【明るい部屋】カメラ・ルシダの立ち位置に――デュシャンの《遺作》になぞらえて
『明るい部屋』という題名、バルトの同名作品の表紙を連想させるキービジュアルの色味、最終章題名がフランス語であること。これらのことから、このコミュはロラン・バルトの著作『明るい部屋―写真についての覚書』を下敷き、あるいはオマージュ等をしているコミュであることが予想される。しかし、このコミュの中で写真は一切現れてこない。代わりに最終章で「La chambre libre」と呼ばれる、時空を超えて”在る”ように感じられる部屋が現れ、なんか良い雰囲気になってコミュは終わる。一体全体何の故があって、あの部屋は現れ、私たちの心を捉えて終わったのだろうか。もう一度あの部屋を訪れに行こう。
はづきさんの燻りと寮、部屋、おなか
『明るい部屋』はクリスマス前の時期、Pが社長から「みんなが自由に使える部屋を押さえろ」と言う業務命令を受け、事務員のはづきさんと一緒に部屋を探し出すことから始まる。最終的に事務所の寮の奥にある空き部屋をリフォームして用意することになるのだが、その部屋にははづきさんの亡き父の遺品が残っているのだった。283プロのアイドルたちに手伝ってもらいながら、はづきさんはその部屋の整理を進めるのだが、Pとの会話の中で時折何か思い出しては表情を曇らす。どうもクリスマスにまつわって、はづきさんの中で受け入れがたい何かがあるようだ。
このコミュ中では、部屋が心に例えられていたり、キャロル隊に関しては頻繁に「おなか」について言及がなされる。人は身体という物理的な空間をもっており、「おなか」は人それぞれが持っている部屋とも言えるだろう。
そして、部屋の、あるいは人の集まりである寮の運営について丁寧に話がなされる。寮に住むアイドルたちは寮運営に必要な物を買いに行っては経費の相談をしたり、事務所を慮って節電に励んだりする様が見られ、また寮に住んでいないアイドル達も奥の部屋の整理を自主的に手伝う。総じて、お互いがお互いを支え、一丸となって物事を進めていく様子が描かれる。一方で、はづきさんは手伝われることをあまり好かず、手伝いを断る傾向が見られるのであった。
そんな中、はづきさんのフラッシュバックの内容がだんだんと明らかになってくる。それは幼い頃、父親からクリスマスプレゼントをもらったときの話だった。父親ははづきさんに人形をプレゼントしたのだが――はづきさんがドレスの格好を想定していたところ――その人形は消防士の格好をしていた。はづきさんはキャロル隊の本番前にして、そのときの心境をぽろっと漏らす。
消防士の人形からはづきさんが受け取っていたメッセージ。それは「お前はドレスを着る側ではない」だろう。はづきさんの心のどこかで燻っていたことはつまり、「なんで私はドレスを着る側=アイドル側じゃないの?」じゃないだろうか。
はづきさんはPやアイドルたちに手伝われることを――この消防士の人形を受け取った記憶を思い出すことと同時に――あまり好かない様子が散見される。断る理由は「アイドルに怪我をさせるわけにはない」「アイドルに埃をかぶせるわけにはいかない」などと、芸能事務所の事務員としては至極全うかもしれないが、些細なことを手伝われることさえ顔が曇る。それは「アイドル=ドレスを着る側=応援される側」と「応援する側」という境界をはづきさんが強く抱いてしまっており、そのうえで自分は今「応援する側」だからと感じているからではないだろうか。
はづきさんは、心のどこかでやはり「応援される側」にいたいと思っている気持ちもある。しかし、実際は私は「応援する側」にいる、という感覚にあるように見える。それが「ずーっとずっとずっと」燻っていること、だったのではないだろうか。
283プロの”アイドル”
283プロのアイドルたちは、コミュ内で、そんなはづきさんに対して、影響を与えつつあったように見える。
真乃たちは部屋の整理を自主的に手伝うことを申し出――Pによる許可もあったのだろう――実際に合間合間に代わり代わり手伝う。その手伝いに対して、はづきさんは自分のことはそっちのけで、どこかアイドルは「応援される側」、自分は「応援する側」と線を引いてるような節が見られる。
しかし、真乃たちははづきさんを手伝うことを憚らない。はづきさんからすれば、本来「ドレスを着る側」であり、「応援される側」である彼女らが自身を「応援してくれる」という経験になり、その結果「応援される側」「応援する側」の境界が曖昧になっていく。
そして、はづきさんの燻りが解消される契機が訪れる。その契機となったのはチャペル隊の本番での出来事であった。
コーラス
チャペル隊は本番前に並び順について相談を行う。各ユニットから一人ずつ選抜されたチャペル隊だが、ストレイライトから送り出された愛依は冬優子に「センターを取ってきなさい」と発破をかけられており、本番前に「凄い勢いでやらないと駄目だから」と気を負っている姿をはづきさんに見られていた。並び順の相談の際に、愛依がセンターに立つことを申し出るが、メンバーであるアイドル達は「コーラスは響くもの」「調和こそが醍醐味」「コーラスにセンターはない」と返し、愛依は(内心)崩れ落ちる。その様子をはづきさんは傍から見ていた。
はづきさんの「なんで私はドレスを着る側じゃないの?」という燻りには、ドレスを着る側がセンターであり、そうではないのは周辺や裏方という前提があるように見える。はづきさんはセンターたらんと気負う愛依にどこか自分を重ねたのではないだろうか。そして、その愛依は「センターなんてない」というアイドルたちの言葉に打ちのめされたのだった。
チャペル隊は横一列に並ぶ。愛依は(本人が望んだから)センターに配置してもらっていた。それはこのコミュにおけるはづきさんの位置のように。
他に競ってセンターに立とうとするアイドルはいなかった。
コーラスが響く。そこには誰かが主題として特出することもなく、全員が調和する。この「センターはない」という言葉が響くのは『明るい部屋』自体がどのアイドルにも見せ場があって、かといって特出しすぎていないという平等な描き方がなされていることも寄与しているだろう。
センターと周辺・裏方、「応援する側」と「応援される側」の対立構造は、横一列に並ぶ彼女らに存在しない。皆が皆ただ「(応援されると同時に)応援する側」だった。
はづきさんとアイドルとの間には、事務員とアイドルという社会的肩書の立ち位置の違いがあり、それらは(はづきさんの中で)以前は「応援する側」と「応援される側」にそれぞれに対応していたが、今や両方とも「応援する側」という枠では同じになったのだ。
結果、はづきさんは、一方的に支えることから、一緒に支えることへ意識が変化したのだった。
はづきさんが抑圧していたもの
チャペルでの出来事のあと、はづきさんは消防士の人形にまつわって、かつて父親と交わした会話を思い出す。そこにははづき父の本質のようなものがあり、バルトの『明るい部屋』が掛かっていることの1つではないかと思われる。
バルトは写真論を掘り下げるにあたって、亡き母の本質のような雰囲気が残る母の写真――「温室の写真」を取り上げる。それはバルトの母の幼少のときの写真であるが、バルト曰くその写真から母の本質のようなものを自身は感じることができると言う。が、他の人が見ても、決してそのようなものは読み取れないだろうとも言う。
消防士の人形。多くの人にとってはそれはただの人形だろう。しかし、はづきさんが見れば、人形の上にはづき父の本質のようなものを感じることができる。はづき父は消防士の人形を見て「手伝いたい」と思う気持ちになるのだという。はづきはそれを知っている。父親の本質のようなもの、そして、かつ父親が渡したかったものは人形自体ではなく、消防士の人形を見ることで「手伝いたい」と思う気持ちになるということ、だったのだ。
おそらく匂わせとして、『日を食んで、夜を啜って』の例のメンマのコミュで言及されている内容は、対象(メンマや消防士の人形)ではなく、対象にまつわる気持ちの側面の話になっている。
しかし、はづきさんは父の本質のようなものを受け取れないでいた。なぜなら、はづきさんは「ドレスを着る側」でいたいという気持ちを持っており、また「応援される側」と「応援する側」という区別があり、同時に両方に属することはできない、どちらかに立てば、もう片方には立てないという感覚を強く持っていたから。もし父の欲望(「手伝いたい」と思う気持ちになること=「応援する側」)を受け取ってしまえば、はづきは「ドレスを着る側」でいたいという気持ちを捨てなければならない。だから、はづきさんは胸の奥に父のクリスマスプレゼントを隠して(抑圧して)いたのである。
チャペルの出来事の後に、父の欲望を受け取れるようになったのは、言うまでもなく、はづきさんの中で「応援される側」と「応援する側」という区別が霧散したから。皆が「(応援されると同時に)応援する側」なのだから。
対象を同じ目線で見る位置
はづきさんも「消防士の人形に対して「手伝いたい」と思う気持ちになる」ようになった。それは正確には父の思いを「受け取る」というよりかは、父と同じ感じ方になる、見方になると言った方が近いだろう。ある種の(宝物の)複製と言えるだろう。
バルトの『明るい部屋』が掛かっているもう1点がここだろう。『明るい部屋』の原題は"LA CHAMBRE CLAIRE"であり、ダブルミーニングになっている。1つは「明るい部屋」であり、もう1つは「カメラ・ルシダ」というカメラの前身である写生(複製)装置を意味している。
写生する者はこの「カメラ・ルシダ」という装置を通して、対象を見る必要がある。
ここに「La chambre libre」の位置を見つけることができる。
ある見方をすることを、ある装置を通して対象を見ると例えることができる。その場合、同じ見方をする二人は、その装置に対して同じ位置にいると言える。その位置が「La chambre libre」なのだ。わかりやすい例として、デュシャンの《遺作》から見ていこう。
デュシャンの《遺作》に対する、ある解釈
デュシャンの《遺作》は、壁にアーチ状の古い木の扉があり、目の高さぐらいのところに穴が開いている。鑑賞者はこの穴を通じて中を見ることになる。中に何が見えるかは一旦置いておいて、この作品の特徴の1つは、デュシャンが内部の複製写真を禁止し、展示場所にずっと展示しつづけることを強制づけたことだ。つまり、中を見るためには、必ずその展示場所に行って、自分の目でその穴から覗く必要があった。
《遺作》の解釈の1つとして言われていることは、(展示開始から15年以内に)もし人と穴から見えたものを語り合うことができたとすれば、私とその人は、あの木の扉の穴に対して、地球上で同じ立ち位置にいたこと、タイミングの差はあれど同じ空間に重なり合ったことが保証されているということだ。
カメラ・ルシダ
カメラ・ルシダ(写生装置)には穴に見えるレンズがある。ある見方をするということは、ある装置の穴から対象を見ることと例えることができる。同じ見方をするということは、同じ装置の穴――《遺作》で言うと木の扉の穴――から対象を見たと言え、その装置に対して、立ち位置が重なりあったことがあると言えるだろう。
はづき父とはづきさんは「「手伝いたい」と思う気持ちになる」見方を双方持った。それははづき父とはづきさんがその写生装置(見方)に対して、時空を超えて同じ立ち位置に重なり合ったと言えないだろうか。その重なり合った位置をシャニマスは「La chambre libre」と名付けたのだ。
La chambre libre
寮の奥の部屋にははづき父の遺品があり、おそらく父が使っていた部屋だろう。整理中はづきさんが部屋で寝落ちし――寝落ち後あさひが言及する幽霊がいなくなる――部屋が父からはづきさんへ引き継がれたかのような印象があった。その後、チャペルでの出来事を経て、はづきさんが父のプレゼントを心から受け取り、部屋の中は空っぽになる。部屋はメタファー的に「おなか」にも例えられているように見えることから、父の遺品や見方がはづきさんに消化されたかのような印象があった。
そこは、はづきさんが父と同じ見方をしたことで、時空を超えて重なり合った結果できた部屋あるいは位置であり、「La chambre libre」と名付けられた。
「libre」は「空っぽ」と「自由」の意味がある。誰もが重なれる場所であるから、属性を持たない。その部屋は誰かの部屋でもあると同時に誰の部屋でもない。
センターと周辺・裏方という区別、あるいは「応援される側」と「応援する側」という区別はなく、私たちは皆「(応援されると同時に)応援する側」であるという見方に立った時、時空――いや次元さえも超えて、私たちは寮の、あの「La chambre libre」で出会う、あるいは重なり合う。
あのほんのり明るい部屋を思い浮かべながら。
そこで私たちは互いに「応援し」「応援される」のだ。
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