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トラウマの癒し:身体に封印されていたもの (12)

トラウマの癒し:身体に封印されていたもの (11)の続き、そして最終章です。(11)に続く第二波の中、ワタシは極妻をやらせたらピカイチの女優になれる、なんていう自信を持ちます。一体なぜでしょう?
(今回が最終章ですが、この癒しの過程を経験した後のことも書く予定です。)

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●絶望感●

パフォーマンスをしながら、自分が汚れてしまったと思ってることを知った。そんな自分の身体に対する嫌悪感をうっすらと感じた。これは何年か前に経験したブレイクスルーの後、自虐行為をしなくなっていたからもうすっかりなくなったと思っていたものだ。まだ残っていたことに少し驚いた。自虐行為の原因となっていた、自分が自分であることがいやでいやでたまらないという自己嫌悪感とは、多少趣が異なるようにも感じられた。

決して剥がれ落ちることのないものが貼られているような、決して消えることのない汚点が染み付いているような、そんなどうすることもできない絶望感のようなものと同時に、それを受け入れることができずにもがく自分を感じた。いやなのだ。とにかくいやでいやで、きれいなままでいたかったのだ。二度と元には戻れない、決して手に入れることはできない、という事実に対するまとわりつくような歯痒さを感じた。そして、トラウマの癒し (9)で触れた呪縛のBGMと重なる「こんなワタシは幸せにはなれない」と思っていることも知った。

●極道の妻●

その内、極道のワタシが出てきた。ものすごく怖いワタシだ。犯人をリンチにあわせながら、ドスの効いた声で「地獄の苦しみを味わえ」なんて言っちゃってるのだ。パフォーマンス・アーティストのワタシが、それを声にして外に出した。身体の動きと共に、口に出て来る言葉をいくつもいくつも声に出して言った。極道の妻をやらせたらピカイチの女優になれる自信がある。

映画『鬼龍院花子の生涯』で、夏目雅子さん演じる鬼龍院花子の決め台詞「なめたらいかんぜよ!」。なぜかワタシは若い頃、その台詞と、その時の夏目雅子さんの格好良さに心を強く惹かれて、極道に憧れていた時期があった。「なめたらいかんぜよ!」が、何度もワタシの頭の中をリフレインした。ワタシの中の極道の女が、夏目雅子さん演じる美しくも格好良い鬼龍院花子に憧れたのかも知れない。そんなことを思った。

こうしてワタシの中から出て来るものを感じている時、ワタシは感情エネルギーや、口から出て来る言葉の数々に支配されて苦しくなるようなことも、そこから思考がエンドレスに出て来てワタシを飲み込むようなこともなかった。感じているものが「ワタシになる」ことはなかったのだ。

●眺めて自由にさせる●

涙がドバーッと流れ出た時も、嫌悪感や絶望感を感じた時も、極道のワタシが出てきて極妻ばりの言葉を言っている時も、ワタシは少し距離を置いたところからそれを眺めているような感覚があった。そうしようと思ったわけではなく、自然とそうなっていた。これは、心が乱れるような時にこそ自分を自由に泳がせて、ワタシはその自分が泳ぐ海になったり、舞台背景になったりして、ただ眺めて自由にさせることを習慣としてきた成果だろう。ワタシは湧き上がって来る感情や感覚、口に出て来る言葉を、ただ身体を通して経験しているだけだった。とは言っても、以前のように他人事として想像している感覚ではなく、自分の感情、自分の言葉として経験できていた。パフォーマンス・アーティストになるという手法が、功を奏したということでもあると思う。

もしワタシがこうしたスキルを身につけていなかったら、ワタシはワタシの身体から出てきたものを受け止め切れずに、怒りの中で絶望し、そこから這い上がることに一生を費やしていたかも知れないし、一生を絶望の中で過ごすことになったかも知れない。そういうことを考えるとやはり、この癒しの過程を経験するのは今だったのだろう。封印を解く準備ができていた、ということなのだと思う。

●許し●

そうした中、理解したことがあった。それは、全然許せていなかった、ということだ。犯人に対する怒りを感じることができなかったし、そういう経験をしたことに対する恨みのようなものも認識していなかったので、許していると思っていた。けれどそれは、思っていただけだった。許しは犯人に対するものだけではない。犯人を許せていないということは、そういう目に遭った自分を許せていないということでもあるのだ。

パフォーマンスの終盤、汚れてしまったと思っているワタシが「いてもいいの?」と聞いてきた。イエスと返事ができないワタシがいた。いてもいいに決まってるのに。でもイエスと言えない自分にプレッシャーを与えることも、無理を強いることもしない。今はイエスと返事ができないのなら、それでいい。どちらのワタシも、そして極道のワタシもワタシの一部であることに変わりはないから。そう思った。

●癒しの兆し●

疲れて横になった。起きたら背中の痛みも身体の熱さも消えていた。しばらくしたらまた戻ってきたけれど、シャワーを浴びて水に流したらまた楽になった。微熱も下がった。その後は、骨盤と股関節と膝に痛みが出て、喉と首はまだ痛いままだった。

その夜は寝汗をいっぱいかいた。そして朝の10時過ぎまで眠った。朝起きるとだいぶスッキリとしていて、喉を除いた身体の痛みも抜けていた。気力も戻り、ゾンビのような状態からは抜け出せたように感じた。でもまだ心もとなくて、ヨチヨチ歩きの幼児みたいな感覚があった。

知らなかった自分、出せなかった自分、認めたくなかった自分を認識できてよかったと思うと同時に、そうした自分に少し恐れを感じた。

認識することは癒しである

と、どこかで読んだのを思い出した。今後の自分が楽しみになった。


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