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依存性から脱却するために必死こいてやっていること(多分、前編)

エッセイ(書きながら考える)です。

非常に読みにくくなる可能性があります。予めご了承ください。

この時点でタイトルを決めないで書き始めています。
さぁ、どうなることやら。


そんなに依存してて良いのか?という問い

クライアントの問題をヒアリングなどで把握し、ソリューションを考え・提案し、見積もって、OKが出たら、プロダクトを開発して、納品する。お金は前金・後金で半額ずつ回収するか、月額に分散させて半年から1年かけて回収していくパターンもある。

こういう「通常の」プロダクト制作において、自分はかなりの割合で受け身です。

もともとの性格もあるかもしれないですが、クライアントの決定を最高のポジションに置き、ステークホルダの誰かにとって不都合があっても、最終的にはクライアントの決定に帰結させる。「そうは言っても、発注元がこう言ってるから(しょうがないよね)」というやつです。

僕が主に今年2019年、自分自身と自分の身の回りを撹拌(かくはん)するような活動を活発に行なっているのは、「そんなトップダウンな、窮屈な考え方で本当に良いのか?」という問いが出発点だったと思ってます。

クライアントなり、プロダクトの仕様を決定するポジションの人なり、いわゆるそのリージョンでの最高○○者的な人物に「そんなにも依存した考え方で働いてて良いのか?お前は。」という自分に対しての問いかけが、去年の暮から今年の春くらいにかけてぶわーーーっと湧き上がってきたんですね。


なぜ依存性に疑問を抱いたのか

なぜそんなにもぶわっと「あー、変えたい。」「なんとかしなきゃ。」と思い始めたのか。

それはやっぱり危機感からだと思います。経済・生命の危機ですね。

僕の場合、ある特定の人物との関わりの中から発生する仕事が自分の収入の大半を占めています。それはここ数年ずっとそうで、2019年12月の今時点でも変わらないです。

その収入はその人物との関係性に依存しており、その依存関係が立ち行かなくなったら、僕の収入はかなり減ってしまいます。半減どころではないです。それは当然僕の家族にも影響します。そういう事態になってから重い腰を上げてリカバリするんじゃ、ちょっと怖い。かなりリスキー。動き出すなら早めのほうが良いだろう、ということで、オルタナティブな働き方の道を模索し始めたわけですね。

僕はフリーランス & 個人で、その人物も同じような形態で営業しているので、こういう個人間の関わり合いを中心とした書き方になるんですが、もしこれを読んでいただいているあなたが会社勤めの方で「あんまりリアリティ湧かないなぁ」ということでしたら、「その人物」の部分を「会社」に置換して読んでみてください。あなたの収入源がその会社に大きく依存しているほど、「会社を信頼できるかどうか」や、「会社の考え方が自分個人の考え方とぶつからないか」などは重要ですよね。そういうメンタル的に大事な部分がぶっ壊れたときのインパクトを想像していただけると、僕が置かれている状況を把握・認識しやすくなるのではと思います。

さて、で、なぜその人物との依存関係に疑問を感じ始めたのか。

まず言えるのは、その人物のイメージが自分の中でぶっ壊れるようなことが去年頻発したんです。「あれ?この人、こんな感じだったっけ?」みたいな、あれ?感を覚えるエピソードが立て続けに起こったんですね。


環境の変化、感覚のズレ

去年は僕自身エンジニアとして飛躍の年でした。

これまでハンドリングしたことのなかった領域/規模の案件を任せてもらい、しかも、その人物にはそれほど依存せずにプロジェクトを進めて成功を収めました。仕事での関係者の輪も広がりました。

そういう前向きな状況が生まれたので、その人物にも何らかの形でフィードバックしたいな、と思いました。
いろいろな集まりに呼んだり、その人物の経験値を活かせる取り組みを提案したり…など、僕なりに良かれと思うことを様々やってみたのですが、ことごとく暗黙のうちに跳ね除けられました。

そういう、なんというか、(まぁこっちが勝手にやってることではあるんですけど)その人物に期待する → その期待や提案が排除される、これが連続して起こる…というのを繰り返しているうち、簡単に言えばその人物が信用ならなくなったんですね。


関係のフレームワーク

この人物との人間関係がスタートしてから約10年間(← 結構長い)は、細かいBadなことはいろいろありましたけど、概ね関係は良好でした。問題なかったですね。安定してました。(今思えば)新規顧客・アライアンス…つまり人脈の開拓とか、新規サービスのローンチみたいなことは全然起きる気配がなくて、そういう部分は死んでましたけど、単純に「暮らしを営んでいく元手を稼ぐ」という面では申し分のない関係性でした。

だから僕としては、その人物とチーム/パートナーとして上手くやって行くために手を尽くしました。
なにか改善案を提案するでも、その人物ができる・満足する・納得することをフレームワーク化して発案することが当たり前のように思考回路に組み込まれていました。元々友人関係からスタートした関係性だったのもあり、人情というか、「自分もこの人もいっしょに成長していけるようなビジネスをやっていこう」という想いで頑張っていました。
なので、その人物の思考やパーソナリティによってある意味キャップされた状況下でいろいろ模索してたわけです。当時はそれが「良いことだ」と思ってやってました。

一旦はそのフレームワークを「当たり前」として受け入れ、そこに疑問を持っちゃいけないよ、と自分に暗示をかけて仕事をしてきた部分があったと言えます。

※ その人物の尊厳のために敢えて書きますが、これは自己暗示です。僕が勝手に自分のためにやったことです。

その頑張りはある程度までは功を奏したと思っています。また、ある領域においては間違ったことはしていなかったと思うんです。

しかし…


諸行無常

ところがやっぱり物事にはなんにでも限界があるんですね。ある時点から全然うまく行かなくなった。正確に言うと、僕の心像の中でその人物の存在意義(存在の有効性)が破綻したんです。僕から観て、その人物が今までのようにWorkableではなくなった。そう、僕から観て、です。だから、ある意味ではその人物は特に大きく変化したわけではない。むしろ今まで通り、その人なりに仕事を続けてくれてたんだと推測します。変わったのは僕です。

つまるところ、僕の、僕の中での、その人物に対する期待値コントロールを誤ったわけです。元も子もない言い方をしてしまうと、最初からその人物に一切期待しないような関わり方をしておけば、今のような事態にはならなかったと思います。

半年以上かけて、たくさん悩んで、また、たくさんの友人に助言してもらいながら考えて考えて考えたことで、その人物との出会い・期待・依存・幸福・幻滅・破綻…というプロセスそのものが「人生のレッスン」だと、今は思えるまでになりました。


伝えたいメッセージ

昨日の夜あたりから自分の中で頻繁につぶやかれるセンテンスがあります。

それは「僕が伝えたいメッセージとはなにか」というものです。

伝えたいメッセージがそもそもドンとあって、それを軸に行動してらっしゃる方から見たらちゃんちゃら可笑しいかもしれないですが、「僕が伝えたいメッセージとはなにか」と自分に問いかけたときに、シンプルな答えが思い浮かばなかったんです。「あー、俺メッセージ性ないかも」と思いました。あと「わかりやすいメッセージ性ってやっぱあったほうがいいよね」とも思いました。それで悶々と考えました。浮かんできません。挙げ句「メッセージは必要か?」という問いも浮かんできました。

エッセイだと割り切って書いてますが、ここは本当に歯切れが悪いですね。
今日の夜友人と会ったら話してみたいテーマのひとつになるかも知れません。

なんかこのメッセージの話は、急に差し込まれた異質なものと読めるかもしれないんですが、自分の中ではそうではないです。

その人物・人間関係・収入源への依存を見直す、もしくは、改善する、最悪、断ち切る…というフェーズにおいて、その依存関係がなくなったあとの自分自身のペルソナが立ち行かなくなる可能性(危険性)、それに対する漠然とした不安というものがあるからです。

自分の中が空っぽなことを直視して、おいおい、空っぽでいいのか?と。

その空っぽを、自我が必死で埋めようとして「僕が伝えたいメッセージとはなにか」と言っているのかも知れません。いや、そういうことでしょう。


外じゃない、中だ

だから、答えは中に探しに行く必要があると感じました。

この人生、主に今までは外に自分の答えを探しに行ってましたね。そのときは気付いてないですけど。

外にすごい人がいる。外により優秀で秀逸な答え(解決方法)がある、というのを前提(ドミナント、組み込み)として行動したり考えたりしていました。

よって、内省(ないせい)という方向にディレクションを切れなかった。知らなかった、といっても良い。「鍵は内省だ」と僕の蔵書の至るところに書いてありますけど、完全スルーしてました。残念なやつです。

そういうわけで内省については非常に日が浅いです。

「中身は空っぽだ」というのをしっかり認識した上で、その「中身」にダイヴしていく、というのが、理屈上は「内省」になります。まぁ、言ってることはめちゃくちゃですよ。瞑想もそうですけど、言葉で説明しようと思ってもめちゃくちゃになっちゃう。やっている本人はそんな別にめちゃくちゃなことをしてるわけじゃないんですが、説明はめちゃくちゃになります。


多分、このエッセイ続きます

エッセイとしては落第点だと思いますが、あまり答えらしきものもないまま終わります。すみません。

以下はざっと箇条書きでこの先書いてみたいことを洗い出したものです。次回以降の投稿のためのメモとして残しておきたいと思います。


● 内省に至るまでに外でやったこと
 この1年ぐらいの間にトライしてきたことを振り返っても良いのでは?

┗ コーチングというアプローチ
 最初にやったのは友人の依頼でプログラミングを教えるとうことでした。

┗ カウンセリングというアプローチ
 その後、哲学や心理学の方面に話が進んで、カウンセリングに近いセッションをやるようになりました。

┗ 言語化というアプローチ
 そこに「言語化」というより外向きのアプローチを採る活動が加わりました。

● 医者に近い?
 言語化の活動の中で「医者に近い」と言われた。嬉しいような、驚いたような。
 そして言語化は今後の展開を考えるフェーズを迎えています。

● ナラティヴ、オープンダイアローグとの出会い
 ナラティヴやオープンダイアローグという文化と出会いました。最近です。
 これまでの活動の中で名前ぐらいしか知らず、中身はスルーしていました。
 しかし、自分のやってきたことを振り返るとかなりリンクする部分が多いので、目下勉強中です。


SN


2019-12-13追記: 後編書きました!


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