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読書をしていて思ったこと:自分と身の回りの境目について

ほぼ、ありとあらゆるものが、道半ばで、未完成である。

また、なんらかの代用である。

なにもかもが、「今」「仮に」「実験として」やっていることなのだ。

このような理解を得ると、とても心が軽くなるし、もっといろんなことができる気がする。やる気が湧いてくる。

そうは思わないだろうか?

確実なものがなにもない代わりに、日常的に触れるもののほとんどが変更可能だという事実。目に見えること、考えて思い浮かべられること…これらは実は曖昧で、エッジがぼやっとしている。そうそう、突き詰めると、中身がなかったりする。なんらかの条件の組み合わせに過ぎなかったり、いろんなものを寄せ集めて作ったグループの名前に過ぎない…そういうことばっかりなのだ。身の回りは。

身の回りがそうなのは、我々自身もそうだからじゃないだろうか?

「身の回り」と「我々」の区別はどこだ? どこだろうか? 

このことを、真剣に考えたことはあるだろうか?

昔のひとも今の我々も、こういった存在の哲学的な問題についてはずっと考え続けているんだなぁということが、たくさんの本からわかる。(※ 投稿の最後に今私が読んでいる本を参考までにリストアップした。)


あまり哲学が得意でないという人も、是非一度考えてみることを強くお勧めする。

自分と思っているもの(たち)の総体はどこからどこまでなのか。

境目はどこなのか。

少し立ち止まって、一度考えてみてください。

そういうことを少しぐらい考えても頭がおかしくなるわけじゃない。精神がどこかにトリップしてしまって戻ってこれなくなるわけじゃない。だから安心してほしい。

ただただ冷静に、自分と思っていたものがどこからはじまって、どこで終わっているのかを確認してみよう。

これは楽しいことだし、きっと新しい発見があると思う。


ーーーー 以下、蛇足 ーーーー


視覚的な確認をひたすら続けてもなにひとつ発見できないかもしれない。

そういうときはこう考えてみよう。

自分の身体という有機体の外から取り入れた「熱」は、どこからどこまでが自分の一部だろうか?

「光」は?(視覚的側面。光=色は視覚を作る素だ)

「長さ」は?(空間的視点)

自分は「いつ」から「いつ」までなのだろうか?(時間的視点)

などなどを、頭がパンクしない程度に考えてみてはいかがだろうか。



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参考図書:


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