはやるしかないけど、やるのに二の足を踏む…矛盾である。

ボルタリングをやらないという選択肢ももちろんある。でも、今の状態の自分が、そこで止まっている自分が「悲しい」と思う。うまい人が横で教えてくれるので、新しいことにチャレンジするにはすごくいい環境なのに。
社会人になって学校のように簡単に「休む」という選択肢は取れなくなった。自分で「生活できる」ことの難しさも感じた。そうなったら頭によぎる「こうなったらやばいんじゃないか?」と先を見越した危険回避への思考回路が強くなった。そうやって、起こるかもしれない危険を回避していたら…できること、先が見えることばかりに固執し、新しいことにチャレンジできなくなってしまうのではないか。

いつまでもチャレンジ精神は持っていたい。ボルタリングに対してチャレンジ精神を持たなくてもいいんじゃないかという見方もできる。でも、この競技はすごい。ずっと自分と向き合う競技だと思う。苦しい中で次の手をだすか、ここで耐えるか、やめるか、進むか、諦めるか…。どんなにうまい人でも苦しそうな場面がある。でもそこで「耐える」のだ。自分の限界はここじゃない、まだいける。そうやって高みを目指しているのを見ると「強さ」を感じる。競技のうまさだけではなく、人としての「強さ」も。そういうのを私も持ちたい。

だから、やりたい。
矛盾だらけだけど、自分を成長させる「布石」の一つとして。

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