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自然の中に概念はない

「自然の中に概念はない。」とP.D.ウスペンスキーは『ターシャム・オルガヌム』の中で書いていた。
この短い言明には計り知れない深みがあると僕は思う。

手を動かす(手が動く、手が動かされる)ことそのものに概念は含まれない。
「手」や「動く」も概念だ。これらすらも含まれない。
便宜上、「手を動かす」と言わないと文章にならないので使うのだが、「手」も「動く」も、人間の思考する機能が後から貼ったラベルなのだ。

ラベルを貼ることに相応する出来事や行為はある。
しかし、ラベル=概念はその出来事や行為の中にない。
これがウスペンスキーが「自然の中に概念はない」と言った意味だ。

言葉で表現した瞬間、我々の認識は自然の生の現実からはそれてしまう。
指すことはできるが、一致することはできない。
言葉や考えは常に「~について」なのだ。
それそのものは言えない、書けない。

言葉に出来ないものが存在する。あからさまに目の前にある。
というか、それしかない!
「これ」が現実、リアリティだ。

もし仮に、「言葉にできない」というカテゴリーを作ったとすると、現実にはその唯一のカテゴリーのものがただひとつ存在する。
それしかない。(それ以外にないのだから「カテゴリー」という概念は本来邪魔なのだと気付く。)
認識できるものも認識できないものも全てそれだ。

我々は、
 現実
 リアリティ
 これ…
の外に出ることはできない。
これは至るところに遍満している。
これから逃げることはできない。

実際にやってみるといい。
現実から逃げることはできない。

夢を見ることはいくらでもできる。
でもそれは、現実から視線をずらしただけだ。
現実は常にそこに在り続ける。

「自然の中に概念はない」
確かめる気があれば誰にでもできる。理解可能だ。
自然の中に概念はない。

ところが、我々が
 自分がいる世界
 自分に対しての世界
 世界の中の自分
=「自分ー世界」だと思っているものはまさしくその概念だ。

我々の自我や世界認識とは、それ自体が概念であり、概念の集合の中に見つけることができる。そして、その中でしか見つからない。

概念自体が非存在なのだから、自分も世界も(あなたも、誰かも、モノも、空間や時間も…)相対的な関係性の中でのラベルであり、それ自体が実存としては存在していない。

在るのは、唯一、この言葉では表現できない目の前の(しかもその「目」も含まれる)現実だけだ。

***

瞼を閉じると、視界は明るいか暗いかのモノトーンのなるはずだ。

明るいか暗いか以外には何もない。

その「明るい」「暗い」も相対的なものだ。
どこからが明るくて、どこからが暗いか、という明確な絶対的な境界線はない。

こうなってくると本当に何もなくなってくる。

そう、本当に何もないのだ。

個別に存在すると思えるもの、これは「思える」だけだ。
これは何だという可能性の一つを任意に選択しているに過ぎない。
相反するものや背景となるものと比較してそうだと言っているに過ぎない。
その比較対象のものも何かとの比較でそうだと言われているに過ぎない。

目を開ける。視界が戻ってくる。
瞼を閉じていたときのモノトーンの視界と何が違うだろう。
押し付けはしないが、何も違わなんじゃないだろうか?
本質的には何も変わらない。
つまり、何もないのだ。
個別に「これはこれだ」と言えるものは何もないという意味で何もない。

※ 以前似たような内容の投稿をしたのでここにリンクを貼っておく。

聴覚、臭覚、味覚、触覚(身体感覚)など、感覚器官を通じて感じ取れるものはみな視覚と同様に「何もない」という現実に還元できる。

僕はこの投稿の前半でウスペンスキーを引用し「自然に概念は含まれない」と述べた。
概念は非現実だ。ということは、概念を素材にして作られている思考も非現実だ。
思考も言葉と同じように、原理的に「後付け」なのだ。どんなにタイムラグが瞬間的であっても「~について」という思考の原理的限界から逃れることはできない。

思考は実在ではない。
思考は夢みたいなものだ。
思考を落としてしまったところで現実は何も変わらない。
リアリティは、何事もなかったようにそこに在り続ける。

感覚も同じだ。好きだとか嫌いだとか、良いとか悪いとか…、そういった解釈や判断は全部思考と同じく、それ自体で意味を持っているわけではない。
感覚を言葉や判断にしなくても現実はそのままそこに在る。
感覚は在る。しかし、感覚が持つように見える印象や意味は仮想現実なのだ。非現実。存在しない。意味がない。

何もないのに、「そこには何かある」と見て、実際はないものについてあれこれかかずらう、巻き込まれる、その上、その煩わしいものに執着する。
そしてその執着から逃れることができなくなる。
いつしか執着から逃れる=自由になることを諦め、執着の中で「もっと良いものに執着しよう」「より良い執着の仕方へ改善しよう」と試み始める。

はっきり言って、これは病気である。

最近僕は、その執着、執着の在り方、執着の仕方、何に執着するかというチョイス…、これらを「自分」だと思うこと=自己同一化をやめた。
それは執着であって、僕の本質=存在そのものではない。
僕の執着だ。僕の持っている執着だ。
執着には執着以上の意味はない。
執着は執着だ。

***

「執着が苦(dukkha)を産む」

これはテーラワーダ仏教に伝わる仏陀の言葉。
あまりにもそっけない表現だが、まさにその通りなのである。

執着のバカバカしさに気付いて、執着が自然と抜け落ちれば、苦(dukkha: 苦しみ、物足りなさ、などの意味)は産まれない。
産み落とされなければ成長もない。
成長がなければ、死もない。
始まりがなければ終わりもない。
始まりも終わりもない。

つまり永遠とはそういうことだ。(※「不死」を永遠の代名詞のように言うのは恣意的であり、利己的な欲望の副作用だ。永遠とは不死である前にそもそも「無始」であるということを忘れると甚だしい勘違いに陥ることになる。)

そこにリアリティが顕れる。

アレハンドロ・ホドロフスキーが『リアリティのダンス』という自伝を書いているが、このタイトルで使われている「リアリティ」とは上の意味である。
生命とはリアリティの「ダンス」なんだとホドロフスキーは言っている。
人生のダンスに目的はない。
目的のないものには始まりも終わりもない。
永遠だ。
換言すれば、常に「今=ここ」が目的地だ。

ホドロフスキーは「人生は完全に無意味だ。生きろ!」と言う。

「人生は完全に無意味だ」。
意味とは相対性・関係性の中でしか生存できない非現実だ。
意味=非現実に執着するのは死んだも同然である。
死ぬんじゃない、「生きろ!」。
それがホドロフスキーからのメッセージだ。

***

我々はつい現実の上に夢のベールを被せてしまう。
現実をスクリーンにして自分の夢を投影する。
その夢は自分が主人公であったり、自分の視点が主観になっている映画である。
我々は現実の中で生きることを忘れて、非現実=夢=映画の中で生きているふりに興じてしまう癖がある。
つまり、ほとんどの時間、我々の生は死んでいる。

そのうち現実とは何だったのか忘れてしまう。
だから、日常触れる情報や他者とのコミュニケーション、それから頭の中の思考=マインドの中で「現実」という言葉=概念=感覚に出会っても、それはたいてい仮想現実だ。
そのくらい忘れている。忘れている状態に慣れきってしまっている。

バーチャルリアリティの技術で再現された体験が「現実みたいだ」と驚かれ、もてはやされるのは、それを「現実みたいだ」と感じる生身の人間の主観が本当の現実(リアリティ)から分離しているからだと言える。
誰しも分離に慣れきっている。

ショッキングなことかもしれないが、我々はほぼ全員病気なのだ。

ごくごく稀に、この病気を完全に治癒した人たちがいる。
それが仏陀やキリストだ。

我々凡夫に可能なのは、病気の何たるかを理解すること。
そして、病気を悪化させる悪癖(執着、投影…など)を少しでもやめて、治癒が起こるチャンスに身を晒す(Exposure)ことではないだろうか。

ちなみに、瞑想とはこのエクスポージャー(Exposure)のことだ。
瞑想のための様々な手法や、その副作用的効果(リラックスできるとか、仕事の生産性が上がるとか…)にスポットライトが当てられがちだが、それらは本質ではない。

そして自我が自我を、思考が思考を治療することはできない。
この点については前回の投稿に書いた。

治癒は「起こる」のだ。
治癒を「起こそう」と思ったり、「自分で」「自分が」という意識で治療しようと思ってもうまくいくことはない。
そこには期待と執着があるからだ。
余計に病気をこじらせてしまう。

この問題は、あまりにも単純すぎて、そこがかえって難しい。
エゴをイライラさせる部類の話だ。
興味のない人に押し付けはしない。さっさとこのページを離れるのが良い。
この手の話は必要な人に届けば良いと思って書いている。

SN

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