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ウイルス禍で生きていくために

ひび割れた日常
人類学・文学・美学から考える

奥野克巳
吉村萬壱
伊藤亜紗

中日新聞の本の紹介コラムに載っていて、読んでみましたが、どの方もこのコロナ禍でどう生きていくか模索している様子が見えて、思考をすることの大切さを感じました。

もともとのウイルス

「ウイルスの歴史は比較的新しく、高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出したもの」という福岡伸一氏による考え。今のコロナ禍ではより衝撃的に思えます。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだったと。
「ウイルスは我々に外界の情報をもたらして、進化を加速させ、私たちの生命の不可避的な一部であるが故に、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ共に動的平衡を生きていくしかない」
コロナウイルスとの付き合い方を根本的に見直させられます。近年、新型コロナウイルスコロナウイルスだけでなく新たなウイルス流行が増えていることからも、今後新たなウイルスの発見、流行は容易に想像できます。その世の中で、どう向き合って、何を選択していくのかが問われているようです。

「最も単純な生命体であるウイルスは、彼らのなすべきことをしているだけの存在」
「ウイルスは細菌や菌類原生動物と並び環境破壊が生んだ多くの難民の一部なのである」
ウイルスからの視点が書かれていて、実際に彼ら(ウイルス)が流行するような環境を作ってしまったのは人間の方で、ウイルスを含むあらゆる生き物を追い詰めていたのが人間だったのでは。と恐ろしくなるとともに、自分の行動の判断基準がわからなくなります。感染の危険性は理解しないといけない、でもメディアの過剰な報道に振り回されることなく冷静な目で多面的に判断していくことの必要性を強く感じました。

疫病と差別

濱野ちひろ氏の言葉

人と動物が対等な関係を築くなんてそもそもありえないと考える人は多いかもしれないが、ズーに会い、少なくとも私の意見は逆転した。人間と人間が対等であるほうがよほど難しいと。疫病の歴史は黒死病の流行やユダヤ人虐殺など人間同士の差別と迫害の歴史という側面を持つ。今回の新型コロナウイルスの流行においても残念ながら、釜山市民ひいてはアジア人感染者、医療関係者への差別的な言動が見られた。今回の新型コロナウイルスの流行が我々にとっているのは、人間同士が対等の関係を結べない限り、災厄にも悲劇にも終わりはないという冷徹な事実なのかもしれない。

特に流行初期、最前線で奮闘する医療従事者への差別には衝撃を受けました。作家の五木寛之は「見えない不安に心の抗体を」と題するエッセイで、目に見えないコロナが私たちの心を徐々に蝕んで世界中を不気味な不安に陥れている中、私たちの精神にも心の抗体が必要ではないかと訴えています。自然災害や疫病が頻発し、後を絶たなかった13世紀の日本には法然、親鸞、日蓮、道元がいたと。しかし、このコロナ禍は長引いてもそのような明らかな水先案内人は現れていません(私にはこの著者たちが案内人のようにも思えましたが)。この苦しい時期を乗り越えていくために、その苦しさの上で究極のマイナス思考から始めてみるしかないのではないかと。
「コロナが完全になくなってしまう期待などせずに、最底辺の絶望から歩き出してみてはどうか」と。


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