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教育がまわりまわって

僕の経営する『層雲峡ホステル』は夏と秋の期間営業のため、冬は別の仕事をしていて、ここ数年は学校の先生をやっている。


そんな短期間だけ都合よく先生ができるののかとよく聞かれるが、なんだかできるのだ。

多くの学校が人が足りていなく、年度の途中からでも人が欲しい状況になっているためだ。(これがまず大きな問題だけど、ここでは置いておく)

僕は中学生のときから先生になりたかった。

理由は、当時どうしても苦手な先生がいて、これなら僕がやったほうがいいだろうと思ったから。


きっかけこそひねくれていたが、そこからは良い先生と巡り合ったり、学校という可能性やエネルギーの集まる場は良いなと感じて、将来の夢は学校の先生になることと胸を張って言えた。

そして進路に悩むこともなく、それに見合った成績を取るために勉強して、順調に地元の教育大学に進むことができた。


今思えばその順調というのがよくなかったと思う。

成績、部活、バイト、どうやったらつまづかずに先生になれるのかを考えて生きていた。


そんな迷いのない大学3年のときに行った海外旅行で、進路に対してはじめて挫折をした。

年齢の近い旅行者たちと会って、就活や、物事に対する考え方、これからの目標などを聞いているうちに、自分は最短距離で先生を目指してきたから、他のことを知らないでここまで来てしまったのだとそこでようやく気付いた。

学校の外の世界を知らないで、先生はできるのだろうか。生徒から進路のことを色々と相談されたらどうしよう。つまづいた生徒に何て言えばいい。何もわかんない。やばい。


最短距離ではなくまわり道が必要かも。

何か別の仕事を経験してから先生になろうと舵を切りかえし、道庁の職員になって、現在は自営業に挑戦している。


まわり道が思った以上に楽しく、今のところ自営業を辞めようとは思わないが、まわりまわって先生の仕事もできている。

都合が良いかもしれないが、自営業をやりながらの先生はどちらに考えが偏ることがなくて自分にはあっている。(飽き性ということもあるが...)

そうして毎年冬だけ関わっている学校という職場。

現場は、思ったより泥臭く、先生たちは目の前の物事を処理していると1日があっという間に終わる。


“先生”と言うと、周りから尊厳ある人に見えてしまって、少しでもダメなところがあれば多方から「しっかりして」と言われてしまうのが辛い。

でも実際は先生だって偉くも賢くもない普通の人だ。それでも“先生である”という期待に応えようと皆が皆、周りからのプレッシャーの中で頑張って立っているように感じた。


ただ、先生の業務そのものや考え方に関しては、外から学校に入っている身からするとびっくりすることがたくさんある。(まじで)

学校の常識というものはひとつの建物の常識としてはなく、今後の社会に通じていくものにしていかなきゃなあと感じたりもした。


そんな愚痴を言っていてもしょうがない。
前向きに革新していく必要がある。

物事を変えるには時間とエネルギーがいる。
だが1日が始まったと思えばあっという間に放課後、よっぽどエネルギーがある人たちがいない限り中からの革新は難しい。


時間がない。余裕がない。

すべての原因は教育に関わる大人たちの時間がないこと、学校の外を見て知る余裕がないからだと感じている。(前談の教員の数が足りていないところも大きい)

一方の生徒はコロナ禍での学校生活。

マスクを着けて入学して、友達の素顔がよくわかってない子もいる。宿泊研修や修学旅行が中止になったり、机をつけて給食が食べられないなど制約が多い中で“団結する”という昔からの部分は変わらず学生生活を送っている。

コロナ前に学生生活を送っていた身としては、なんてかわいそうなんだと思ってしまうが、生徒たちはその中でも楽しみを見つけてやっている。大人から見えないところでもオンラインで工夫しながらコミュニケーションをとっている。


苦しいのは、できることできないことが変わっても、大人からの期待は変わっていないということ。(個性を伸ばそうと20年前から言われているけど、現在もノートを黒板の通り写して添削されているような)


良い企業に入って夢を見ることよりも、どんな暮らしがしたいかを自分に問い続けていかなくてはいけない時代。

先生の言う通りやって成績が良くなるからやるというのなら昭和から何も変わらない。平成を越え令和、時代は進んでいる。

では、そのように世の中が変わっていく中で、教育はどう変わっていけばいいのだろう。


もちろん正解はないが、僕の意見としては、それぞれの豊かな生活を実現するために、知らない物事とぶつかる回数を多くしていくこと。

そして物事すべてに対する視野を少しでも広くすることだと思っている。
(具体的には、生徒も先生も学校の外に出ること、学校へ外部講師をたくさん入れることとか)


そうやって知らないことを知っていくと、自分の好きが見つかるだけでなく、相手の立場を想像できるようになったり、俯瞰して考えることができたり、誰かと比べることもしなくてよくなったり、心も折れづらくなると思うから。


極論、学校に行かないって子がいても良いじゃないか。

それは大人たちが知らない、経験したことがないから学校に行けというわけで、考えること、行動すること、探求することを忘れなければその先にはちゃんと明るい未来がある気がするから。


そして、カリキュラムうんぬんの前に、学校はこうあるべきみたいイメージを中と外から少しずつ前向きに変えていく必要があるのではないか。

そのためにアタックするのは、職員室、各家庭、教育委員会、文部科学省。。

なんだか戦う相手が “社会全体” ということになってくると、頭がくらっとして昼寝でもしたくなる。


でもそんな中で僕にできることを細かく考えていくと、やっぱり目の前のひとつの授業だし、生徒ひとりとの関係性からなんだと思う。



そして教育の場は学校だけではないことにも気づく。


生徒だけじゃなく、先生や保護者の視野を広げることが、まわりまわって子どもたちの視野を広くしてくれるのではないかと。


宿と学校。一見別のものだけど、つながっているのかもしれない。

上川町、層雲峡を知らない人が訪れること、ゲストハウスを知らない人が泊まってみること、宿泊業を体験してみること、山に登ってみること、知らない人と話してみること。

それをしてどう感じるかはわからない、嫌いと思ったっていい。そんな知らないことをやってみることを積み重ねることで、自分のことが、他人のことがわかってくるはず。


大袈裟かもしれないが、それらは僕が宿をやりながらできる教育なのかもしれない。

そう思いはじめてからは、時間に余裕のある人だけでなく、夏休みに時間ができる学校の先生や、企業で働いている人にも宿のヘルパーに来てほしいと思っている。

社会人になると、周りの状況と比べることをしてしまったり、単純に時間が取れなかったりで難しいかもしれないが、知らないことを知ること、挑戦した経験はまわりまわって自分に返ってくる。たぶん。


ということで、今年も大人のインターンとして、教育現場だったり、企業に属している方を対象としたヘルパーさんを募集しています。
7月下旬~8月中旬に7~10日間ぐらい。年齢は20,30代。(詳しくは宿のHPをみてくださいね)
僕たちから見える視点はもちろんですが、あなたの視点をこちらへ見せてくれると僕たちもうれしいです。


卒業や転勤を経た春。4月から1年をカウントする人も多いのではないでしょうか。

新しい環境への不安と楽しみ、いつもと歩く道が変わったり、お昼ごはんも新しい人と。

なんだか外に出ると大きく息をすってしまう。

これがエモいってやつですかね。若い人、エモいを教えてください。勉強させてください。


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