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こころは自分の”もの” 総集編

(心のカタチより)

こんにちわ。
ぽち☆いいます。

何でぽち☆かって、ポチは人懐っこしいワンコの名前によくあったのです。確か。。。

昔は。。。そうだったのです!

そんなポチが人懐っこしいのは、その飼主さんたちの役に立ちたいこころを持つからです。たぶん。
それは、怪しい人影を見ればワン!と吠え知らせれば、可愛い眼(まなこ)で見上げて癒やしを醸しだしもします。

それらは飼い主さんの役に立ちたい現れに他ありません。まぁ。ココのぽち☆が癒やしを醸し出せるかは期待できませんが。

なんてったって、ココのぽち☆はおっさんですのでw。

でも。でも。
そんなぽち☆は少しでも参考に、少しでも役に立てればと書き残したいことがあるのです。
それが”こころ”です。

こころは、誰もが「ある」といい、誰もが自身のどこかに持っている”もの”と思ってます。
試しに、身近なひとに「(あなたは)心がありますか?」と聞いてみれば、大概の方は「ある」というはずです。

当たり前ですよね。
誰もに”こころ”が必ず一つあるのだから「ない」と嘘は云えません。

でも。
何故、人は”こころ”があると言い切るのか。
その”こころ”のあるところを知らなければ、どんなカタチをしているのかさえも分からず言うのです。

それが、心の病を造り出す理由(もと)となる事も知らずに。。。

■道具は”もの”
道具とは、人の役に立つ物をいいます。

例えば、トンカチ。金づちとも言いますね。
そのトンカチは、物を造る代表的な道具です。それは、家をも造り出す道具となり人の役に立つのです。

それには人がトンカチという道具を認識できる事から、形状をも知り、その扱い方を知ることができるのです。釘を打てば木材を固定し、新たな人の役に立つ物を造れてしまうのです。

そんな人のためのトンカチであっても、その使い方を誤れば、時に人を殺めてしまう道具にも成りかねません。

それは、その道具を扱う人によりどうとでも扱えてしまううのが道具という”もの”となります。

■認識
道具は、その”もの”を認識する事で道具のあるところが判ります。それは道具に触れることも出来れば持つこともでき、扱う事も出来るようになります。

それはまず、道具がそこにあると認識できてしまう事からに他ありません。そして、その道具から得る情報がどう扱えるかも知り得るのです。その大概は人のため、自分のために扱うのです。

その知り得る事が自分や相手が喜ばせる”もの”と理解した結果です。

もし。その道具を認識できなければどうなるのでしょうか。それは、扱い方も解からなければ誤ったを方法に使うかも知れません。

やはり、自分たちの周りにあるのが”もの”ならば、それを認識する事から始めなければ、人の役に立つどころか、その”もの”が害となるのです。

■カタチ
ぽち☆は形の事をよく”カタチ”と書きます。
それは何故かというかと云うと、そう書きたいからです。
なんてね。

実はそれには理由があり、物事を文字に表わす際、そのひとの感情が入るからです。

心のカタチのポチ☆は、気持ち的な言葉にカタカナやひらがなをよく使います。それに対し感情を表したい時は漢字を使います。それにより少しでもココを読むひとに意図する意味を伝えたいと願うからです。

例えば、形とカタチで表せば読む人によっては受け止め方が異なります。人をひとと書いたり、心をこころと書いたりとココでのルールになります。

皆さんはどう感じますか?
”形”と”カタチ”

どちらを好むでも良いのです。その違いが何となくでも伝わればこれから話す『心のカタチ』の何たるかが解ると判るからです。

ちまみにココでのルールは漢字は感情を表わす”もの”、ひらがなやカタカナは気持ちを表わす”もの”になるべくしてます。

決して変換間違いや書き間違いではありません。たぶん。語学力はないので言葉は多分に間違いますが。。。とほほ。

話を戻して、その感じ方はココを読まれる方にお任せします。そのルールを知って読んでいただけたら幸いだからです。

言葉の受け止め方は人それぞれ、どんなでも自由のですが受け止めるひとにとって大切なカタチとしてこころに残るのです。

道具にもカタチがあります。そのカタチをどうこころに残すかはその人の自由です。形と認識するのか、カタチと認識するのかで扱い方も変わるのです。

■感情
感情は皆様もご存知のとおり喜怒哀楽がある。
常日頃、誰もが扱い熟していることでしょう。

ん?。扱い熟してない!?
それは感情に心が扱われる人もいるからです。

何故、人には感情があるでしょう。
それは、感情が自身の”こころ”を表現するためにあり、それが言動を引き起し伝えようとしているのです。

人には手脚眼口などのカラダという”もの”があります。それらには五感が備わり、その五感から得た感覚を”こころ”に伝えるのです。そして”こころ”は感情で言動をお越し、相手や自身に”こころ”を伝えるのです。

ただ、その感情も”こころ”からすれば道具です。その道具の何たるかを知らなければ、カラダを上手く扱えなくなるのです。バランスが不安定な道具は思うように扱えなくなります。扱う”こころ”と扱われる道具が不安定と感じれば、扱わないのも”こころ”がそう扱ったことになるのです。

そのバランスとは何か。
それは”こころ”から湧いた感情が言動を起こしている内は良いのですが、その湧いた感情が感情を湧か湧かす繰り返しを起こせば繰り返せば、自身の”こころ”を無視した言動(ぼうそう)を引き起こします。

それを”心が感情に囚われる”といい、自分自身の”気持ち”を見失わせます原因です。

気持ちも感情も自分の”もの”です。
ならば、感情に振り回されない安定したこころを創るのです。それは難しいことではなく、今まで怠ってきた”こころ”を知るが大事なのです。

その”こころ”を知らなければ、いつまで立っても不安定な心となり、感情という悪戯っ子に侵され害となるのです。

■気持ち
では感情に対し”気持ち”とは何でしょう。

自分たちは「辛い気持ち」「楽しい気持ち」「気持ちが悪い」など、気持ちに○○を付けた言葉を口にすします。

人は、そんな”気持ち”を知らず知らずに”使い、心を表そうと言葉をつくってしまうのです。

それは感情の造語(ひょうげん)であり、それは”気持ち”ではなく感情そのものです。自分たちはそれを気持ちと思い自覚せずに口にしているのです。

それが”気持ち”と感情を思わせたのです。心を知らないがばかりに、その区別する事を”気持ち”も”感情”も一色たんに感情に振り回させていたのです。

では、もう一度聞きますが。
”気持ち”とは何ですか?

それを自分たちは知っているようで実はよく知らずに過ごしていたということです。

自分たちは感情は良く判っています。ただ、気持ちも同等に扱っていては、心のあるところさえ知る由もなくすのです。

そんなでは、心は常に不安定となりブレ続けるのです。道具もカラダも心も”もの”を認識してこそ、上手に扱えるようになるのです。それはブレずに扱えれば自分のために役立つのです。

自身を悩ませ、悲しませ、苦しませブレ続かせるのは心を知らないという理由があるからです。そして、そんな状態を繰り返せば誰もが知る”こころ”を病まさせるリスクとなります。

当たり前ですよね。
自身の心を知っているようで実は知らないのだから、そもそも心を病ます原因が出来事にあると思っていては感情を湧かすしか出来なくなります。それは原因が別にあると知ることも出来なくさせるのです。

とはいえ自分たちには心があると判ってます。
たまたま、学校でその”こころ”を習う事ができず、今まで怠ってしまっただけなのです。

そのこころの中心にある”気持ち”が何か知れば、心に絡み合った感情という事情も紐解けだすのです。自分のこころに”幸せになりたい”があるのなら、それが出来る可能性を持ちます。

■アダルトチルドレン
突然ですがアダルトチルドレンとは何でしょう。

直訳で『大人子供』ですね。
人は感情に囚われると本来”こころ”を伝えたくても、それが出来なくなります。そんな感情に囚われた人にアダルトチルドレンが多いという話です。

自分たちの中には子どもの心のまま育った大人がおります。身体だけは大人に育って、その身体を使って人に罵声を浴びせたり、叩いたり、殴ったり、傷つけたりする人です。

それは相手を不幸にさせるだけで、ひととしてしてはならない感情です。

とはいえ、子どもの心が悪いというつもりはありません。子どもの心は無垢で素直で”こころ”から湧いた感情を出せれる存在です。

それが時として、感情に囚われ感情が喧嘩をさせ、自身で止めれない感情を更に湧かすのです。その結果、相手にケガをさせフッと気がついた時はすでに取り返しのつかなくもなるのです。

子どもの喧嘩は”感情の喧嘩”といい、それは相手の”こころ”をも傷つけると心育たてるのです。それが心も大人になっても、その経験が活かせず大人になっても感情で喧嘩をしてしまうのです。

大人の喧嘩は”気持ちの喧嘩”です。
気持ちの喧嘩とは、自身の”こころ”を伝える喧嘩で殴る蹴るは必要ないのです。それは大いにするべき喧嘩が大人の大切な喧嘩となります。それができてアダルトチルドレンは卒業です。

本来、子供はピュアな心のぶつかり合いができる存在です。そこから学び、ひとや自分が不幸を感じる事は誰のためにもならないと心に記憶します。

■気持ちとは
自分たちは会話の中で”気持ち”と口にします。
それは、その”気持ち”の何を知り、自分たちは使っているのでしょうか。

先には感情の話をしましたが、誰もが喜怒哀楽という感情をよく使うのです。ただ、その感情は”気持ち”から湧いていた”もの”と、はてさて、何人が解っていたのか。

そして、その感情が”気持ち”から湧くだけでなく、湧いた感情は更に感情を湧かす癖があり、複雑に重なり合うのです。そんな薔薇の華のように重なり合う感情は、その中心にある”気持ち”を感じさせなくさるのです。

薔薇の華は、雄しべ雌しべがありその周りに幾重にも重なる華ビラがあり美しくなります。そんな幾重にも重なる華ビラに見惚れてしまい、本来大切な雄しべ雌しべを見失わすのです。雄しべ雌しべはいずれ種子を育て子孫を残すのです。

”気持ち”も同じ。人がひとである限り子やその子孫へと”こころ”を受け継ぐのです。気持ちとは、母のお腹の中で大切に育まれた”幸せの基準”であり、その基準を子孫へ残す限り”幸せ”を好み続けるのです。

■幸せの基準
自分たちは例外なく母のお腹の中で育てられ、この世に産まれてくるのです。それは、十月十日という時をかけゆっくり”こころ”も育ちます。

生命の源があるとすれば母のお腹の中で”心地よさ”を記憶させ、その”心地よさ”という基準を忘れることはないのです。自分たちはこの基準で幸せを判断しているのです。それが”気持ち”のある意味です。

これはぽち☆風な基準となりますが、意外と間違ってないのかも知れません。そう感じるかは皆さんの”こころ”であり、どう思いたいかは自由です。もし、自身が心を知らず迷っているなら、そうしてみるのも良いかと思います。

では、不幸とは何でしょう。

それは自分たちが産まれた時に知るのです。
赤ちゃんは産まれてすぐ「おぎゃー!」と泣きます。それは、今まで過ごした”心地よさ”を失い知るのです。

赤ちゃんは、自身が望む”こころ”と異なり”泣き叫ぶのです。それが最初に記憶する”心地よさに戻りたい”となる感情です。

その感情を記憶したため、自分たちの”幸せになりたい”があるのです。自分たちのその記憶を不幸といい、不幸を嫌がる理由となります。

”幸せな基準”とは、その基準を満たす事で笑顔っは醸し出されるのです。気持ちから。

■笑顔
赤ちゃんは、母に抱かれるとスヤスヤと眠ったり、笑顔を顔だします。それは、母の鼓動を十月十日記憶したからに他ありません。

そこには笑顔を醸し出すチカラが働き、喜びやスヤスヤ眠りだしてしまう楽(らく)が現れるのです。

そんな、ひとのこころには”気持ち”から湧く感情を使うことで”気持ちのままに”歩みます。それが笑顔となり人々に伝わります。

そんな人にはそれぞれの人生があり、その歩みから喜怒哀楽(かんじょう)を湧かします。その湧いた感情が人それぞれの心を育て、同じ”もの”は一つないのです。

ただ、そんな心であってもその中心にある”気持ち”だけは変わりません。それは母から持たされた”心地よさ”は忘れられないからです。

そしてひとは、その”心地よさ”に触れることを”幸せ”といい、自然と笑顔を醸し出してしまうのです。誰もが思う”幸せになりたい”にはそんな理由があるのです。

それは、健全な方であっても障害のある方であっても心を病(やま)している方であっても、ひとならば同じ”気持ち”を持つのです。それは、誰もが”気持ち”に触れれば笑顔を醸すのです。

赤ちゃんはぴゅあな”こころ”の持ち主です。言葉を知らない赤ちゃんは”こころ”で会話をするのです。それが”気持ち”と同じなら笑顔やスヤスヤと安心しますが、それが”気持ち”とちがうなら泣き出し怒りもするのです。そんな会話をお母さんがしていたと思われます。

自分たちは育つに連れてぴゅあな”こころ”に感情を幾重にも重ねます。それが”気持ち”を見失わせもします。それを気づかすのは、やはり相手となるひとなのです。赤ちゃんであっても子供であっても大人でも。

『ひとは独りでは活きられない』のです。

それは、誰かに笑顔(きもち)を引き出して欲しいからに他ないのです。

■独りでは活きられない
自分たちの”こころ”は意外と自身では気づけなくなる”もの”です。それは、人の心が感情に囚われやすく知らず知らずに”気持ち”を見失うことがあるからです。

そんな感情に心囚われていてもこころを自分の”もの”にさえしていれば、自分が感情的と気づき正せも出来ます。ただ、大概の人は感情に心を振り回され、それに気づく術を持たないのです。

多少は人生という経験から自分ルールをつくり避くしもしますが、それではこころを自分の”もの”にしているとは言えません。それはまだ病みもするからです。

自分たちが”人は独りでは活きられない”のには、そんな状況でも”気持ち”に戻すチカラを持つのです。気持ちは感情に唯一勝れるチカラを秘めます。それは相手のこころを共感させ、自分をよく知るひとほど”気持ち”に戻し誘えるのです。

先にお話しました赤ちゃんの笑顔には、観ているだけで人を幸せに誘うチカラがあります。それと同じようにひとの心の中には”幸せな記憶”を持ち、それに触れるだけで自然と笑顔は醸し出されます。

ひとは”こころ”の触れ方にカタチはありません。ただ、何に触れるかで感情を引き出したり気持ちを引き出したりと異なるのです。

その人と気持ちに触れる会話ができれば、自ずと気持ちを引き出せるのです。

ひとが”独りでは活きられない”理由にはそんな意味があるのです。

■理由
ひとは人の心を知る事が出来ます。
それは、長い日々をともにすれば幸せな記憶と不幸な記憶を知り得るからです。

もし、はじめて出会ったばかりの人であっても、既に知っている”幸せな記憶”が一つあります。それは、自身のこころにある”心地よさ”という同じ”幸せな基準”を持ってます。

もし、その人が悩み多かったり、感情に心囚われてたり、心病んでる人であっても、その基準を持つ限りその”心地よさ”を知る気持ちを引き出す理由を創れるのです。

それを、その理由を創らず心に触れようとすれば、触れる場所すら判ってなく火に油となる感情に触れてしまうのです。

理由とは一つのみ。
”幸せな記憶”を引き出すだけです。
それ意外はすべて害となるのです。

”良かれ”と思ってのことだろうとしても感情に触れてしまえば、それらすべては害なのです。その”思う”こと事態が感情と知るなら、”する”こと事態が相手の感情に感情を注ぐのです。

”思うや考える”は感情です。

たまたま、相手の気持ちに触れる事があっても、相手が感情的になっているときは、そんな掛けは避けるべきです。こころを知らず、あるところも判らず、どんなカタチをしているかも知らず、こころを自分の”もの”に出来てないのなら、人のこころに触れる前に自分の心を無理には扱わないべきです。

そんなリスクを行うから上手く出来ることも出来なくさせてしまうのです。相手の気持ちに触れられないのなら、今は互いに深呼吸して待つときです。

”幸せな記憶”に触れられる時を。

■思う・考える
人はひとと喋るときに「○○と思う」や「〇〇と考える」と口にします。

それは自身の心の現れで、感情を口にしているのです。

数式のように解のある方程式に「考える」は正しいですが、心の”思う・考える”は自身は自覚ない感情から感情を湧かし、それを答えてしまいます。

それは、心を知らない自分たちは心を頼り過ぎてしまった結果そうしてしまうのです。

このような人の言動には感情が多分にあるのです。それを気づかず会話をし続ければ少なからず感情を心に残すのです。

『塵も積もれば山となる』

自身が気づかない感情は心に積り山となります。それが心のキャパシティを満たすと害になりだします。

もし、自分が心を知らないと思えるなら”思う・考える”と口にしたときは、それをキッカケに幸せな会話をしているかどうかを感じるのです。感情からの感情なら立ち止まってみるのです。

感情からの感情は大概不幸を思わす理由を造ります。
気持ちからの感情には大概幸せを感じさす理由を創るのです。

それだけするでも、こころを自分の”もの”にし出した事になります。

■眼
人は物事を考えると表情に表れます。
それはひとの眼を見ているだけで判ります。

例えば、ひとが会話している時に目線をそらし話す人がおります。そのそらすこと事態が人は言葉を考えている時です。

その考えている時は、その言葉に少なからず感情を交じえ話しているのです。それは気持ちとは違う言葉(かんじょう)を相手に伝えているのです。

それがひとの”こころ”に伝わると相手もその感情に言葉を返してしまうのです。それは感情に囚われた会話となり、本来の気持ちとは異なる方向へ引き込まれるのです。

ただ、心を知っているひとは、その感情交じりの言葉でも何故その言葉(かんじょう)を使うのかを感じることで元に戻すのです。

そもそも、眼をそらしたと判った時点で、本来伝えたい言葉(きもち)があると知り得るのです。その言葉が何かは元の気持ちに戻せば解るのです。

人は一度、言葉を口にすると取り返しがつかず感情を重ねる癖を持ちます。自身がそれに気づき感情の言葉は点に留め、その点を結び並べれば、その線上に気持ちが見え隠れしだすのです。

人の言動には感情が多分にあります。その感情に囚われず、会話が出来れば気持ちの会話は出来るのです。それには自分たちが産まれ持つ”感じる”を使い熟すのです。

■感じる
人は”感じる”を知ります。
それは、綺麗な華をきれいと感じ、ひとの”こころ”に感動を知る”こころ”を持つからです。

そんな”こころ”では、物事をいつも感じ判断しているのです。幸せかそうでないか。
そこに感情を湧かせば感じれるものも感じれなくさせるのです。

感情とは、こころの中心にある気持ちが湧かす”もの”。気持ちのままにいられる自分は、その感情を上手く自分のために使うときです。そこに”思いや考える”をしてしまえば、折角湧いた気持ちからの感情に”思う・考える”の感情を重ね合わせ出してしまうのです。

それでは気持ちとは違う”もの”を造り出してしまいます。それは気持ちを見失わせもするのです。

気持ちは幸せを感じ見分ける器官です。その判断は幸せかどうかを感情に表し言動させます。その気持から湧いた感情が自分らしい”こころ”を形成するのです。そこに出来事という”思う・考える”の感情をわざわざ重ね合わせれば複雑な心のカタチに変えてしまいます。

こころは気持ちで感じることが”気持ちのままに”いられます。感情に感情を湧かし重ねれば知らず知らずに気持ちを見失う心を造り上げてしまいます。

それが人は二人として同じ人がおらない理由となります。ただ、ひとには唯一気持ちという同じ価値があるのです。それが気持ちに異なる”もの”はなく、唯一感じ合えるチカラがあります。それを共感や感動等といい、ひとは知らず知らず使い熟してもいるのです。

それを「第六感」といい、五感以外に忘れられている第6番目の感覚を持つのです。”こころ”はそれが唯一できる器官となり得るです。

■シックス・センス(第六感)
昔、ブルース・ウィリス主演の「シックス・センス」という映画がありました。ホラーであり感動の映画でぽち☆は好きな映画のひとつです。

その映画は、主人公が始まって早々に亡くなるのですが、それを気づいてない主人公に霊が見える少年が気づかせ大切な”もの”を教える映画です。

ひとには見えない”もの”が見えるという人がおりますが、その能力を持った人がどれだけいるのか。そんな人を知る人が”どんだけぇ〜”いるのかとなりますが、それはほぼ皆無だと思われます。

シックス・センスは第六感といいます。
それは人が持つ第6番目の感覚を示します。それを超能力と思う人もおりますが、そんな特殊な能力の方は知らないのではないでしょうか。それもそのはず第六感とは誰もが持つ感覚の一つに過ぎないからです。

それが自分の”こころ”にもあり、ひとが”感じる”チカラのことをいいます。それは”心の耳”となりひとの”こころ”を感じ取れるのです。

その耳から聞こえるのは、自身の”こころ”を通した音しか聞こえず、もしそれが”気持ち”なら幸せを感じ、感情が聞こえたなら不幸を感じ聞こえてくるのです。

人は常々”幸せになりたい”と思ってます。
その思いは気持ちから湧いてます。それを誰もが第6番目の感覚で聞き分けられる耳なのです。

幸せかそうでないか。

それは超能力でなくても誰でも聞き分けられるのです。それを出来なくしているのが感情から若いた感情に心囚われているときです。

■心の耳
自分たちには五感があります。
その五感の内、聴覚を持つ耳はいろんな音を聞き分けます。物の発する音であったり、ひとの言葉であったりと様々な情報の音を聞き分けます。

ひとは耳から相手を知り得ることをしておりますが、それは五感の一つを使っているに過ぎず、その他の感覚からも相手を知り得ているのです。手を握りあえばその力加減で相手の気持ちを知り得まもしすし、視覚でも相手の表情から気持ちを知り得るのです。

ひとは誰しもこの五感を使い相手の心を知り得るのです。その知り得た情報を自身の”こころ”に伝え気持ちで加味するのです。

加味とは、自身のこころを通し相手のこころを感じることです。そこに感情が混じり合えば相手の気持ちを感じることなく、知り得ることは出来なくなります。それを自身も気持ちで感じてなければどちらも同じとなるのです。

五感を伝い得る情報は、自身の気持ちに必ず伝わるのです。それが幸せかどうかを聞く耳となります。

それを”心の耳”といい第六番目のとても大切な感覚です。心の耳は、幸せの音を聞き分けるチカラがあるのです。

ひとに取って一番大切な”心地よさ”と云う音色はひとが一番好みむのです。感情という雑音に苦しさを感じる時もありますが、その中にある幸せな音色を感じることでこころの治癒を促します。

■雑音
雑音は大概のひとが嫌がる音となります。
大きな音、甲高い音、いつまでも耳に残る耳障りな音といろんな雑音がありますが、人によってはそれが好きという人もいるのも事実です。

少数派ではありますが、自身に取っては良いと思うようですね。しかし、それを周りの人に与えるのは道徳的にはあり得ないのです。

誰もが好む音色であれば分かち合いも出来ますが、そう思えないひとがいるのなら気を使い合うことが”心の距離”を保てるのです。

ここで云う音というのは良くも悪くもなる”出来事”です。その音を無理に与えるのか自然に聞こえて来るのかでは、その心の受け方は変わるのです。

自分が”良かれ”と声かても、相手の気持ちを感じずに押し売り掛ければ雑音となるのです。

相手のことを大切に思うなら、まずは心とは何かを知ってからでも遅くはないのです。心を知らないままでは、相手のどこにある”こころ”に話かけたさえも分かってなく、結果、相手の感情に話しかけて感情を更に湧かさせてしまうのです。

心の距離とは、そんな気づかいから判るのです。

■心の距離
人との距離は見る距離と感じて分かる距離があるのです。

見る距離とは、自分たちが学んだcmやメートル等を使った距離として表わす距離。もう一つの距離は、ひとの心を感じる距離の事を云います。それを”心の距離”といい、理解解しているようで確信の持てない距離です。

人は物を認識します。
それは見て触って時には物差し等で測ることのできる物だからです。そうとなると測れない”もの”はその距離を知る術を無くします。

人の心もそうです。
心を知っているようで実はよく知らず、その心との距離は図り方も知らなければ、どこにある心を測れば良いのかも知る由もないのです。

ただ。こころはひとのカラダの何処かにあると誰もが知ります。人と人の距離とそんなに変わらないとも判り知り得ますが、心は微妙な距離で人間関係を損なうのです。

例えば、ゴルフの1打でどんなに飛ばせる人でも、最後のパットで優勝を逃す人もいるのです。1打は1打でカップに入らなければ命運を分けるのです。

心の距離も見間違えれば取り返しのつかない恐れがあります。その心の距離を知るのには、第6番目の感覚を使うことで知り得るのです。そこに感情が入れば最後のパットは必ず外れてしまうのです。

こころとは感情では測れず、気持ちで感じ測る”もの”なのです。

■こころの距離
こころの距離は気持ちを使い測る距離。相手の気持ち、自分の気持を互いに感じ合える距離となります。

その距離は半歩踏み込むだけで相手に不快感を与えもすれば、遠すぎても気持ちを感じ合うことは出来なくなります。

但し、こころには許容範囲という余裕があり、その許容を使い合うことでお互いのこころの距離を保てるのです。

その共用範囲とは”こころの余裕”を云います。

今しがた出会ったひとでもこころの距離に許容範囲がありますし、昔から関係なら尚更許容範囲を知り得て扱えるのです。

人それぞれのこころの距離を保つ許容範囲は共にした時間に対し異なるのです。

ひとはミスをしますが、その許容範囲内であれば許す距離とも成り得るのです。ひととのこころの距離はその許容範囲を感じる事で保ち居られます。

もし。踏み込み過ぎても、遠すぎてもどちらかがそ
の距離を感じ歩み寄る気持ちを持ち合うのなら、こころの距離をそんなに難しく考える必要はないのです。

■判断
ひとはいろんな場面で判断をします。
人生の判断もあれば、仕事の判断、遊びの判断、数々の判断をしております。

その判断はやはり心が行っており、今後のなり行きを決めるのです。そんな判断の一つに”気持ちの判断”があります。実はその判断、自分に起きた出来事に関係しているのです。それが幸せかそうでないかです。

一般的には、考えたり、思ったりとなる判断がありますが、ココで云う判断は気持ちで感じる幸せか不幸かのどちらかの判断です。

人には喜怒哀楽という感情があり、その感情は自身の気持ちから湧いてます。何故、気持ちから湧くかというと自分が幸せかそうでないかを表わすために湧かします。

その現れの一つが笑顔であり幸せを感じたとき醸し出すのです。

ひとの”こころ”とは本能的に幸せかそうでないかを判断しているのです。その結果は感情を使い言動に表わすのです。

それが感情から湧いた感情に心囚われなければ、気持ちの判断は自身を幸せに導こうと伝えられるのです。

物事は考えるより先にそれが自身のための気持ちの判断を感じているかいないかで、物事の結果は大きく左右されるのです。

■もう一つの道
自分たちには人生という道がある。
その道はオギャーと産まれた時から歩みはじめ、その人生をどう歩むかは自分次第となる。それが幸せにも不幸にも歩むのは自分の自由です。

ただ。誰もが思うと思われますが、好んで不幸な人生を歩もうとはしないはず。それは誰もが”幸せになりたい”からに他ありません。

そんな人生という道には、いつももう一つの道があるのです。人はその道を知ってか知らずか避けて通る人がよくいるようです。

その道は心を知っているひとならば、容易に通ることができますが、残念ながら学校でも習えてない心を知るひとはほぼいないと思われます。

人は後悔をします。
それは、もう一つの道に気がつく時でもありますが、時間は戻らず、後悔の念を引きずり進むことになるのです。

人は常々”幸せになりたい”と思っているのに、これから進む道にもう一つの道を自覚せず避け続けてます。人には今、歩もうとする道を変える権利があり、その時もう一つの道が見えてくるのです。

そのどちらかは幸せになる道とそうでない道が表れて、自身で選ぶことができるのです。惰性で進む道とは違い、どちらの道も自身が選んだ結果を理解する道になるのです。

選んだ道が必ずしも幸せになる保証はありません。その結果が幸せでない道だったとしても、自身の経験となり、次なる2つの道を繰り返し幸せな方へと歩むのです。

自分が”幸せになりたい”と思うことは大切ですが、幸せな道を選ぶことが必ずしも大切ではないのです。良くも悪くも幸せに辿る道を歩むことが、自身が選んだ道に後悔を残さず”納得”という道をこころに残します。

■知る
自分たちには心があると誰もが知っている。
それは、学生の時に心という漢字とその意味を何となく知って知っているように錯覚してしまうからです。

ただ、心は誰にでもあるのです。
あると判っていることだけは事実であり、それ以上を習って無く知らないだけです。それさえ気づいてないことも知らないのですが。。。

そもそもそれも仕方なく、学校の先生のも同じ事しか習ってなく、その先生を教えた先生も同じく習ってない事から教えられないのです。

もし。心をよく知っているという人が自分の周りにいるのなら聞いてみると判ります。『心がどこにあるか』や『どんなカタチをしているか』を聞いてみれば判ってしまうのです。

もしその人が頭や胸の辺りを示す人がいたら「何故、そこが心か」と更に聞いてみてください。

自分を納得させる説明にはならないことを知るのです。それもそのはず、その人も習ってないから”こんなものだ”ではというぐらいです。

その人が心の専門の方だとしても、その質問で知ってしまうのです。

ひとの心を扱うのなら、その心を知らないと納得もさせれなければ、どこを治癒しようとするのでしょうか。

■心のカタチ
心をハート型という人がおられますが、それはTV や漫画の見過ぎかも知れませんね。

心がハート型ならそんな可愛い事はないとは思いますが、心がハート型とは誰も納得させれず残念な理想に留めましょう。そうでないと心苦しくなったとき、心を知らない自分を感情に囚われ易い体質をつくり兼ねないからです。

ココ”心のカタチ”では、こころを薔薇の華のカタチと云います。最初は違和感を持たれるかも知れませんが、先に話した気持ちを取り巻く幾重もの感情がそのようにカタチ付けるのです。

カタチ付けるとは、心のカタチが薔薇の華のようなという意味ですが、薔薇の華は誰もが綺麗と知り自分のこころも本来綺麗という意味も兼ねてます。

それはひとの”こころ”も幸せという綺麗さを持っており、それに重ね合わさる感情という花びらをどう重ね合わせるかで、その綺麗さが変わるのです。

薔薇の華にはその中心に雌しべ雄しべがあるのはご存知のとおりです。その雄しべ雌しべがない花は花には思うことは難しいでしょう。雄しべ雌しべを含め華だからです。

そんな雄しべ雌しべには大切な役割があります。それは大切な子孫を残す種をつくるからです。ひとのこころの中心に”気持ち”があるのも、ひととして大切な役割があるのです。

人のカラダには五体があります。
その五体には視覚・味覚・聴覚・触覚・臭覚という五感が備わり、その五感から様々な情報を”気持ち”に伝え知るのです。その知るとは気持ちが判断する幸せかそうでないかです。

その判断は気持ちからの感情を湧かし、五体に返し言動させます。それは、大切な気持ちを中心に感情と連動する五体を使い気持ちを表わすのです。

自分たちが気持ちが言動を起こさせると知るのなら、その周りにあるものが心を形成する”もの”と知り得もするでしょう。

心は自分たちのどこかにあるのではなく、気持ちを中心としたカラダ全てが心なのです。

その証は、自身カラダのどこが不幸になっても”嫌”と思うことです。こころとは不幸を嫌がる”もの”。そこは全てこころなのです。

■想定
人は想定するとき、これから起きる事を先読みしてリスクを避け自分を導こうとします。

将棋の藤井さんも一手も二手もそのまた先を想定し、あの強さを引き出していると思われます。それが自分のための結果(しあわせ)に繋がるなら尚更です。

人は心のあるところを知らないのです。
だから、何か不幸な出来事が起きると心を悩まさずには居られません。その心のあるところを知らないばかりに、頭や胸の辺りなどあると想定し悩み答えをひねり出そうとします。

そもそも、そこに心があると誰が言っているのでしょうか。自分の心でさえも解からずそこを想定し何の役に立つのでしょう。それでは、本来あるはずの心がブレて答えがでるはずもありません。

”心を知らない”とは基礎のない土台(こころ)と同じ。その上に築く”もの(こたえ)”はすべて不安定にさせてしまいます。その不安定な心を使い悩みを解消しようとすればするほど、その代わりに感情を湧かしてしまい、自身は納得できず悩みつづけるのです。それは時として病へと引き込み出すのです。

当たり前なこと。
心が自分にあるというだけで、解らない心に頼ればどうなるのか。それは何を考えたとしても感情に振り回される理由を造るのです。

想定という言葉は”心”があって”相”手を”定”めると書きます。その相手とは自身の心に対しても同じなのです。

自身の心を定めて、はじめて相手の心も定められるのです。それがブレのないこころを創り、それを感じ出た答えはどんな結果でも揺るがない納得を得るのです。その経験は次の想定の精度を向上させるのです。

こころは”もの”。人は未来は分かりませんが想定は判るのです。その想定(こころ)を扱うのか振り回されるのか、その違いとなります。

■こころは”もの”
人は手を使い物を触ったり持ったり握ったりと扱えます。その手は便利に扱える道具と云えます。その扱いはこころがそうしているのです。

人は脚も使います。自身を移動させ、歩いたり走ったり、時にはボールを蹴ったりといろんな事が出来ます。それもこころが便利に扱っている証です。人のカラダにはそんな道具が数々あり、扱う事ができるのです。

自分たちのカラダのすべてが自分のため、場合によってはひとのために扱える道具なのです。世にいう道具も”物(もの)”であり幸せに扱えるのです。だから、からだのすべても幸せに扱えるのです。

当たり前ですよね。
人は”幸せになりたい”のだから、造った道具も自身のカラダも不幸になるために使い方はしないのです。

人はその道具(もの)を理解すればするほど、上手く扱えるようになります。それは手脚のように便利に扱えるのです。

心も同じ。
その心を知ることで、それがあるところやカタチから自分のために扱う方法を知り得ます。

自分たちは心を習うことなく今に至ります。
心を知らない事を知らず今に至り、心が「ある」と安心しどこにあるかも判らない心を無意識に扱おうとしていたのです。上手く扱えず心を病ましてしまうのも極普通な出来事となっていたのです。

ぽち☆はカラダ全体が心とし、そのカラダを”物(もの)”とし、”もの”であれば上手く扱えると定義しました。それが正しいとも間違っているともするのは皆さまの自由ですが。一つ云えるのは、自身の心、身近な人の心が悩まされているのなら試してみる価値はあるかと想います。

人はもともとカラダを上手く扱う生き物です。
ぽち☆がしたのはそれらを心と定義付けただけで、こころが安定し”上手く”扱いだせた経験の話しです。

こころは”もの”。
そして、そのこころは自分の”もの”
だから、幸せにも不幸にも扱えもするのです。

こころには”幸せになりたい”があるのなら、その扱い方は”幸せ”に扱いたいですよね。心も上手く扱おうとするかは自分次第なのです。

■自分次第
人はこころを持ちます。
そんなの解ってるY(わい)!と言われるかも知れませんが、そのこころを本当に解っているのなら
その扱いは自分次第となり得ます。

人をその心を使い、自分や人を悩ます事ができます。その反面、ひとを幸せにさせることも出来るのです。

ただ、そうしたいなら心を知る事がとても大切であり、心を知らなければ出来るものも出来なくなるのです。まずは、こころのあるところ、そして心のカタチを知り、そのこころが自分の何処にあるか知ることからはじめるのです。

ここまで読んでいただいた方々には、先にその答えを言っているので、既に知っている事として話を続けます。

そしてそのこころのあるところ、カタチを知ったなら、そのこころの中心に”気持ち”がある事を忘れてはイケません。

その”気持ち”では自身が幸せかどうかを判断します。そして、同じこころを持つ相手の幸せかどうかも感じもするのです。

それが、自身のこころを”納得”させ、自分や相手に起きた物事をひとつ一つ解消をさせます。それが幸せかどうかはありますが、そのどんな結果でも納得は自身の経験とさせるのです。

その経験は、次なる自身の歩む道(じんせい)を幸せに導こうとこころはしていくれるのです。

それは、ぽち☆が云うからそうしないとイケないのではなく、自身がそうしたいどうかの話です。

それが自分次第で”できる”のです。

■立ち止まる勇気
一つ考えて見て下さい。
自分たちは物事が起きると様々な感情を湧かします。

その感情は喜怒哀楽といろんな感情を湧かして自身に言動を誘発します。その大元である”気持ち”がどうしたいかで納得も責任も得られるのです。

それが出来ず感情からの感情を湧かせば、その感情に振り回されてしまいます。そんな感情に怒れたりや哀しかったりと自身を悩まし苦しめてます。

この後者の感情を上手く扱えなければ、気持ちとは裏腹に”幸せになりたい”をさせてくれないのです。

そうなれば、その感情は自分を深く悩ますために更なる感情を湧かし気持ちを見失ってしまいます。そうなれば、感情が自身を納得させれる訳もなく、自身の責任を持てる範囲を越えてしまいます。

そんな感情を時を使ってぼやけさせるしかなくなり長い時を過ごさなければなりません。時間では何の解決にもならなく、心に火種(かんじょう)を残すだけです。

そんな状況であっても術はあるのです。
その感情をどう取り扱うかは自分次第ではありますが、いつものように悩み苦しみ続け時を待ち耐えるのか、それとも他の方法を試みるかです。

と、言っても他の方法には2つしかないのです。
その悩みを解消するか、そのままにするか、です。

今は”心を知らない”こともあり、本来選びたい解消は出来できるはずもありません。なら”そのままにする”を試みるのです。その方法は『一旦、立ち止まる』と云い、解消しようともせず、更に感情を湧かす必要もないのです。

”立ち止まる”と云うのは、今の感情にこれ以上触れる事を一旦止めてみるという意味です。それは解消は出来ませんが少なからずこころの負担を減らすのです。そして、その悩みを解消できるこころの余裕を取り戻すまで「そのままに」しておくだけですの事です。誰でもできる事のはずです。

それをするには今後も予測のできない出来事(かんじょう)を感じたら”立ち止まる勇気”が必要になります。

その勇気を試して見れば判りますが、意外とそこから起きる出来事は大した事ではないと気づくのです。もしかしたら、抱えていた悩みも大した事ではなくなっていたりもするかもです。

■考える癖
人は心を知らない代わりに、よく考える事をします。

それは、知らず知らずに身につけてしまった癖ではありますが、その”考える”は悪いことではありませんが、答えのない事に使えば不安定さを増すのです。

そんな不安定な”考える”は、感情を湧かす絶好の”エサ”となります。心が感情に囚われると答えを欲します。その心にエサを与えれば自ずとドツボに入り自分の意志とは別に勝手に泳ぎまわるのです。

そのドツボに入るのは誰もが嫌と思うはずです。それが嫌なことと自覚するなら、ドツボに入る前に”立ち止まる勇気”を使うのです。

一旦立ち止まってみると周りを見渡すこころの余裕ができます。もう一歩進むのか。その他の人生(みち)を歩むのか、少なからず”幸せ”と感じる人生を選ぶ余裕となるのです。

それは自分自身で選んだ人生だから、その結果がどうであれ納得も責任も持てるのです。

こころの余裕とは、自身の気持ちを感じるチカラです。そのチカラは必ず幸せを感じる方向へと導いております。自分が”幸せになりたい”なら当たり前な行動です。

”考える”という癖で選んだ人生を歩むのか、それとも”気持ちのままに”感じる人生を歩むのか。自分次第ではありますが、後者にはどんな結果であっても”笑顔”があるのです。

笑顔は幸せを感じ醸します。
自身のこころの中にある答えはいつも同じです。

■答え
自分たちは数式を解くように活きていると答えを求めます。それは自分たちに起きる出来事という難問にも答えがありそうしてしまいます。

自分たちは出来事で喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだりしますが、怒りや哀しみを伴う感情は特に答えを求めたくなる癖があります。

それは、自分のこころがその感情を嫌がっているからに他ありませんが、なかなか答えを見つけれずに悩んでおります。

そんな時に限って、人は”考えるや思う”を使い感情を湧かすのです。その感情に心が囚われてしまえば、本来、心の中にある答えを見失うのです。そして、その答え見つける代わりに、沢山の感情を湧かして心の余裕を埋め尽くすのです。

元々、ひととは答えを心の中に一つ持って活きているのです。その答えがあるから人は、活きるチカラを持てるのです。人が”幸せになりたい”と常々思うのもそうです。

この思うは、自身の気持ちを表すために気持ちが湧かす感情です。その感情は気持ちに近く自分を”こころの答え”に導く術なのです。そんな状態をこう云うのです。

『気持ちのままに』

人は物事に原因があるとよく考えます。それは原因ではなく、物事が起きた理由なだけです。その理由に”答え”は答えはないのです。原因は自身のこころなのです。

そのこころが幸せかどうかを感じ嫌がる物事が起きると答えを求めるのです。そしてその答えとは、嫌がるこころをどう幸せに戻すのか。どんな物事であっても自身のこころが幸せでなければ、何の解決にもならないということです。

だから、自身に起きる物事にもし悩んでいるなら、まずは自身のこころを幸せに戻せなければ原因は終われないのです。出来事にばかり心囚われれば解決できる事も出来ないのです。

どんな物事であったとしても、こころの答えは”幸せ”しかないのです。

■余裕
ひとは悩ますとこころの余裕を使います。
それは悩みなどで湧いた感情をその余裕に詰めてしまうからに他ありません。

そして、そうさせる一番の理由が、考えるや思うをしてしまうからです。そこには、こころを納得する答えはなく、その理由ばかりを湧かしてしまうのです。

考える、思うとは、そもそも感情であり、それだけでは解消できる”もの”ではありません。人は人生を歩むと多かれ少なかれ、そんな感情を余裕に詰め込み歩んでしまうのです。

それが幸せな感情なら気持ちと共感し解消(なっとく)もしますが、そうでなければ感情は残り、いつかこころの余裕を使い切ってしまうのです。

例えば、コンピュータのメモリも使い切れば処理不能(ハングアップ)となり暴走します。そうなれば自分では手が付けられなく、専門の知識を持つ方に頼らなければならにのです。それはコンピュータに限らず人のこころも同じです。こころの余裕を使い切れば暴走したり、時には病しもするのです。それは、心を詳しい人というより、自身が心を知らなければ元に戻せないのです。

ひとには想定する事が出来ます。想定は考えたり、思ったりを使いますが、それは今後起きうる事にこころの余裕を使い切らないリスク回避を行うのです。

自分にはこころの余裕があるかないかぐらいを一番自分が判っているのです。それを無視し考えるや思うをし続ければ、感情が感情を湧かす考える、思うを使ってしまうのです。それは、ある日、こころの限界に達し自ずとパニックさせてしまうのです。

想定とは、パニックを起こさない気持ちの表れです。それは気持ちから湧いた自分のための感情であり、そこに使う考えるや思うは気持ちから湧いた感情なのです。

要は、こころの余裕を使う前の考えるや思うと余裕を無くした時の考えるや思うは違う感情を湧かすということです。

もし、後者の感情が判るならこころの余裕を無くすまえに”一旦立ち止まる”を試みるのです。

そして、今すぐにはできませんが、心の容量(よゆう)を増やす術を行うのです。それには”心を知る”がとても大切になります。

心の余裕は、心を知らない人にとって、つくろうとして出来る”もの”ではありません。それは、その心のあるところも知らなければ、こころの余裕をどうやって増やすかのカタチも知らないからです。

今は解からずとも出来る”一旦立ち止まる”を試みるのです。それは、今より楽、今より楽は幸せに振り返る余裕を持てるからです。一旦立ち止まって周りを見渡すだけでも、こころの余裕を有効に使えるのです。

”心を知る”というのは、こころを自分の”もの”にするだけでなく、その心の扱い方も知るキッカケになります。

■病
病には様々な患部があります。
その病については、その専門の方が詳しく知っていると思われますのでぽち☆はココで話すことはありません。

ただ、心に対して何をもってそれが病とされているのかぽち☆は疑問を持つのです。

いわゆる、病や怪我には患部があり、そこに治療を施します。一般的には心の病は心が患部となりますが、その患部をどう知って病と告知しているのかとなります。そんなどこにあるかも判らない心をどうやって治療しようとするのか。心を病ます人はどう告知(せっとく)されているのでしょうか。

いわゆるこころの病には、自律神経失調症・統合失調症・適応障害・発達障害・躁うつ症・うつ病・パニック障害・自閉症・絶食障害・不安症など、心の病と言われてます。

そもそも、心を病ます人も”心を知らない”から、そう言われて信じてしまっているのかも知れません。

ただ、ぽち☆は心の病を否定しているのではなく、そのような方もいるかと思うのです。それこそ、心の病を植え付けてしまう事にも成りかねないということです。

病は何故病と解るのか。
患部があれば容易に判りもするが、その患部が判らなければ、病名を今つけるべきではないのかも知れませんね。

■浮き沈み
心は浮き沈みをする。
プラス思考にもなればマイナス思考にもなる。喜怒哀楽という感情はそこを行き来して心の状態を表わします。

それは心だから当たり前な極普通な状態。心は、それが無ければ何のためにあるのか意味をなくします。

自分たちは心の中心に気持ちを持ち、心があるから幸せかどうかを知り得ます。それが感情を湧かし、こころの表現として言動を起こすのです。だから、浮き沈みする心は、心の状態を感情で醸し出す極不通な事なのです。

心は沈んでもいずれ浮きもする”もの”です。
心は浮いていてもいずれ沈みもする”もの”です。

それが心という”もの”で、それが早いか遅いかは個人差あるだけかも知れません。それも心を知らないから時間に任せ戻すから個人差となるのです。

その時間に頼ってしまえば、その時間に幾つもの感情を湧かす理由を湧かします。そうなれば、感情に振り回されれ手に負えなくさせてしまうのです。

今まで自分がどれだけ心を知ろうとしていたのか。知ろうとしたとしても、心のあるところを知ろうとしたか、心のカタチをどうやって知ろうとしたか、怠っていたのかも知れませんね。

感情に振り回されてしまうのは、今まで心を知ろうとしなかった代償かも知れないのです。

それに興味を持つか持たないかは自分次第です。でも、知らないより知った方が良いのではないでしょうか。

■興味
興味は人から言われて持つものではありません。
それは、自分のためでなく、付き合いのためにしかならないからです。

ひとは興味を持てるとそれが楽しくなります。その楽しいには、何よりも”幸せ”を感じれる事に他ないのです。

だから、ひとは興味を持てば没頭ができるのです。

ただ。
心にはあまり興味を持たれない人が多いのかも知れません。それは、心を重く思う”もの”と記憶してしまっているからです。それもこれも”心を知らない”から悩み辛くさせ、心にその重さだけを記憶させた結果です。それは、自身の心に負担をかける感情の記憶しか残してないのです。

心に興味を持つとは、そんな感情を解消するために必要なのです。それは自身に必ず一つあるこころだから興味を持てば解りもするのです。一気にすべてを知る必要もなく、人生という時間を使って一つずつ納得して行けば良いのです。

人は心というキーワードを避けていただけです。
重く思わせるのは記憶した感情であり、その感情に囚われないように興味を持ち絡んだ心を紐解けば良いのです。

それが”心を知る”一歩になります。こころを自分の”もの”。心を知ることで自身のこころと共感すればいいのです。

■共感
人は物事に共感する事を知ります。
その共感とは何か。

同じ趣味を持つ人に共感する。
同じ物事を考えれる人に共感する。
自分のこころ動かす人に共感する。

いろんな共感があるように思えもするが、それは感情が起こした錯覚で共感はたった一つの”もの”に起こしているのです。

人には心があります。その心の中心に気持ちがあり、その気持ちは幸せかどうかを判断しております。

人は物事に共感するが、すべての人が共感するとは限りません。それは、共感していると思っている事が感情であり、その感情が物事に心囚われ区別してしまっている錯覚です。それは本来共感している”ですもの”が心の中心にある自覚を知らないからです。

それは気持ちであり、その気持ちが幸せかどうかを判断し、幸せを感じ合うものどおし共感するのです。それでも共感しているのは自身のこころであり気持ちがあるからです。

だから、共感しているのはたった一つの自分の気持ちなのです。

■同情
人は人を同情よくしてしまいます。
それは、ありがたくもありありがたくもない事なのです。

人が同情するときは、幸せな人に同情しないのはご存知のとおりです。大概は、悩んでいる人に同情しているのではないでしょうか。

ただ、同情は”同じ情”と書き、字のごとく相手の心と同じ情を持つことで行うのです。それには、とてもリスクが伴い、相手の負の情を同情するからです。それは知らずしらずに相手と同じ情を自身の心に引き込み”答え”のない感情に囚われれば自身も病ますこととなり兼ねません。

同情とは、幸せでない人にし易く、逃れにくい感情に囚われ易くするのです。だから、心を病していると言われる人に同情はするべきではないのです。そうしなければ鬱はうつるのです。

同情は決して悪いことではありません。ただ、”心を知らない”不安定なこころをうつは好むのです。

だから、同情するのではなく、その代わりに今の自分に”幸せ”を共感させるのです。相手のこころの中心にも自分と同じ”もの”があるのです。それを引き出し同情させるのです。

■引き出す”もの”
自分たちの心の中心には必ず気持ちという”もの”がある。その気持はいつも幸せかどうかを判断する器官であり、自身にそれを伝えている。

それが幸せを感じる時は、ひとは今以上の”こころのチカラ”を活かし使える。

それが”幸せになりたい”と常々思っている答えの正体。

自分に起きる物事には理由はあっても、どうしたいかの答えはない。理由には原因がないからだ。そして、その原因とは自身の心であり、その心が幸せに無いことを不満に思っている。

人は誰もが不幸を嫌がる。
だから”幸せになりたい”と常々思う。
ひとのこころは”幸せ”という答えでなければ納得も何の解決もならない。

そんな心が悩むとその辛さに嫌がり、何とかしようと感情を湧かす。そんな感情はやればやるだけ感情を厚く塗り重ね自分ではどうしようもなくさ、時に病まさせもする。

ただ。そんな状態の人でも人には五感があります。その五感はどれも心に繋がっており、自身の状態を気持ちに伝えている。

そして、不幸かどうかを判断する事ができる。

その判断をどう扱うかは自由だが、扱うどころかその感情に扱われている人が多い。そうなれば、こころに届く事をしない限り、こころを引き出すことはできない。

だから、五感を使い相手のこころが共感し得る事をしなければできない。その共感は、どんなに感情に囚われた心であっても出来る術。

気持ちと共感する”もの”であり、
共感すると自ずと気持ち(もの)を引き出せる事。

それは”幸せな記憶”を引き出すだけでいい。

■想い出
ひとには想い出がある。それは、人生を歩めば歩むほど幸せな思い出とそうでない思い出を創る。

ただ。そんな思い出の辛い”もの”だけを自身の心から引き出す人がいる。それはマイナス思考とも言われるが、そもそも、辛い思い出を引き出せば感情が感情を湧かすエサを与えてしまう。

自ずと心は沈むばかりに作用する。

心とは浮き沈みをする”もの”。
ひとは思い出をこころの中から引き出せれば、その沈みぱなしの心を浮かせもできる。それは自身が楽しい思い出を引き出せれば出来もする。

ただ、それは心を知らない人には、難儀なことでもあり、誰かの手助けが必要となる。それが”想い出”を引き出してもらうことが大切となる。

想い出とは、相手の心を引き出してもらうもの。思い出とは、自身のこころの感情を扱い自分で引き出すもの。心を知らない人がそれをすれば、心の状態によりその感情に扱われてしまい幸せではない思いを引き出してしまう。だから、誰かの手伝いが必要となる。

人は母に”こころの基準”を持たされ産まれてくる。
こころが浮いているから良いのでもなく、心が沈んでいるから良くもない。どちらも感情という出来事(いんりょく)に惹かれ感情的になってのこと。

こころの基準は母に持たされた”心地よさ”にあり、本来の幸せは調和のとれたところにある。

波は荒れはするがいずれ収まる。

こころも波打ちはするが
想い出に振れること治まる。

”いつも気持ちのままに”を思い出し。

■触れる”もの”
「病は気から」という言葉を聞いたときはあると思います。

その気とは、気力の気とも言われますがぽち☆は気持ちの気と考えます。それは誰もの心の中心にある”もの”でなければ理解できないからです。人は自分の気持ちを見失えば心身ともに疲れ、時に病(やま)させもします。

気持ちは、共感する”もの”であり、引き出し、引き出されるためにあます。その気持ちを引き合うために思い出がひとのこころには必ずあり、その思い出の中に必ず”幸せな思い出”が1つ以上あるのです。

人は母から産まれた際、こころに”心地よさ”という思い出を持ちます。その思い出を基準に様々な幸せに共感しうるのです。時にはその基準に反する思い出も創りますが、その思い出があるがために幸せな思い出が強く引き立つのです。

人には思い出が必ずある。その想い出を知る人々は相手の気持ちに触れる事ができるのです。想い出を使い共感し触れ合うのです。

”病は気から”の気からは、こころから幸せな想い出を引き出すことから始めます。どんな状態でも五感を通し気持ちに触れられるからです。相手の心(おもいで)を知れば知るほど、その気持ちを引き出すチカラが使えるのです。

それを”こころのチカラ”といい、誰もが持つ極当たり前に持つチカラなのです。

人はそれを心を知らないがばかりに、感情を湧かすエサを与え見失わせます。

病した心に治癒を促すなら、気持ちに触れることでそれを促すのです。

”病は気から”の振れる”気”は気持ちなのです。

■治癒
治癒は”治し癒やす”と書きます。
治すとは、病やケガを治すことと判りますが、心の病はどこを治せば良いのでしょうか。

そう。
そのまんま”こころ”ですね。

風邪はそのウイルスを抑する薬を投与すれば治ります。ケガならば、その患部に治療を施せばいずれ治るのです。そのどちらも原因(かんぶ)が特定でき治療できるのです。

心の病はどうでしょう。
”こころ”と判っていてもその心のあるところが判りません。心を治療するとは判っていても、その治療する患部を知らずに治そうとしていないでしょうか。

心の治癒は、まずその患部となるこころを特定することが必要なのです。それは、自身のカラダの何処かにある心を知り、治療できなければ治癒とはないのです。

ただ、辞書にも書いてない心をどう判ればよいのか。自分たちが誰かに聞いて「はい。そうですか」と判る”もの”ではないのです。

ならば、心を知るより先に施せることがあります。世の中には漢方というものがあり、それは自然にあるものを服すことで自己の治癒を促してます。ひとのこころにはそんなクスリ(もの)が元々あるのです。それが気持ちです。

”病は気から”と昔から云われ伝わります。こころ等の治療には効果ある方法の一つです。

その気持ちには何があるかは既にご存知のとおりです。気持ちは常々”幸せ”を判断する器官です。その気持ちが”幸せ”を判断するから活きる感情(チカラ)を湧かすのです。

気は気力とも思われがちですが、その力はどこが持つのか。それはこころであり気持ちから湧いた感情を服するのです。そのクスリは元々カラダにあり、服しても害はないのです。

自分たちは気力をこころが持つと思ってはおりますが、心、心と言っているだけでは何の役も立たないのです。

気力は”気”が”持つ”力のこと。
言い換えれば”気持ち”のチカラのことです。

こころの中心にはひとり一つずつ気持ちがあります。その気持ちは心を知らなくても扱えるのです。誰もが幸せを感じれば笑顔になるように、普段からそうしていたはずです。物事に振り回されその笑顔を忘れたばかりにそのクスリを使うことも忘れてしまったのです。

幸せを感じることがこころの中にある特効薬(チカラ)を引き出すのです。

■クスリ
薬には多くの薬があり自分たちの健康を保ちます。その薬には効能が患部に効くからの他ありません。
ただ、心に効く薬はないのかも知れません。

いわゆる、心の病に使われる精神安定剤・睡眠導入剤・抗うつ剤等の薬で治ったひとはいないからです。

もちろん、その薬があり普段の生活に戻った人たちもおりますが、治癒したとは言えないのです。それは繰り返す人がいるからです。

そのような薬をもし”心を知らない”人に使えばどうなるのか。症状に対しては抑することはできても、こころに効いているとは判りません。心を知らないのならそれも知る事ができないということです。

人は心の病に薬を服用させるということは、その薬を服用する感情に囚われます。その感情に囚われれば、治癒する目的に辿り着けなくもさせるのです。薬を服用することはとても大切なことですが、そこに湧く感情に囚われさせてないか気をつける必要があるということです。

どこにあるかも判らないこころに効く薬は、自身のこころに元々あるクスリを自分自身の気持ちで服用(りよう)できるのが一番です。

心を知る。それがこころの治癒力を高めます。
時間はあるのだから。

■治癒力
自分たちには、病気やケガを治すには製薬会社の薬にお世話になっておりますが、もう一つのクスリも扱っているのです。

病気やケガは薬などを使い治癒しますが、心の病に効く薬はまだ明確にはありません。処方された薬を服用したら心の病が治ったと聞くことはないし、それがあれば世の中に心を病す人は減少傾向になってます。

それは、心の病に効果のある薬がないとも言えますが、”心を知らない”ばかりに効いているかも判らずにいるのかも知れません。

ただ、自分たちには心があります。その心の中心には気持ちがあります。人を幸せに感じさせるのもその心なら、悩ませ辛く思わせ病させるのもその心です。自身に起きた物事でこころは原因を創るのです。

自分たちには、もう一つのクスリを扱っていると云いましたが、それが気持ちのチカラであり、気力ともいいます。気力は幸せを感じることでチカラを持たせます。

そのチカラこそ、もう一つのクスリとしてこころに効くのです。そのクスリを”治癒力”と云い誰もが持っているのです。誰もが”幸せになりたい”と思い、その幸せを感じたとき、カラダに効くのです。

あとはそれを扱うだけです。

■扱う
人は物を扱います。それを無理に扱えば意図する結果になりません。物は間違った扱い方をしなければ自分のために役立つのです。

こころも同じ。無理に扱えば感情を湧かし上手く扱えなくさせます。扱うどころかその感情に扱われてしまう恐れもあるのです。

心は”もの”ではあり、その道具(もの)は物のように扱えないのです。それは、こころは一緒に活きるパートナーでもあるからです。それを一方的に扱えば気分を損ねることもあるからです。

考えてみれば判ります。意志を持つ友人を一方的に扱えばいずれ離れていきます。それと同じく心も意志を持ってます。そのこころを無下に扱えば感情を湧かし暴れもすれば戻って来なくもさせるのです。

そもそも、心を扱うのではなく、知ること、感じること、幸せを共有し合うことが大切で、それを”こころを扱う”と云うのです。物のように扱えば害となるのは当たり前です。

自分たちはすでに一方的な扱いをして活きてきました。それは”心を知らない”こと。まずそこから関係を築くのです。そうでなければ感情ではこころは動かないのです。

■感情では動かない
ひとは命令では動きません。
力関係で動いていてもいずれ動かなくなるのです。

ひとは気持ちで動きます。
自分の気持ち、ひとの気持ちを感じ動かずには居られないのです。

だから、ひとを命令で扱えばいずれ離れて行くのです。その命令とは感情の何者でもなく一方的な要求で、その感情で扱っていればいつか自分のために動きたくなくなるのです。

それを「ひとは感情では動かない」といい、ひととして一番大切な”もの”を失う理由をつくります。

それに対し「ひとは感じて動く”もの”」です。
それは、ひとはこころ感じたとき自然と動いてしまうのです。

その自然と動いてしまうには、その結果に”幸せ”が伴うからに他ありません。共に幸せを感じ合えば、相手に幸せを感じさせることもある。それはいずれ自分にも幸せが返ってくるから動かずにはいられないのです。

ただ、それを期待すれば幸せ(かんじょう)の押し売りとなり、返ってくる”もの”は感情となります。そこには”幸せ”を感じることはなく、ひとは動かなくなるのです。

人はこころを持ち、そのこころの中にある気持ちを感じ合います。それは”心の価値”を持つものどおしが出来ること。ひとは唯一その価値を持ち共感し合い動き合うのです。

■感じさせる
人の記憶には幸せな記憶とそうではない記憶があります。心の価値を持つ”もの”どおしは、その価値を共感し合い、相手の気持ちを引き出します。

ひとはこころを感じさせる事により、幸せな記憶と不幸な記憶を引き出せます。

自分たちは、ひとと会話をする時にそのこころにある記憶を引き出し合うのです。今、起きている物事が幸せに感じたりそうでなかったりさせれるのは、そんな記憶を持つからです。

ひとの記憶は日常色んな場面で触れてしまいます。それを知ってか知らなくてか触れることで、相手を幸せにも不幸にもさせるのです。

ひとは経験を積むために不幸な記憶を持ってます。ひとは相手のこころから幸せな記憶を引き出すためにあるのです。それは、心の価値を持つ”もの”どおし幸せに感じさせるためにあるのです。

その価値を無視し相手の記憶に触れれば不幸な記憶を引き出し知らず知らずに傷つてしまいます。

自分たちは、相手の事を知ることができます。そんな知った記憶には幸せな記憶と不幸な記憶があるのです。自分が相手のどちらの記憶に触れれば幸せに感じさせれるか判るはずです。それは自身の記憶のどちらに触れられる方が良いかと同じです。

人は喧嘩もします。
そんな時、どちらの記憶を触れているか判りもするはずです。ならば、相手を大切に思うならその逆を常々することが大事なのです。

自分たちの生活の中にはそんな記憶の引き出し合いがあるのです。その記憶の引き出し合いを”暗示”といいます。その暗示を知らず知らずに悪く使えば意図しない害を感じさせてしまうのです。

■暗示
昔、TVをみているとスプーンを曲げる超能力や腕を挙げさせ動かなくさせる催眠術などが流行っていた時代がありました。今ではTVで見ることがほぼ無くなりましたが、催眠術は今も誰もが扱っているのです。

それが「ひとは感じて動く”もの”」です。

ただ、TVのように思ったように動かすことではなく、それは命令で感情で人を動かしているのと同じです。

自分たちは催眠術と聞くと胡散臭い(うさんくさい)と思う人も少なくないはずです。自分に催眠術を掛けると言われれば、「自分はかからない」等と尚更身構えしまいます。

昨今はあまり聞かなくなった催眠術は、今のTVでは通用しないということなのでしょうか。あの時代はその未知の出来事を視て、TVを通し多くのひとが”笑う”という催眠術を掛けられていたのです。

実は催眠術と言えば胡散臭いと思わせますが、それは”暗示”ともいい、ひとの心の中にある記憶を引き出す術と誰もが使っているのです。

暗示はひとのこころの中にある記憶を多分に利用します。自身に出来事が起きるとその出来事を幸せな出来事か不幸な出来事か自身の経験した記憶から区別しているのです。

それは、何を持って幸せかそうでないかを判断する自分なりの基準としてあるからです。人は心を知りません。人は何を持って幸せかそうでないかを知りません。それが、記憶で自分にとって幸せなことそうでないことで知り得るのです。

出来事は周りのひとから多分に起きます。それによりこころの中の記憶を引き出されもするのです。

それが誰もが使っている催眠術であり、暗示というものです。

ひとはそれを自分のため、ひとのために扱うかは自由ですが、それを意識せず使ってしまえば相手への想いとは違う事が起きるのです。

自分たちは人のこころに知らず知らずに触れてます。それは暗示となり相手のこころに伝わります。どうせ暗示を使うなら自分も含め誰かが幸せを感じる事をしたいですね。

■自己治癒
自分たちには効果あるクスリを持ちます。
それがこころの中にある”気持ち”です。

その気持ちは”病は気から”の気と云われ、昔から云い伝わり使われております。今では様々な医療の発達で多くの病やケガを治す技術が世に出てきてましたが、それでも治せきれない病が存在するのです。

その代表的なのが”心の病”です。

その病に効くのが気持ちということです。
そんな気持ちを使い病を治癒を促すのです。
もちろん、ぽち☆は医者でもなければそれを専門とするセラピストでもありません。単に歳とった経験からです。

たぶん、皆さまと少し違うのは若い頃から「心って何?」と知ろうとした話です。何より30歳の頃、自身の悩みを治癒させたのも、そんな心を知ることから始めたのです。

心の治癒というのは、心の沈み続ける症状を改善することにあります。それに自身の”気持ち”を使っただけです。

何をしたかって!?
そんな大した事はしてません。
やったのは”心を知り”その知ったこころを自分の”もの”とし扱いだしたのです。

それは、幸せを望む自身のこころを信じ
『いつも気持ちのままに』
いることに引かれるこころを持っただけです。

そこには”幸せ”を感じられ、その幸せのひとつ一つを大切に次の幸せ探しをするだけです。それが、沈んだこころになっても自己の心のチカラを使い治癒させているだけです。

そんな自身のこころがクスリとなり、幾ら服用しても害(ふこう)はないのです。増してそのこころが自己治癒に役立つのです。

■ガンバレは良くない
心の病の方に「ガンバレは良くない」といいます。

それを本人が一番頑張った末に心を病してしまったから、更にどう頑張れば良いのかと悩ます理由をつらせます。

それこそ火に油を注ぐです。
もちろん、悪気があって言っていることではないのは判りますが、言われる側からすれば害なのです。

少し話が脱線しますが。
例えば、親の政略結婚をさせられる人がいたとします。結婚といえば大概は「おめでとう」と思われますが、政略結婚をさせられる人からしては望まない結婚となるのです。避けられない思いで心がいっぱいな時に”おめでとう”は心の負担(がい)としかならないのです。

もちろん、親の政略結婚でも納得して結婚する方もおられます。すべての人がそうとは限りませんが、要するに本人の思いを知らずして、掛ける言葉には注意が必要という話です。

だから、その時々で「ガンバレ」を云うべいか、その時々でどう話掛けるかを感じ、言葉は掛けた方が相手のこころに優しくなります。

それは、自分にもそんな経験があるんじゃないでしょうか。

■バロメーター
ここまで心のカタチのお話を読んでいただいた方々に感謝しております。ぽち☆風ではありますが、こころを自分の”もの”にするお話にどう感じどう思われるかは自由です。ただ、それが誰かのためになればお話した目的となります。

まだまだ、心を良く分からないという人もいると想いますが、何かのはずみで心の理解を深められるのは良い事です。そこにぽち☆が話すnoto「心のカタチ」を知っていただければと思います。

そして、ココでの話のひとつ一つは、心を知るあくまでも点のお話です。
その中で納得もあれば、そうなんだもあり、違うんじゃないかもあるかも知れません。ただ、その一つひとつが自分のために記憶できるのです。

その点(はなし)をどう繋ぎ合わせるかはあなたしだいです。それぞれが繋がり線とれば納得も深まるのです。それが心のカタチであり、そうなることが
『いつも気持ちのままに』
を、こころを自身の”もの”とし出すのです。

昔のぽち☆がそうだったように。。。

おっと、話が長くなってしまいましたが、バロメーターについてですね。もちろん、ココでは”心のバロメーター”の話です。

すでにお話した”笑顔”がその心のバロメーターです。
人は心を感情に囚われもしますが、その囚われから開放されている時に”笑顔”は最高だということです。

ひとはそのバロメーターを醸しだすために活きているのです。

それが悩んでいる時は笑顔が出ないし、辛い時も笑顔が出ることはないのです。こころが気持ちのままにいる時にだけ笑顔は自然と醸し出る”もの”だから当たり前でもありますが、ひとはそれを”幸せになりたい”と望んでいるのです。

まだまだ、心を知らなくても幸せを感じる時、一番判りやすいのが”笑顔”を診るだけで周りも幸せにするのです。

赤ちゃんの笑顔を視ると誰もが笑顔になるのはそんな理由です。

■気を使う/気遣い
感情に囚われている人に対し気を使う人がおります。感情で気を使っていては相手にも自分にも誰のためにはならないのです。

それは感情に感情を注ぐ行為として感情を湧かさせるだけだからです。それは、相手に湧かさせるだけでなく自身の心にも感情を湧かさせてしまいます。

誰もが”気持ちのままに”なるためには、真逆な事(きづかい)をしていると気づくことが大切です。

気を使うの気はもちろん気持ちの気です。
皆さんが使っている気は、実は”気遣い”でなく「感情遣い」だったのです。

使っていたのが感情なら相手の気(きもち)を引き出すのではなく感情を引き出しているのです。

本来、誰もが持つこころ(きもち)を引き出す行為が”気遣い”ではありますが、感情を使っていたら何のためにもならないのです。

相手の笑顔を引き出したいのなら、自身の心の中にある同じ”もの”を感じさせる必要があります。それができて初めて”気遣い”となります。

はじめは上手く行かなくても良いのです。
笑顔の一つでも醸し出させられれば、心を病ます人には治癒に向かうキッカケにもなり得ます。上手く行かなくても気持ちを感じさせ、ひとつ一つ気持ちを引き出感じさせ笑顔かどうか視れば判るのです。

■鏡
皆さんは一日に何回鏡を見ますか?
人それぞれ、まったく見ないと言う人もいれば、頻繁に見る人もいるかも知れません。

そんな鏡には、物を映す鏡以外にもう一つの鏡があることをご存知でしょうか。
それが”こころの鏡”です。

こころの鏡は物や姿を映す代わりに、ひとのこころを映し出します。

人は親族・知人・会社の人等などなど。多くの人と会いますが、相手の顔を見ている時ありませんか。それと同じに相手のこころを感じている時もあるはずです。

そんな時、こんな事ありませんか?
「思った事が上手く伝わらない」
それが理由で拗れたりすることが。

そんな時、互いに思うのが『何が原因でそうなったのか』と考えてしまう人も多いと思われます。

そもそも、そう思うこと事態が感情に囚われ出し、こころの鏡を感じていないのです。その原因を出来事から求めようと思うこと事態が感情に囚わせ、出来事という理由に原因を求め相手のこころの鏡を上手く扱えなくさせるのです。

それは、感情で会話しているに他ありません。ひとは相手のこころを感じる事を知ります。話が上手く伝わらないなら、どこかに感情が入り込み本来の会話ができてないのです。

”こころの鏡”とはどう使うのでしょう。

例えば、自身の話しを相手が感情で受け止めれば、返ってくる言葉は感情が返ります。
又、自分は気持ちのままにと思っても、もしかしたら感情を含み伝えていたのかも知れません。
又、自分と相手との間に何かしらの感情が入り込む隙があれば自ずと感情の会話となります。

ひとの”こころの鏡”は気持ちを返すか、感情を返すかの鏡なのです。それが気持ちが返ってはじめて本来の意味が伝わるのです。

■耳
人は”思う”や”考える”を事をします。
その他に”感じる”事もします。

その”思うや考える”は感情であり、本来の気持ちの言葉を代弁し言葉を選び伝えようとするのです。それは、相手に気遣っての事かも知れませんが、それでは本来伝えたい気持ちとは異なってしまうのです。それが理由で知らず知らずに感情に囚われる会話となり本末転倒させます。

それに対し”感じる”はどうなのでしょうか。
感じる”もの”は相手の気持ちであり、気持ちから湧いた感情とで知り得ようとします。その感情は気持ちから湧いた感情であり気持ちの言葉に代わりないのです。

たまに、ひとは自身のこころで感じた事を口に出てしまうひとがおります。それと同じく自身のこころを感じたまま言葉に出来るのです。

人はこの”感じる”を多々使います。
それを”こころの耳”と云い、人のこころはその耳でしか聞き取れないのです。

もし、相手が自身の云った言葉(きもち)と違う事が返ってくれば、その感情を受け入れるのではなく、何故その人がその言葉を口にしたか感じ、その中の気持ちを知ることが大切です。

耳から聞こえるのはあくまでも感情(りゆう)です。その理由に振り回されないように、そこから感じる”もの”を優先するようにするのです。それが互いの”こころの距離”も近づき”こころの鏡”に映り込む感情を受け取らない術となります。

少し難しい話のように思うかも知れませんが、自身も”感じる”を使うなら、耳に振り回されるのではなく、ときには自身のこころを信じ”こころの耳”で感じて知るのです。

ひとのこころは”幸せになりたい”があります。
その想いと異なる言葉には感情があると云うことです。

■収束
自分たちは”心を知らない”代わりに人生で多くの経験を積みリスク回避を学びます。それは、自身を幸せにするための経験となり、自身や相手ため役立てれるのです。ただ、そこには多くの失敗という経験もあり、その経験も幸せに近づくため避けては通れない必要な経験だったのです。

人生とは、幸せへの収束を目的に歩んでおります。それは心を知らなくても今出来ることとして、幸せに向かう術としております。人には、そんな人生を諦める方もおりますが、それは感情に囚われての事、本心は誰もそうは望んでないのです。

そんな時は、誰かが”こころの耳”でひとを感じ、気持ちを引き出せれれば諦めようとした事を諦めさせる事が出来ます。

それは、こころの中に”幸せになりたい”があるから気づけるはずだからです。気づけないのは感情に囚われた心に、同情や気遣いで”ガンバロウ”の言葉を掛けてしまうから突き落としてしまいます。

”心を知らない”とは、収束させるどころか答えのない無限ループ(なやみ)に落とすのです。

それが心を知れば知るほど、こころを自分の”もの”にし、そのチカラを使って治癒力を高めるのです。それもこれも、誰かをキッカケに”心甘え”それを思い出させるのです。

人は独りでは活きられない。

それは誰かに心甘え自身のこころに触れるためであり、誰かに心甘えれないと自身の気持ちを見失い続けるのです。自分のこころの中には必ず気持ちがあり、その気持ちに気づけないはずがないのです。それを感じるだけでひとは本来の気持ちに戻れるのです。

ひとはひととの距離をこころで感じます。
近づき過ぎても違和感があり。
離れ過ぎても違和感はあるのです。
丁度良いこころの距離を感じることで、ひとは自身の気持ちを知るのです。

それが”こころの距離”を使い、幸せへの収束に向かわすのです。

収束とは、限りなく答えに近づく自分たちの人生の行為です。収束しないとイケなくなくはないですが、どれだけ収束に迎えるかで自身のこころで”幸せになりたい”を叶えられるのです。

■甘える
猫さんは甘えることを良く知ってます。
たぶん心から甘えた時、喉を鳴らし自身に伝えてきます。

人は喉を鳴らす事が出来ないから、その代わりに笑顔を醸し出します。そこには”こころの可愛さ”も感じられるんじゃないでしょうか。

ただ、人は心甘えることを意外と苦手とします。それは、心甘えるを感情視てしまう癖にあります。”心を知らない”自分たちは、それをどちらか判断が限られるのです。それが心に余計な負担をかけ疑念(かんじょう)を湧かすのです。

心甘えるとは、お互いのこころを触れ合う行為です。どちらかがどちらかに甘えるのではなく、互いに平等に気持ちが寄り添う行為なのです。

何故、人と言う文字が寄り添っているか。
質量の異なる人どおし(例えば男女)が寄り添えば、質量の少ない方に負担がかかります。

甘えもどちらかがどちらかに負担をかければ、いずれ支える”心のチカラ”を失えば自ずと離れるのです。

人という文字が成り立つのは、質量のない気持ちが寄り添う一点だから負担なく人という文字になるんどです。

人は心甘えることを意外と苦手とします。それは”恥ずかしい”という感情の時もあり、その感情が心甘えることを躊躇させます。”心を知らない”ばかりに相手のこころを知る術もなく、恥ずかし感情を持ち出来るものも出来なく甘えれないのです。

■覚める
人には”好き”という感情があります。
それが育つと”愛”にもなります。それは相手にも同じ”恋”が育つから成り立つのです。

互いの”恋”は愛となり、片方の”恋”なら亦(また)の好きになります。愛の文字の中心には”心”を大切に仕舞います。それは互いのこころで包込んだ心を表すのです。

亦(また)の好きは心がすることです。
それは片思いであり、それは繰り返す心を表し恋するのです。

こんな言葉もありますね。
”相思相愛”

この言葉には”相思”と”相愛”のそれぞれに意味を持ちます。それを合わせる事で互いのこころの深さとこころの強さを表します。

そんな誰もが知る”相思相愛”は”相思相”と”愛”に意味があります。”相思”は相手を思うと書き恋とします。そして、”思相”も順違っても思う相手と恋になります。その2つが向き合う恋があり”愛”となるのです。

”相思相”も”愛”も同じ意味を並べた熟した語という事です。当てつけかも知れませんが”愛”とはそうあるべき”もの”なのですね。

ただ、”愛”にしても”恋”にしても”相思相愛”にしても、これらは感情です。その感情は互いに思うチカラを使いカタチ付きます。それは、どちらかの心のチカラ尽きれば覚めもするのです。

人の心は感情では何時までも維持できません。
だから、気持ちの支え愛が必要なのです。それを覚める事のない”絆”と云います。

■恥ずかしい
人は物事を行うのに”恥ずかしい”が付きまといます。それは何かをする時にその思いが強くなり、自身の心を躊躇させるか。

それは、自身の気持ちを伝えるのが不得意な人が多いようです。心甘えることもそう「それをしたらどうなるのだろう?」と感情が先走り”考え”躊躇するのです。

何故、人は考えてしまうのか。
それは”心を知らない”から自信がないのです。

分かりやすく言えば”どうして良いか”決める心が判らないのです。それもそうですよね。自分の心のあるところも判らなければ、その心がどうしたいのかも知る術がないからです。

人はその時の感情(かんがえる)で物事を惰性で進めてしまうから当たり前な結果(こと)です。

ただ、まだまだ心を知らなくても、それを知る方法があります。それは”恥ずかしい”を強いてするのです。

意外と”恥ずかしい”をしてみると、次第になんのことなく慣れてしまうが多々あります。それこそ”を気持ちのままに”出来た証であり、自身のこころも納得するのです。

「やってみないと判らない」と言うのは、その結果が幸せかどうかをこころに記憶する術なのです。そんな繰り返しが、自分のこころを育み強くするのです。それもこころの治癒力を高めれるのです。

■感情と気持ち
感情と気持ちは心を表します。
その心は”感情と気持ち”で自分自身を築いているのです。その”感情と気持ち”を自分の”もの”として使い熟す事が人生には必要なのです。

学校では”感情”という言葉、”気持ち”と言う言葉、”心”と言う言葉を習いました。その3つの言葉が人にあるとも習いました。しかし、どう使うかまでは教えられていないのです。

それと伴に”道徳”を習い。人はこういう”もの”だと多くを習いました。その3つの言葉と道徳が結びつき、なんとなく”こころ”とはそういう”もの”だと記憶させられました。

人は心を持つ事は知ってます。
でもその心の扱い方は道徳として知り、時に心を間違った扱い方で人に害をもたらします。時にではないですね。意外と多いですね。

ひとは人によって、よく傷付けられます。そんな時が間違った扱い方を受けた時なんでしょうね。

そんな中、自分たちは”感情”は良く判ってます。
それは、その感情(きどあいらく)に幸せとそうでない事を感じるからに他ありません。

幸せを感じる感情ならそのまま気持ちよく受け入れもしますが、”嫌”な感情なら拒否したくもなります。そんな時、感情が感情を湧かすのです。

その感情を湧かし繰り返すのを一旦止めるだけで、こころは幸せに振り返るのです。その状態(きもち)を維持するだけでも幸せは感じられるのです。それは誰もが思う。

”幸せになりたい”

だからです。気持ちを感じるとは幸せなのです。それだけで未来への幸せの期待に導いてくれるのです。

自分たちは心を習っておりません。心を知るにはもう少し時間はかかりますが、それでも着実にこころを自分の”もの”としプラスへと転じているのです。

■病(ここからここから)
もともと、心の病などないのかも知れませんね。
それは、心を知らずその心の事をどう知るのか。それに、ひとのこころは浮き沈みする”もの”で、感情を
湧かし沈みが永くなる人もいる。

どれだけ沈みが永いから病なのか。
何故、それを心の病と決めれるのか。
どこの心を診て、それが心の病とするのか。
それにあってはならないのが、そんな告知で自身を病と信じさせることです。

もちろん、心の病はあるのかも知れませんが、心を知らない人が判断するにはあまりにもリスクが高いと云うことです。

自分が心の病と考えてしまう前に、自分は”心を知っているのか”と自分自身に問いかければ、その告知をする人も”心を知らない”疑問を持てるでしょう。

自分たちは、今までの人生で”心”という漢字とその何となく辞書で調べた程度の意味ぐらいを知って、それがあたかも心を知っていると錯覚しているのです。

もちろん、ひとには間違いなく心があります。心がなければ、こんなにも悩める事はできないでしょう。だから、少しでも心を知れば、そのこころは自分の”もの”と成りだすのです。

こころは自分にとって大切な道具です。
その道具は使う物としてあり、こころは自分が使う”もの”です。それは幸せになるためにひとり一つずつあり役立てれるのです。

心の病は、自分の心を知らずそう信じた時に発症させてしまうのかも知れませんね。

■失敗
今の自分が幸せかそうでないかをこころはいつも判断し知ってます。それをどう自身が気づくかが大切なのです。

それは、その気づきから自身の歩むべき人生(みち)をどう歩むかを決めれる権利を使えるからです。ただ、その権利を放棄して自身に起きた出来事(かんじょう)に心囚われ右往左往とまた感情を湧かし、自分からドツボに入ってしまうを優先している人が多いのです。

”心を知らない”ばかりに、そのこころが判断した幸せかそうでないかに気づけず惰性で進んでしまうのです。

人はそれを”失敗”ともいい、自分の失敗を繰り返すことに人生を諦めもしてしまうのです。

失敗とは、そこで自身の心に命令すること。その命令で心が幸せにしようと判断することを諦めさせているのです。命令はいつまでも続きません。
命令は信頼関係を失うのです。

自身の1番大切なパートナーである”こころ”との関係を失えば幸せに辿り着くことも失うのです。

自分たちは出来事が起きると”その答え”を考え思います。そして”失敗”と決めつけ惰性に任せます。それは”失敗”でもなく、人生に多々起きるハードルという物事で、そのハードルを越えるか超えないかは自由だが、ハードルは自身の経験を
積むべき大切な事、そのハードルを超え自分を幸せに導く”こころ”と一緒に人生最後の”成功か失敗か”を知る旅(じんせい)をしているのです。

『人生失敗は一度切り』

人生の途中で諦めるのでもなく、その人生を楽しみながら最後は”笑顔”で終るのか。それとも泣いておわるのか。自身のこころの中にその答えを持っているのです。

ひとが何故、”幸せになりたい”のか。

それは笑顔でいつもいたいからに他ありません。
こころは自分の”もの”。その”もの”を知り、上手く扱えばその希望は自身で叶えられるのではないでしょうか。

少なくともぽち☆はそう活きたいです。

■最後に
人は何故、心を病ますのか。
自分、もしくは自分の身近な人が心病んでしまったのは何故か。

それは"幸せ"ではないからに他ありません。
それが何故そうなったのかは、自身に起きた出来事に原因があると思うばかりでは"幸せ"を見失ってしまいます。

出来事はあくまでも理由。原因はなく、その出来事を幸せでないと感じる『こころ』がいつも原因となっているのです。

そのこころが幸せに転じなければ、出来事などは自然と解消するのです。ひとは幸せに勝るものはないのです。

自分たちはそれに気づかず出来事ばかりを考え続けれ、あげくの果てに答えが見つからず心を病ますしかないのです。

まず、優先するべきは”幸せ”とし、出来事はその次にすればいいのです。

■番外
心のカタチでは、ぽち☆風にこころを定義しお話しております。それが正しいか正しくないかは自身の感覚で自由です。

もし、少しでもぽち☆のこころを感じ、それらを参考にしていただければ幸いです。それを自分の”もの”とし正しくするのは自分です。

もし、その中の一つでも納得する”もの”があればそれはもう貴方の”もの”です。ぽち☆はそれを望み心を知っていただければ、それが貴方の『心のカタチ』となります。

実は、こころはそんなに難しい”もの”ではないのです。難しくしているのは”心を知らない”自身だったのです。

自身がこころを持ち。
こころは母のお腹の中で”心地よさ”という幸せを記憶し、そのこころが”幸せになりたい(もどりたい)”と思っている。だから、こころは感情を湧かし気づかそうとします。もし、その幸せを感じれないのなら一旦止まり。気持ちのままに幸せを感じるなら進めばいいのです。心とは何か。悩みとは何か。何が辛いのか。は一旦止まれば見渡せるのです。

そこに自身のこころで”笑顔”を感じる方へ進み治すのです。

周りに悩んでいる方がいるのなら、同情するのではなく、自身の”笑顔”を分けて(きょうかん)させるのです。

それ以上は必要ありません。

こころの治癒とは、”心地よさ”に戻すこと。
それが出来ればひとは十分なのです。

『いつも気持ちのままに』

この言葉を忘れないように。

心のカタチ。ぽち☆より

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