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追憶の喫茶去

 ほぼ三年に及ぶコロナ渦の中で、茶の世界においてもさまざまな行事が中止になり、稽古も自粛されていたようだ。茶道では茶会や茶事から普段の稽古にいたるまでが3密に該当するので、コロナの感染拡大に合わせて注意喚起がなされていた。
 茶道には濃茶こいちゃの回し飲みという作法がある。人数分の抹茶を一つの茶碗に練って順番に飲むもので、飲んだあとに懐紙で飲み口を拭き取るものの、口をつけるその飲み口は客みな同じ箇所だ。
 また、茶室には四畳半以下の小間こまと呼ばれる草庵風の茶室があり、三畳二畳という狭小空間も珍しくない。そこでは客同士が肩を触れ合うほどに近接して座る。だから、小間での濃茶の回し飲みなどは3密の最たるものだ。
 日常生活においてはコロナによる制約が緩和されつつあるが、それは茶の世界にも及んでいくのだろう。

*  *  *

 三十代に美術品販売会社に転職した。大学卒業後に初めて就職したのが美術出版の会社だったので、美術は馴染みのある分野だった。待遇重視でまったく興味のない仕事に転職すれば、砂を噛むような思いを余儀なくされ、長続きしないことはわかっていた。仕事や会社を選ぶには妥協が必要だが、関心度や残業時間を含め、いずれ苦痛でしかなくなるような選択はやめようと決めていた。
 しかし、そんな条件を満たすような仕事や会社はそうなかった。一年が経過し、職探しにいささか疲れ始めた頃、「美術品を扱う仕事です」「残業少なめ」という求人を見つけた。ここでいいやと、なかば投げやりな気持ちで応募した会社に採用が決まった。

 経験は問われていなかったが、若いとは言えない中途入社だから、相応の知識は要求されるだろうと思っていた。
 だが、その美術品販売会社の仕事は、美術用語や美術史や作家名などの、美術に関する基本的な知識が乏しくても、仕事に特化した専門知識があればやっていけるようだった。仕事に特化した専門知識とはつまり商品知識のことで、それは仕事の中でおのずと身についていくものだ。
 こういった傾きはその会社に限ったことではなく、どの会社についても少なからず言えることだ。
 しかし、商品の企画開発を担う中枢部署でも、基本的な美術知識に疎い社員が多いことは早くから気がついていた。美術展の図録を見て、「いろんなものを描いたり作ったりしてるけど、『重文』ってどんな人?」という社員は極端な例だが、多くは絵画や工芸品に特別な関心があるわけではないようだった。
 配属されたのはコールセンターで、ほとんどの場面においては、仕事の中で覚えていく知識で事足りるように思われた。
 にもかかわらず、美術や美術品の勉強を始めたのは、それらについてもっと知りたいと思うようになったからだ。ここでも生来の凝り性の性格が顔を出した。
 それに、何かに興味があるにしても、与えられたこういう機会がなければ、改めて勉強しようという気にはならないものだ。

*  *  *

 そうやって勉強しているうちに、あることに気がついた。それは、日本の伝統美術や工芸品のほとんどが、茶道と関わりがあるということだった。
 掛物に軸装される墨蹟や日本画、茶碗や花入などの陶磁器、蒔絵まきえ螺鈿らでんなどの漆工芸のほか、金工・木工・織物など、どれもが茶道に取り入れられているものだ。
 これなら茶道をやれば全部カバーできるなと思ったものの、お茶は女のやるものだという先入観はやはり根強かった。
 そして、何か月もの間さんざん躊躇したすえ、男ならとすすめられた表千家に入門した。

 その茶道教室は、通勤電車の窓から見える、駅のホームの看板広告で知った。
 住宅街の通りから少し入ると、突き当りに数寄屋門があり、柱に表千家と池坊いけのぼうの木札が下がっていた。いけばなも教えているようだった。
 教授の大先生おおせんせいは当時おそらく七十代で、お茶の先生らしい物腰と言葉遣いは想像していた通りだった。やはり緊張したが、取り澄ましたようなところがまったくなく、ざっくばらんで、むしろ磊落でさえあった。服装も着物ではなく、普通のおばさんが着るような洋服だった。

 最初に訊かれたのが、誰かの紹介かということだった。予想していなかった質問だ。茶の世界では紹介が入門の条件なのかと思ったが、そういうことではないようだった。
 入門後に知ったことだが、そこは茶道教室といっても、大勢の弟子を抱える名の通った茶家で、しかもその弟子の多くが生徒を持つ先生だった。そして東京には大先生が師事する宗匠がいて、その人は大河ドラマの茶道指導なども務めていた。
 そうそうたる先生方や先輩らを相手に、ガラにもなく「お服加減はいかがでしょう」などとやっていたわけだが、それは身のほど知らずな所業に違いなかった。
 日常との乖離が大きく、稽古場から離れるとその落差を埋めるのに難儀した。帰り際に喫茶店に立ち寄り、コーヒーを飲むとほっとした。そして、身分不相応のところに入り込んでしまったのではないかと思ったものだ。

 男は私一人だった。大分あとになって大先生から聞いたことだが、入門を許可するかどうか迷ったという。
 茶道は点前や客の作法で、男と女では少し所作が異なる。稽古において、周囲が男点前や男の客の作法にきちんと対応できるか、心配だったというのだ。
 先生ばかりだからそんなことはないだろうと思ったし、大先生も冗談めかして話したのだが、男の生徒は初めてという先生がほとんどだった。

 大先生は社中全員が「男」に慣れるよう、女の先生によく男点前の稽古をさせた。先生方はうろたえるか、観念したように小さなため息をついた。
 女点前との違いのひとつは、座った時に膝の間をややあけることで、大先生によると拳ひとつ分くらいあける。
 普段の稽古は、大先生以外はみなほとんど洋服だった。スカートの場合は長い腰巻状のものを着ける先生もいた。スカートの裾が乱れないようにするためと、着物の裾さばきを覚えるためだろうか。
 しかし時々、それを着けない先生がいた。しかも、座ると腿が半分露わになるようなスカートだ。 
 それを大先生はくどくどと注意しなかった。鷹揚な大先生らしかったが、なぜか大先生はうるさく言わず、まごまごしているお点前の先生に「膝をもっと広げる!」と檄を飛ばすのだ。そのたびに目のやり場に困ったものだ。

*  *  *

 茶道人口の九割方か、ことによったらそれ以上は女性かもしれない。大寄せの茶会などでも、男の姿は一人か二人くらいなのが普通だ。だからお互いの存在がすぐわかり、目が合って「お!」っと驚いたりする。
 数が少ないというのは目立つということだ。京都を旅行した際、何かの茶会に客として一人で参加したら、席主の女性に、「あなた、東京でお見かけしたわよ」と言われたことがある。
 しかし、茶の世界は男性上位の世界と言われる。各流派の家元以下、上層部は逆に男の方が圧倒的に多い。男は出世すると言われるゆえんで、いうなれば男はエリートコースを歩まされるのだ。
 たとえば茶会にしても、男は有無を言わせず上座に座らされ、正客しょうきゃくを強いられる風潮がある。経験や力量が乏しければ遠慮してよいことになっているが、席入りで正客を決めかねている時など、男が一人でもいれば口々に「どうぞどうぞ」と促される。
 ここで逃げては男がすたるという虚栄心には根深いものがある。控えめでありたいという女性の心根を無視できない心理も働く。

 入門まもない頃、大先生らと大寄せの茶会に参加した時のことだ。何席かを回ったあと、最後にテーブルと椅子を用いた立礼りゅうれい席に入った。
 数十人もの客の中で、男は私だけだった。壁際でオロオロしているうちに、追いやられるように正客の椅子に座らされた。大先生はまだ来ていなかった。
 これだけの人数に断ろうとしても、納得してもらえるような言い訳はできそうになかった。そんな理由などどうでもよかったのだが、断れないならやってやろうと肚をくくった。度胸があれば何とかなると思ったのだ。
 だが、その度胸も怪しいものだった。正客の席に座るのはもちろん初めてだった。座ったきり、何も言葉が出てこなかった。
 点前が始まって早々、大先生が飛んできた。そして小さく低い声で一喝した。
「どきなさい!」
 大先生は並みいる客に「ご無礼いたしました」と頭を下げた。
「あなたもお詫びなさい」
「ど、どうも、ご無礼しました」
 と言ったが、多分聞こえなかっただろう。
 正客は大先生が務めてくれた。席主との鮮やかなやり取りを聞きながら、大先生が来なかったらどうなっていたかと、脂汗が滲むような思いがした。そして正客というものが、意気込みだけではどうにもならない難役であることを痛感した。

 肩身の狭い思いをしたのは茶席だけではない。
 たとえばトイレ。
 ある寺の茶会に招かれた時のことだ。席の合間にトイレに行くと、ドアの前に長い行列ができていた。全員女性だった。間違って女子トイレの方に来たのかと思ったが、そうではなかった。おそらく女子トイレが混んでいるので、女性らは無人の男子トイレに並んだのだ。
 女性らはさっと二列に分かれて道をあけ、「どうぞどうぞ」と手で示してくれた。まるで正客を託すように。
 女性らはあたふたと女子トイレの方に去って行った。だが、トイレの中にはまだ女性がいるはずだった。
 誰もいなくなった男子トイレの前で、窓からの光を反射する床に目をしばたたかせながら、所在なく突っ立っていたことを覚えている。行く先々で持ち上げられながら、男の居場所は実はどこにもないのだった。

*  *  *

 稽古は水曜と土曜の二つのクラスがあったが、時間があればどちらにも来てよいと言われた。
 水曜のクラスは夜だったので、仕事を定時に終わらせてから稽古場に向かうことになり、かなり慌ただしいものだった。弟子の先生方の多くや先輩らも仕事を持っていたので、出席する人数も少なかった。
 一方の土曜のクラスは午後からで、仕事がない時はたいてい出席した。開始の時刻は決まっていたが、稽古場には準備をするため早めに入った。

 稽古場の茶室は大先生の自宅内に設けられていた。広間が二つと、離れの小間が一つ。通常は八畳の広間で稽古をすることになっていた。
 日本家屋の冬は寒いものだ。先生宅も純日本風だったので、冬の稽古前の広間は底冷えがした。エアコンは設置されていたので、来てすぐリモコンのスイッチを「えいっ」と押すのが、その日真っ先にやるべき仕事だった。
 そして、水屋で準備に取りかかる。
 炭に火をつけ、湯を沸かし、道具を調える。なつめに茶を掃き、山なりに仕上げる。茶入れの場合は仕覆しふくを着せる。食籠じきろうに盛る干菓子を用意する。火の熾った炭を炉にくべ、釜をかける。そして釜の蓋をカチッと切るのが、私なりの準備完了の合図だった。わからないことはあとで先生方や先輩らに訊けばよかった。
 何を考えるでもなく、一人でひとつひとつをこなしていくこの時間は心地よかった。こういう決まり切った単純な作業の中に、心を落ち着かせ和ませるものがある。それは茶を点てている時に感じるのと同じものだった。

 茶道における初歩的な点前が、平点前ひらてまえと呼ばれる薄茶の運び点前だ。あまたある点前は平点前のいわばバリエーションで、中級から上級で習うさまざまな点前は、この平点前から派生し発展させたものだ。平点前はすべての点前の原点で、基本と言ってもよいだろう。
 なべて基本というのは単調で、しばしば退屈なものだ。だから積極的にやろうという気にはならない。
 平点前もその例にもれず、重要性が強調されてはいるものの、稽古に取り組む意識のそのずっと底の方では、肩ならし程度にしかみなされない傾向がある。

 だが、私は平点前が好きだった。稽古が進み、緻密で見どころの多い点前を習うようになっても、それで平点前の良さが減ずることはなかった。その良さとは素朴さだ。
 初期に習ったという馴染みや安心感はあるだろう。中上級の点前の稽古量が相対的に少なく、習熟度が低かったということもあるだろう。しかし、平点前の簡素な道具立てと所作は、心を安らかにし、確かな充足感をもたらした。

 茶道の精神性については、本で読むなどして知識として知っている程度だった。だが、平点前の稽古を重ねるうちに、それが精神の静けさや落ち着きを生むことに気がついた。
 点前に集中している時はそのことしか頭になかった。かと言って、その集中は極度の緊張を強いるものではなかった。弛みがあるということではない。
 それは、中上級の複雑な点前をしている時の、余裕のない精神状態とは異なる。素朴な平点前でしか味わうことのできないものだった。
 そこでは、仕事や会社での人間関係にまつわる煩わしさも忘れていた。ささやかではあるが至福のひと時だった。
 
 茶道を始めたのは美術工芸品への関心からで、ありていに言えばモノとしての道具への好奇心からだった。期せずして茶道の精神性の一端に触れ、魅了されることになった。
和敬清寂わけいせいじゃく」とは茶道の心やあり方を表す言葉だが、その「清寂」の部分だけは親しめそうな気がした。そしてそれを少しでも深めようと思った。茶道と関係が深い禅を知ろうと、寺の座禅会にも通うようになった。

*  *  *

 大先生のところでは毎年春と秋に客を招き、茶会を開いていた。普段は稽古場として使われている広間二間と小間一間が、そのまま客を迎える茶席になった。広くはないが露地もあり、つくばいや腰掛待合まちあいがあった。
 茶会の前日には広間二間をぶち抜いて、茶会で使う道具を畳一杯に広げた。稽古では使ったことのないものばかりだった。その茶会のために制作を依頼し、誂えられた道具もある。
 それらの道具と、桐箱の箱書と、大先生がしたためた会記とを見比べて、作者や銘や由緒を覚える。覚えること自体は面倒な作業だったが、普段は見ることさえできない道具を手に取り、その感触を心ゆくまで味わうことはこの時を措いてなかった。

 茶会は日頃の稽古の成果を披露する晴れの舞台だ。
 当日の数寄屋門の柱には、茶会が開かれることを告げる「在釜ざいふ」と墨書された紙が貼られた。
 この日は社中全員が着物を着る。若い人だけでなく、そうでもない先生方や先輩らも、見違えるほどと言ったら語弊があるがきれいだった。女性のすっきりまとめた髪型と、色無地の着物姿はやはりいいものだ。男の私は、先生方にあちこち直されながら袴を着けた。
 帯には袱紗ふくさを折って挟みこむ。袱紗は道具を清める時などに使うもので、もてなす側はつねに身につける。
 和の装いというのは「静」の風情を漂わせるものだが、帯につけた袱紗が表すのは「動」だ。「心をこめておもてなしいたします。何なりと」という意思がこめられる。
 茶にはそんな一人一人の気配りが必要とされるが、茶会はそのうえに個々の協調性がかみ合わないと回らない。機敏であることも重要だ。
 先生方や先輩らがこういう場で発揮する集中力と団結力は、スポーツのパワーやチームワークに匹敵するものだ。
 着物は袖やたもとが体の動きを妨げるので、水屋でたすき掛けをする人もいた。紐を口にくわえて背中で交差させ、肩のところでしゅっと引き結ぶさまは、決戦に臨むようでカッコよかった。
 
 点前は全員がすることになっていたが、男の点前は珍しかったので、二度あるいは時には三度、出番が回ってくることがあった。
 普段の稽古のような落ち着きや静けさは望むべくもなかったが、客との受け答えは大先生や経験豊富な先生方が務めたので、最初に茶道口で挨拶をする以外、ほぼ点前に集中していればよかった。
 
 大先生はこういう華やいだ場が好きだった。茶の経験がない客や面識のない客、他流派の客などもいたので、神経を遣う場面の連続だったと思うのだが、そんなことはまったく感じさせなかった。
 正客への茶が点てられ、点て出しの茶が出始める頃、大先生は茶道口から「よいこらしょ」と、重そうににじりながら入ってくる。いまだ張り詰めていた茶席の空気が、先生のよいこらしょの一言でがらりと変わったものだ。
 正客との会話の話題も、お手本とされるような風流清話にとどまらず、自由闊達にして融通無碍。型に囚われることなく、規矩を外すこともなかった。客がくつろぎ、茶を味わい、楽しめるよう専心していた。そして大先生自身も、そんなやり取りを心から楽しんでいるようだった。
 客のことを第一に考え、気働きや目配りを怠らず、それでいて右顧左眄することなく、あるがままで主客相和あいわする一座建立をなす──。
「和敬清寂」の「和敬」の部分は、私にとってはどうにも真似のできない、そして恐れおののくような、はるか高みの境地だった。

 ある時、大先生から男子会を紹介された。
 会は少人数の男だけの集まりで、男子の茶道の研鑽を積むことを目的に活動していた。毎月一回稽古があり、そこでは着物と袴の着用がきまりになっていた。活動内容はネット上で公開されていた。
 会を主宰するのはやはり茶道教室を持つ人で、男子会の人数は十人に満たなかったと思うが、みな私よりはるかに茶歴が長く、茶道への思いも熱かった。どうすればよりよい茶の世界を実現できるか、日頃から考え、工夫し、研究しているようだった。道具の知識も深かった。私のように、内向きの茶にひとり満足しているような者はいなかった。

 都心のある大きな寺で、大先生が師事する宗匠を迎えて、一門の茶会が開かれたことがある。宗匠の何かを祝う茶会だったと思うが、そこで宗匠に茶を点ててさしあげるよう言われた。私が選ばれたのは、多分に男だったからだろう。
 それほど難しくない薄茶点前だったが、すぐそばに正客の宗匠が座っていた。釜から湯を汲む時、腕が強張っているのを感じた。ぎごちなさは自分でもよくわかった。宗匠は終始無言だった。
 宗匠の席の前には煙草盆を置いていた。盆に載せた火入ひいれの炭は私が仕込んだが、その火が消えていたことを宗匠から指摘された。点前のあとで大先生を通じて知らされた。

 家元での研修の話が出たことがある。
 京都の家元で一定期間稽古を受ける制度があることは知っていた。意欲と将来性のある人が参加するのだろうと思っていたが、具体的にどんな条件があり、手続きを経るのかまでは知らなかった。
 その研修に大先生は私を推薦しようとした。年齢制限に触れるため申請できなかったことを、大先生はさも残念そうに話した。
 だが、年齢に問題がなかったとしても、私に参加資格がないことは、私自身がよくわかっていた。

 大先生の家は三代続く茶家だったが、跡継ぎがなかった。何かの折に、考えてくれまいかという話があった。できるだけのことはしたいという思いは伝えたが、はっきりした回答は保留した。継ごうという意志があったからではない。期待をかけてくれる大先生をがっかりさせたくなかったのだ。
 返事をしないまま時間が過ぎていった。大先生は跡継ぎのことは言わなくなった。

 稽古の段階が進むと、自分を取り巻く様相が変わってきたように感じた。以前のように、自分だけの茶にひたっているわけにはいかなくなった。
 新たな知識や技術を身につけ、三つ四つと免状をいただくようになると、その地位にふさわしい活動や果たすべき役割が生じてくる。責任と言ってもいいものだ。それは茶の世界に限ったことではない。会社員生活でも同じようなことが言える。
 だが私は、茶の世界ではそんな境遇に置かれたくなかった。
 
 ある年の夏に、都内で主催した茶会が最後になった。
 大寄せの茶会で、客は常にもまして多かったが、もてなす側の人数が足りなかった。冷房がなかったのか利かなかったのか、ひどい暑さに体力も気力も消耗した。着物の下に巻いたバスタオルが汗でびしょ濡れになった。
 いたずらに動き回り、袴の裾が何かに当たった。客が好意で持参した一輪挿しの花の、赤い首が床に落ちていた。

*  *  *

 稽古から遠ざかって二十年近くが過ぎた頃、叔母から、大先生が他界されたことを知らされた。叔母は別の教授について、同じ表千家を習っていた。
 その翌年だったか、大先生の追悼茶会の案内状が届いた。
 客として茶をいただくわけにはいかなかった。水屋の手伝いくらいならと思ったが、出席しなかった。

*  *  *

 茶の世界から離れてしまった今では、あれほど稽古した平点前はおろか、服紗捌きすらおぼつかない。稽古のあと克明につけていた覚え書も、読み返してみてもよくわからない。せっせと買い集めた参考書籍は、実家の応接間の書棚で変色しかけている。
 しかし、時折思い出すことがある。
 ある雪の降る日の午後の、稽古の情景だ。
 出席していた弟子や生徒は、私を含めて三人ほどだった。広間の雪見障子が少し上げられ、部屋の温もりで曇るガラスを通して、外の降りしきる雪が眺められた。障子全体が雪のせいで眩しいくらいで、その反映で格天井ごうてんじょうもくまなく明るく照らし出されていた。広間全体が光に満たされていた。
 炉に掛けた釜の口から、湯気が渦を巻いて立ち昇っていた。雪の降り積もる音を聞くような気がしたが、閉じられた空間の中で、実際に聞こえるのは湯がたぎる松籟しょうらいだけだった。大先生もいつになく言葉少なだった。
 基本的な薄茶点前だったのだろうか、大先生からことさら指導されたり注意されたりすることはなかった。大先生は弟子たちの動きの一つ一つを、ゆったり頷きながら見守っていた。稽古をしているという実感がどこか希薄だった。
 点前も喫茶も、手順や作法にのっとって黙々と進められた。主客ともにすべて心得ていて、作法以外の言葉はあえて必要としなかった。
 風炉の茶と違って、炉の茶では主客が向き合う形で座る。亭主は手ずから点てた茶を飲み干す客を見て、うまく茶が点てられたことに満足する。そして客がほっと息をつくさまに、みずからの心も潤されることを感じる。客はそんな亭主のおもてに、自身の満足感の反映を見て、亭主が心の動きをつぶさに理解してくれていることを知る。
 あの雪の日のひとときは、私だけでなく、その場の誰もが静かな幸福感に包まれていたのではないかと思う。
 それは雪がもたらした幻想かもしれない。だが、雪には人の情念を封じこめるとともに、それを解き放ち、互いの距離を縮める作用がある。
 そしてあの非日常の刹那こそ、あきらめていた和敬清寂というものの境地に、一番近いところにいたのではないかと思うのだ。

 いま、慚愧の念とともに。


記 事 索 引

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