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奇跡の化学反応: Neriba N-Space オープニングパーティー レポ 後編 + 連絡事項(木曜レギュラーについて)

イベントレポの後編です。

前編はこちら。


後編をはじめる前に確認しておきたいこと

いきなり話がちょっと飛びますが、昔々、アインシュタインというめちゃめちゃ頭のいいおじさんがこんなことを言いました。

「全ては相対的である」

このレベルの科学者が「全て」という言葉を使ったら本当に「全て」という意味です。例外なし。つまり、彼が言うには「全て相対的である」というわけです(重要なので二回書きました)。

都合上、どこかの一点に視点を固定させることによって「自分(視点の持ち主)が動いている」とか「周りが動いている」とか言えるんですね。だから、自分と同じ方向に同じ速度で「動いている」ものは「止まっている」ように見えます。だから、視点の置き方一つでなにもかも変わってしまう。「相対的」とは簡単に言うとそういうことになります。

ということは、全てが動いている、止まっているものがない、と言えないでしょうか?

宇宙全体が動いてる。

僕が立っているこの地面は地球の一部で、その地球は自転してますよね。地球は太陽の周りを公転している。その太陽自体も銀河を漂う小さな星屑にしか過ぎず、銀河全体も宇宙空間全体から見れば雲のように掴みどころのないものです。

止まっているものがないのは、僕自身の「中」、つまりミクロの世界へ下っていっても同じです。

僕の身体を構成する細胞の中にひとつでも永遠に存在するものはありません。必ず新陳代謝のサイクルの中で変化していきます。僕の外にあったものが、僕の中へ入り(仲間入りし)、僕の中で変化し、僕の外へ出ていきます。「僕」というアイデンティティを保つためにこの身体の中に留まってくれているたくさんの細胞たち ーーー これらは、どんどん、どんどん、入れ替わり続けているわけです。「僕」という存在は、この入れ替わり現象に付けたラベルのような儚いものです。ですが、誰しも自己イメージとして持っている「自分の身体」は、細胞が寄り集まった有機体の塊として、実体感を伴って認識されるのが普通です。さて、その細胞を構成する分子構造も壊れたりくっついたりをせわしなく繰り返しています。そして、分子の構成要素である原子は、波なのか粒子なのかも判別がつかないような得体の知れない「なにか」(素粒子とか)の集まりです。「原子」と名乗っておきながら、結局は部分を持つのです。小さな世界(部分の部分)への下り階段は永遠に続くように思えます。

しかも、その「なにか」と「なにか」の間の距離は「なにか」の尺度からするとかなり遠いそうです。つまりこの世の中で物質と思われているモノたちは、どんなにぎゅーぎゅーに詰まっているように見えても「現実」はスッカスカだということです。

このように人間の尺度を軸に据えたとき、巨大なレベルのほうへ視点を移しても、極小のレベルを観てもかなり似通った構造になっていることに気づきます。実は、銀河同士が衝突しても、星間距離がスッカスカ過ぎて衝撃的なことはほとんどなにも起こらないそうです。それは同じくスッカスカな素粒子の世界も同じです。(なにをもって「ひとつ」の素粒子と呼ぶかという問題を措いておけば)素粒子が他の素粒子と空間的にぶつかり合ってしまう確率は極めて低い。素粒子に人格があったら、この世界には自分ひとりしか存在しないようにしか感じないんじゃないだろうか。まさか、自分以外に自分と似たような存在がいるなんて想像もしないかもしれない。そんなことを考えたりするわけです。


…前置きが長くなりました。


なんでこんな前置きをイベントレポのために書いたのか。

それは、

なぜ我々人間の世界はスッカスカに見えないのか

という疑問が湧いてきたからです。Neribaのオープニングパーティー中に。



なぜなのか

なぜ、我々はこんなにも密接に、面と向かって、向き合えるのだろうか?

なぜ、我々は意見を交換し合うことができるのだろうか?

なぜ、我々は衝突し合うことができるのだろうか?

それでいて、なぜ、我々はすれ違ったり無視したりできるのだろうか?

なぜ、我々は互いに認識できるのだろうか?

なぜ、我々は互いの存在を知ろうとするのだろうか?

なぜ、我々はそれを止められないのだろうか…?

理論的に「現実」はスッカスカのはずなのに、なぜ「ここ」はこんなにも濃密なのだろうか???

自然科学的な世界の解釈がなんと言おうと、僕は昨日、Neribaでとても濃密な時間を体験したんです。僕の自我は、理屈ではない楽しさの中で数時間を過ごしたのです、確実に。



理屈ではなくやりたいことがあるんです

人とひとが出会うとき、なにかが起きることがあります。

人の組成はスッカスカであるにも関わらず、です。

条件が揃いさえすれば、素晴らしい化学反応が起こる。

そう考えると、この世界は(確率論的に)奇跡的な化学反応の結晶体と言えなくないですか?

僕はそう思います。我々の認識世界というのはそもそも奇跡の連続であると。でも、このコトに気づいている人ってどのくらいいるだろう? と考えました。人間て、気づくには体験して発見しないとわかんないかもな、とも思いました。特に昨日は。

そういう体験を産み出すための「場作り」は本当に面白い仕事だと思います。



場作りの求心力

場作り自体がひとつの仕事と認識されはじめているのを、最近強く感じます。

場作りというものに関心を持って取り組んでいる人たちが、様々なカルチャーの中に結構なキーマンとして活動しています。

昨日のパーティが異常な濃さだったのは、彼らがゲストとして自然と集まっていたからだと思います。Neribaはいつの間にか、そういうキーマンが引き寄せられる空間になりつつあるのを感じました。

そりゃ、濃くもなるわな、と。

「大人の秘密基地」と謳ってるのは伊達じゃないと証明した夜だったように思います。

自分がそういう雰囲気の中でいろいろな才能たちと話をさせてもらっていて受けた刺激は半端なかったです。

これからNeribaという場所を通して、彼らとどんな化学反応が起こっていくのか、とても楽しみですね。



***


連絡:木曜レギュラーについて

最後に連絡を少々。

11月中は、実験的に毎週木曜レギュラーでNeribaに居るようにしたいと思っています。

時間帯的には13:00ぐらいから夜にかけて。

とりあえず「言語化セッション」が思ったより反響があるので、さくっと予約を入れていただければ、セッション料自体は無料でお受けしたいと思います。(※ ドリンク代などが別途かかる場合があります。)

言語化セッションとはなんぞや?という方のために参考リンクを載せておきます。

参考までにですが、「言語化セッション」はオンラインよりも対面の方が断然効果的だと感じています。最近いろいろな方と「言語化セッション」をやらせていただいてそう感じました。

プログラミンの世界だと「もくもく会」とか「ペアプログラミング」という文化があり、ただレクチャーするだけじゃなくて、雰囲気が乗ってきたら実際にその場で少し作ってみる、ということをします。

これを言語化セッションにも取り入れてみたら好評でした。「ペアライティング」とでも言いましょうか。横で伴走するようにサポートさせていただくと「書ける化」が進みやすいようです。

このやり方にご興味があれば、やはり対面でのセッションがおすすめです。

Neribaであれば気軽にリラックスした雰囲気で言語化に集中できると思います。この機会にご検討ください。


その他、12月以降のNeriba本稼働に向けて、どんなコンテンツを打っていくかを議論する「オープン会議」も木曜の枠で可能な限りやっていきたいと思います。

なにかアイデアがある方、単に中村心と話してみたい方は、気軽にご連絡ください!


SN

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