キリストは高機能自閉症だったか 2

(読了目安9分)

前回は以下太文字の内容で終わりました。

キリストもおそらく「高機能自閉症」か、それに近いものだったと思いますが、マスターがそう思うきっかけになったエピソードが2つあるんです。


・・・では、その2つのエピソードを書いてみますね。


ひとつは、キリスト系大学の女子大生から聞いたキリストの暴力の話、もうひとつは、「パンとワイン」の話です。



◎キリストの暴力



「マスター、私、ゼミの先生から聞いたんです。キリストって聖人だと思われてますけど、なにかにムカツクと、あたりかまわず暴力を振るったらしいですよ」


・・・この言葉は、キリスト系の大学に通っている女性から出たものでした。


大学の教授から聞いた話だったようですが、マスターはこの話に一理あると思いました。


キリスト系大学は、キリストやキリスト教の研究をしています。
キリスト教について詳しい人や興味がある人がたくさん集まりますから、情報交換や資料がそろいやすいわけです。
中には「キリストの人物像」に興味を持って研究している教授もいて、彼女はその教授から、キリストの暴力について聞いたとのことでした。


「暴力を振るう・暴れる」というのは、自閉症系の人によくある症状です。
俗に言う「パニック・かんしゃく」というもので、自分の思い通りにならないとき、突発的に暴れることがあります。
これは、自分を落ち着かせるための「反射行動」みたいなものだとも考えられています。


キリストに暴力沙汰があったなら、おそらくこの系統のものだったと思います。


「火事場の馬鹿力」という言葉がありますが、パニックになったときは、これと似た状態になります。
我を忘れて「馬鹿力」を発揮していますから、キリストが暴れ出したら、大人が複数でおさえても止められないほどの力だったかもしれません。
現代では、「馬鹿力」が出る仕組みはわかっていますが、昔の人は、「神が宿って人間とは思えない力を発揮した」と解釈するはずです。
(金縛りを悪魔の仕業だと思っていたのと同じです)


それでもキリストが現在でも支持されているのは、結局、それを補うほどのカリスマ性があったからです。
暴力だけを見ればただのアブナイ人ですが、暴力で迷惑した何千倍、何万倍もの人が、彼に救われたわけです。


現代でたとえれば、一部のミュージシャンは、コンサートの終わりに自分が使った楽器や機材をメチャメチャに破壊したり、飲み屋で飲んで、店を破壊してしまったというエピソードがあります。
他の人では、お酒を飲んで暴走族のリーダーに暴力を振るった歌舞伎界のカリスマもいました。
彼らはきっと「神憑り状態」、または「変性意識状態」など、おそらく普通と違う状態のときに他人に迷惑をかけましたが、音楽や歌舞伎でそれよりもはるかに多くの人を喜ばせてきたので、事件を起こしてもカリスマでいられるわけです。


キリストは、上記のようなカリスマ芸能人の、カリスマ中のカリスマだったと考えられます。
他人を魅了してやまないすごい人物だったんでしょう。


キリストがなんらかの脳障害を持っていた・・・そう考えれば、とても魅力的なカリスマ性の反面、衝動的な暴力事件があるのはあたりまえです。
そして、暴力事件を起こすたびに「神が降りた!神が怒っている!」とされれば、信者が減らなくてもおかしくないとわかります。


当時は客観的事実を記録する機器がなく、キリストの暴力事件が録画されているわけではありません。
キリストの暴力の話は、あくまでも仮説として考えてみてください。



◎パンとワイン


もうひとつのエピソードは、「パンとワイン」です。


キリスト教では、宗派によっては「聖餐式(せいさんしき)」とか「聖体拝領(せいたいはいりょう)」という儀式があり、そのとき、パンとワイン(ぶどうジュース)を口にするそうです。


※以下は食事を終わらせてから読んだ方がいいと思います



みなさんは「カニバリズム」という言葉を知っていますか?


人が人の肉を食べる「人肉食」という意味です。
飢餓状態で命を繋ぐためにやむなく食べるのではなく、嗜好として、たとえば、宗教的儀式や薬用としての人肉食のことです。


恐いですよね・・・マスターもなんだか恐いですが、キリストについてのエピソードでこれを外すわけにはいかないんです・・・


日本では「骨噛み(ほねはみ)」という習慣がいまでもあるようですが、これはカニバリズムの名残りと言われています。
また「食べちゃいたいぐらいかわいい」という表現も、カニバリズムにつながります。
「人肉食」を目的とした殺人事件がありますが、これもカニバリズムの一種です。
犯人は、自分が生き延びるために人を食べるわけではありません。
彼らは、変性意識状態やマイナスの意味の「神憑り状態」になって事件を起こしてしまうんだと思います。


それから、出産後の胎盤を食ベる習慣が残っている国もあるようです。


「カニバリズム」は昔からある文化だということは理解できますが、ここで気になるのが、キリスト教で言うところの、「パン(キリストの肉)とワイン(キリストの血)」です。
彼がこの世を去る時、弟子たちに以下のように言ったという説があります。


「私が死んだら私の身体を食べなさい。私は生まれかわり、みなさんに私が宿ります」


現代よりもカニバリズムが一般的な時代、しかも高機能自閉症の人なら、弟子たちに対して、なにかの拍子にこのような指示をしてもおかしくありません。


キリストの身体は弟子たちが食べたらそれで終わりです。
後世まで末永く自分の血や肉を与え続けることはできませんから、その後のキリスト教では、パンをキリストの肉に、ワインをキリストの血に見たてて、後世に伝えようとしたようです。
パンとワインは、カニバリズムの名残り、と言えるかもしれません。


興味がある人は、「キリスト カニバリズム」などで検索してみてください。
きっと勉強になります。


◎伝説と事実と


モーツアルトやアインシュタインの驚異的な能力が、アスペルガーやサヴァン症候群で説明できたように、もしキリストが「高機能自閉症」だったと仮説を立てれば、彼にまつわる多くの謎が説明できるかもしれません。
(すでに学者の中でその研究が終わっているかもしれませんが)


以下に、「暴力」と「カニバリズム」の二つと、「世代を超えた伝言ゲーム」を組み合わせ、キリストにまつわる話をマスターが作ります。


伝説は、事実とは逆になってしまうこともある、という話です。
「噂話は信じないようにね」という教訓にもなると思います。


<伝説>

その日キリストは、小さな村を通りかかり、お腹を空かした村人たちのために小さな石をパンに変え、桶に入った水をワインに変える奇跡を起こしました。
村人たちは大喜びし、そのパンとワインを手にして村中を走り、踊り、喜びを表現しました。
みんなキリストに感謝し、キリストの周りには村人が集まりました。


<事実>
その日キリストは、小さな村を通りかかり、パンをもらいました。
パンの中に入っていた小さな石を噛んでしまったキリストは、怒りのあまり「パニック状態」におちいり、人が変わったように村人を追いかけまわしました。
暴れるキリストをおさえつけるため、何人もの男たちがキリストの周り集まりました。
キリストの傷口を洗った桶の水は、ワインのように赤く染まりました。



こんな感じです。
後者の話が事実だったにもかかわらず、「世代を超えた伝言ゲーム」で事実が逆転したり、側近や弟子たちによって美化されて伝わり、事実でないことが後世に伝わる可能性があるわけです。


◎まとめ


「キリストは高機能自閉症だったか」・・・この答えは、今となってはもちろん誰にもわかりませんが、そう推測することで、多くの謎が解けるような気がします。


さて、大切な事実として、キリストの影響は2000年以上続いています。
彼に救われた人は数限りないと言ってもいいはずです。


一方で、キリストの言葉を無視したのか、いろいろな利害が絡むのか、キリスト教に限らず、とにかく宗教戦争はあとを絶ちません。
また、キリスト教にまつわるトラブルも後を絶ちません。


もしキリストがいなかったら世界はどうなっていたんでしょうか。
彼は「正義の味方」だったんでしょうか。
こういう疑問は、キリスト教内部の人には解答が難しいものです。
人間は、事実を無視して信じたいように信じるクセがあり、キリスト教内部の人は、キリストの良い一面だけを大きく見てしまいます。
信じるものを悪く評価するということは、自己否定につながるからです。


たとえば、

「信じている人が多いから信じる」

「あの有名人が信仰しているから信じる」


という考え方では、ブランド品を買って満足する若い女子と変わりません。
そのブランド品がニセモノか本物かもわからず、


「だって高かったから本物でしょ」

「みんな欲しがってるし」

「芸能人も持ってるし」


と言っているようなものです。


ブランド品がニセモノだとわかったときの落胆や開き直りは、ストレスを溜めてしまいますし、そもそも人間はブランド品が欲しいわけではないですからね。
ブランド品を買って、友達に自慢したり、友達と話題が一致したり、羨ましがられたりすることによる「心の満足」が目的です。


地球で一人になった時、それでもブランド品が欲しいかどうか、考えればすぐにわかりますよね。
実際は、人は人(愛)が欲しいわけです。


愛を直接手に入れる方法がわかれば、ブランド品は無用です。
同様に、愛を直接手に入れる方法がわかれば、宗教は無用です。
宗教は愛に近づくための手段だからです。
以前「愛は宗教を越えるか」という話で、結婚前に性交渉を持った神父の娘の話をしましたが、これが人間の本質で、知恵のある行動だとマスターは思います。


いつも愛してくれるキリストに人生を捧げるのもいいんです。
しかし、自分の責任で人生を切り開こうとした神父の娘の話を聞いて、マスターはその女性本人に神を見たような気がしました 。


マスターは宗教をやっていませんが、みなさんの中には、毎週日曜日に教会に行く人もいるかもしれません。


「キリストは高機能自閉症だったんですか?」

「弟子たちは彼の肉を食べたんですか?」

なんて神父さんに聞かなくていいですが、物事を考えるときには、キレイな部分だけに目を向けることなく、その背景や反対側の意見なども含めて考えてみてください。
長く愛されるために必要なことは、宗教ではなく、身近にある小さな愛の積み重ねです。
キリストが高機能自閉症であれどうであれ、あなたは自分の力で長く愛される人になってください。

・・・

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