見出し画像

自分の痛みを自分で癒す

自分自身の心身の傷は自分自身で癒やすことができます。

直感的に「誰かに頼るのではなく、自分でなんとかするのが一番なんじゃないか?」と感じる人にとってはなおさらです。

心と身体

心。つまり、考え方+その背景にある精神的なもののことですね。
メンタル、マインド、精神、思考、世界観、顕在意識…など、いろいろな呼び名がありますが、普通頭の中や胸の中あたりにあると感じている「自分にまつわるもろもろ」といったところでしょうか。物質のように「これ」と指し示すことはできないけど、確実にあると感じるもの。それがないと「自分」が成り立たなくなるもの。この費物質的なものをひっくるめて心と言うことにします。

対して、皮膚に覆われた血と肉と骨などから構成されたこの物体。いつも「自分」という概念を運んであっちこっちへ赴き用事を足してくれる便利な乗り物。針で刺すと痛く、病気にかかると面倒くさいことになり、そうかと思うと、日常の苦痛を全てチャラにするほどの快楽も感じることができるもの。それが身体、肉体ですね。

かたや形がなく、かたや明確な形を持っています。
このような違いがあるにも関わらず、どちらも「私のもの」と意識できるという共通点があります。

私のもの

「私のもの」という意識が滞りなく行き渡っていて、誰にも奪われたり侵害されたりする怖れがなければ、それは健全な状態であって、なにも癒やす必要がありません。

癒す必要を呼び起こす原因は痛みですね。
通常であればなんの疑いもなく「私のもの」と言える、いや、わざわざ宣言する必要などないはずのものが、なんらかの不調・不具合・エラーなどによって「私のものでない」「私のものとは思いたくない」という状態に陥っていて、それが違和感や不快感を訴えてきます。これが痛みです。

受動的に「壊された」「奪われた」と認識している状況でもたどり着くところはいっしょです。「壊された」であれば、「私のものを壊された、台無しにされた」→「そんな壊れたものは私のものではない、私のものとは思いたくない」という感じで。

他人の痛み

自分自身のことだけに一旦フォーカスすると、心にしても身体にしても「ここまでが自分」という範囲を超えたところにある問題は正直なところどうでもいいわけです。というか根本的にはどうにかできるものではありません。

僕が腰を痛めているとして(実際、先日寝違えてからちょっと痛い)、同じような箇所・同じ強度の痛さを他人の身体が患っていても、それは自分の痛みではないですから、他人のその痛みに介入して「僕が」リアルに感じることはできないと思っています。

例えば、うちの子が膝を擦りむいて痛い痛いと泣いているところへ行って「痛いの、痛いの、飛んでけー」と言ってあげた、それでうちの子はなんだか痛みが和らいだ感覚になって泣き止む。こういうことは体験としてありますけど、その痛みが癒えるという現象そのものはうちの子に起こったことであって、僕に起こったことじゃありません。

アイデンティティの範囲

治癒というのはその人のアイデンティティの範囲の中で起こってはじめて意味があります。意味があるというのは実感として感覚できるということです。その人本人が感じてはじめて現実としてのリアリティを獲得します。

そういう意味で、他人の痛み=「ここまでが自分」という範囲を超えたところにある痛みにかかずらっても仕方がないのです。その他人からして他人である僕には直接痛みを感じることができません。言い方を変えれば、他人の痛みは概念上の痛みとしてしか理解できないものです。

つまり、他人が怪我をしているのを見て、自分も同じような怪我をしたときの痛みを思い出したり、自分がそうなったときの状況を仮定して感じる痛みなど、これら概念的な痛みは、脳神経を通して映画のように再生された痛みと言えるのではないかと思います。

痛みのコントロール

ですから、コツさえ掴めば他人から貰い受けた痛みはいつでも再生したり止めたりできます。二度と再生しないように破棄することもできます。

これを実行するのに、誰かの許可は要りません。その気さえあれば今すぐにできます。ただ「破棄する」と決めて、別の感覚に置き換えればいいだけです。

もし自分自身(アイデンティティの範囲)の中にある痛みを棚卸しできたとして、その中に含まれている他人由来の=概念上でだけ存在できている痛みを破棄できれば、それだけでかなりの痛みとさようならできると思いませんか?

また、更に言うと、人間が本当の意味でリアルに認識できるのは「今」だけですから、過去の体験や想像・考え方に由来する痛み、それから、未来に存在するであろうと仮定している痛み、この2つは概念的に抱え込んでいるだけなので、他人から受け取ってしまった痛みと本質的に同じです。実体がありません。なので、やはり概念上の処理で対処できる可能性が十分あります。

「今」この瞬間に自分自身に由来して存在する痛み以外は如何様にでもできます。捨てる・手放すはもちろん、なにか別の感覚に変更する・置き換えることも自由です。なにせアタマで「痛い」と思ってるだけですから。それが嫌ならそう思わなければいいだけのことです。

自然な癒やし

なんだか都合のいいように聞こえるかもしれませんが、これはとても自然に起こる癒やしです。
怪しい薬も要らないですし、どっかの神様を新たに信じる必要もないです。
そして、ただ単に自分の、すでに、確実に、誰にでも備わっている普通の思考力を使って行える癒やしです。

電気信号

記憶や概念は文字通りの意味で電気信号です。
全神経が一挙に集中している場所が脳なので、膨大な量の電気信号のパターンが脳に保持されていますが、そもそも単なる電気信号なので、帯電できる身体組織であればどんなものにも記憶や概念は保持されていると考えるのが合理的です。つまり人間の全身が記憶と概念の貯蔵庫のような役目を持っているのです。
心とはこの電気信号のパターンを読んだり書いたりするプロセスの流れであると言えます。肉体とは別の形式をとったリアリティの流れ、それが心です。

このような視点から心身の傷や痛みを観察してみてください。
どんな痛みが見つかりましたか?
その痛みの、波の強さ(大きさ)、速さ、範囲の大小を感じてみてください。
痛みは物理的現象と心理的現象の2つの側面があります。
胸に外傷がなくても、過去のトラウマを呼び起こすと胸が痛むのです。
仕事で厄介事を抱えていれば頭痛がするのです。
逆も然り。
身体の痛みは痛みを具体化する心の働きなくして感じることはできません。
怪我でどこかが痛くても、寝ている間は痛みから解放されます。心が身体という囚われから解放されるからです。

さて、自分の中にある痛みを観察してみて、その中に「痛みを呼び起こす記憶や概念は電気的なものだ。だからこの痛みは自分の意思で編集したり解除することが可能なんじゃないか?」という可能性を見つけると、これまで「どうしようもない、私にはどうにもできない」とロックオンされていた感覚が緩んで余白ができます。

この余白に意図を差し込むのです。自分自身に由来した意図です。例えば「私はこの痛みを手放すと決めたのだから、この痛みは姿を消し始める。私はこの痛みを忘れる」のように。
実際にやってみるとこれが本当に面白いことになります。

人間は発電所

実のところ、その人自身が持ち合わせている意思力や疑いようのない意図、この自分自身に由来する力はどんな記憶や概念よりも強力な電磁気力を持っています。桁が違うのです。過去の体験がきっかけで所持するようになった記憶も、他人由来で輸入した概念も、本人の意思・意図の力に比べたら下敷きでこすって発生した静電気みたいなもんです。人間は自分自身が発電所なのだと想像してみてください。様々なリソースから自分で電気を作ることができるのが人間です。そのような強力な発電力を持った人間の表面に取り付いているだけの記憶や概念の電力は、一時的に帯電しただけのものです。

痛みを抱えてしまっている状態というのは、自前で発電した電力を本来の目的(自分自身を健康に保ち、快適に充実して過ごすという目的)を差し置いて、表面にへばりついた記憶や概念の断片に一生懸命電力を供給すること、つまり、電気を無駄遣いすることで生み出されているのです。

ですから、自分の側から電気の供給を意識的にストップすれば、痛みの原因は力を失って剥がれてしまいます。これを「手放す」とか「浄化する」というような言い方で表現する人もいます。

自分自身の中(というか、自分自身を構成している)エネルギーの構成を理解して、それらは全て再構成が可能だという事実を受け入れれば、自分で自分を癒すことは実際に可能になります。

SN

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?