心を開くとは・・・
たとえば心が丸いカタチをしていたとして。
それを丸いままのカタチで見せる。
わたしはいつも、そうやって心を公開している感覚がある。
だけど、それが心を開くのとは違うような気がしている。
境界がはっきりしているときは、まだ心を開いていない。
心を開くとは、丸の縁がじわっと滲み、境界線があいまいになることだと思う。
それはきっと、水彩画のにじみと同じ。いつでもどの色とでも混じり合うことができる。
心を開くことの意味は、そこにあるのだろう。
もうひとりがいて、わたしの心と相手の心がにじんで馴染んで、ふたつの色が混じった曖昧な境界が生まれる。そして安らぎや幸福感で心が満たされていく。その感覚を得るために。
だけど、にじませるのも馴染ませるのも難しい。
そもそも相手の目には、三角に見えているかもしれない。
相手の眼鏡が歪んでいれば、ありのままのカタチには映らない。
あるいは相手が、「わたしの心は四角です」と偽りの心を見せることもある。本当の心を見せてくれない相手と、どうして心を馴染ませることができようか。
もしくは、完全に隠してカタチさえ見せてくれない人もいる。
心を開く、その条件が揃うことはなかなかない。
心を見せるのもにじませるのも、その人の意思による。
心を閉ざそうという意志が固い人は、怖いのだと思う。
心を開きにじませるのが。
結局そこに、心が傷ついた経験がある。
心を守るということは、本当は境界を引くことではないはずだ。境界を常ににじませていても、自分の色が明確にあれば侵されることはない。傷つけられても、壊れてしまうこともない。
だけど自分の色がはっきり作られてないと、相手の色に染められてしまったり、めちゃくちゃに壊されてしまったりする。
それが起きやすいのが幼少期なのだと思う。
幼少期のやわやわな心は、侵されやすく壊されやすい。それが怖くて防御壁を建てる。奥の奥にしまい込んで、二度と傷つかないように守ろうとするのだ。
そうやって守られた心は、やわやわなまま育たない。大人になっても、ずっと幼少期の心のまま。そこにインナーチャイルドがいるのではないだろうか。
わが家での父と妻子との間には防御壁がある。その防御壁は、わたしが叩いて壊そうとしてもダメ。姉がコンコンと優しくノックしてもダメ。
まるで要塞化した父の心は、触れようとするとこちらが傷つけられるのだ。
結局のところ、自分で壊してもらうほかない。
心を開くって難しい。
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