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【ブルアカ】鬼怒川カスミの本当の「我々」について【Trip-Trap-Train/絆ストーリー考察】

『Trip-Trap-Train』および鬼怒川カスミの絆ストーリーの考察です。
画像は特に注釈がない限り『ブルーアーカイブ』のゲーム画像で、「© NEXON Games Co., Ltd. & Yostar, Inc.」になります。

『Trip-Trap-Train』でのカスミにはおかしなところがあります。行動に一貫性がないことです。どこに一貫性がないのか。なぜ一貫性のない行動をしたのか、つまり、その行動の真の目的は何なのか。絆ストーリー含めて、カスミの人物像から考察します。



『Trip-Trap-Train』でのカスミの人物像

「我々」の使い方について

まずカスミの言動について。特に目につく――あるいは鼻につく――のは「我々」という言葉の使い方だろう。彼女は「我々」と先んじて言語行為をすることで、あたかも以前から共同体があったかのような雰囲気を醸し出して、相手を無理矢理「仲間」に引き込む手段を多用する。その方法で、手を組むメリットが薄い、あるいはデメリットが多いために、手を引く相手を引き留める。本来利害関係で勘定すると手を組むはずがない相手を「我々」に仕立て上げる術にあまり長けている。

空気のように、誰とでも「我々」を作りあげる。
イチカ「敵対関係ですよね」

具体的にイチカ・先生と出会った際の、やり取りを見て行こう。
カスミはまず最初に(当然のように)言語行為として「我々」や「仲間」と言い出し、その結びつきを「列車を止めて降りる」という共通事項で説明する。確かに「列車を止めて降りる」なら共闘した方が早いだろう。

とはいえ、利害関係をちゃんと考えると、イチカと先生がカスミと手を組むのは相当デメリットが大きい。ただ「間違って乗せた荷物を取りに来ただけ(+α)」から「指名手配犯の脱走の補助」になってしまうからだ。イチカや先生も馬鹿ではない。利害関係からメリットを説明するようにカスミに要求するが、話し合っているところ(あるいは近くにいるところ)をギャング団・ハイランダー鉄道学園の生徒たちに見られて「仲間」とみなされる。そして、そのまま襲撃を受けてしまい、カスミと一緒に応戦してしまう。

勝手に先に宣言

ギャング団やハイランダー鉄道学園の生徒たちから見ると、重要度から見て、イチカたちはカスミと手を組まなければ放っておかれた可能性もあるが、既成事実として「仲間」とみなされてしまった。カスミは口での説得も一応しながら、おそらくこちらも狙ってたのだろう。イチカたちはさっさとカスミから離れるべきではあった。とはいえ、一本道の車内だし、カスミはついてきて離れなかっただろうが。絶対「仲間をおいていくのかい?」と言いながら。

身内的なるもの、我々なるもの

またカスミには「身内的なる」行為が多くみられる。

ブルアカでは(メインストーリーや他イベントなどで)2種類の人と人の関係の在り方が二項対立的に散りばめてられている。1つは「身内的な関係」で、もう1つは「他人的な関係」になる。

『隠されし遺産を求めて』のシナリオで言うと、ウイとヒナタの関係が、「身内的な(非損得的)関係」であり、お互いに本音を言い合える関係であり、金銭や利害が絡まずに、非損得的に「贈与」のやり取りがなされる関係である。民族内的とも呼ばれる。

もう一方の「他人的な(損得的)関係」は、例えばウイから見たサクラコの関係で、相手が自分と関わりを持つのは打算的な損得関係からであり、言葉の裏を読み合う関係を指す。間にあるのは利害と金銭であり、一般的な意味での「大人の関係」と言える。メインストーリーならカヤとジェネラルの関係が最も顕著である。民族間的とも呼ばれる。

『隠されし遺産を求めて』では、ハナコがこの2つの関係の間にある壁を、(先生のおかげで)なんとか乗り越えたお話でした。

「我々」という言葉自体は本来「身内的な関係」を指し示す言葉である。しかし、カスミが作り上げる「我々」は様子が異なる。『Trip-Trap-Train』において、物語後半でカスミの「我々」の内部実態が示される。カスミが言及する「我々」の「約束」と「信頼」は、明らかに(トリニティ的な)「他人的な(損得的)関係」である。「約束」とは道義とは別であり、法の下で違反してないこと、つまり「嘘言ってないこと」であり、「信頼」とは裏切れない利害関係で縛ることであった。

ちゃんと列車から降りれた後に、ね
「約束」は破ってないでしょ

また、カスミは疑似的な「身内的なるもの」を「我々」に示す行動が見られる。物理的な距離を無遠慮に詰めてボディタッチをしたり、表面上おちゃらけて(一方的な)心的な距離感の近さを見せたり、情報伝達を”贈与”っぽいように見立てる。これらは形式上は「身内的な関係」の所作になる。

どこかわざとらしい贈与

特に目を見張るのは、利害関係で切られそうなときに、まず物理的な距離感の近さや親しみを出して引き留めることであり、これはつまり、私とあなたの関係は「利害関係」ではなく、非損得的な「身内的な関係」ですよ、と見せかけているということだ。そして、状況的に「我々」が瓦解しそうな状況に至ると、上で「ティーセット」を握ったように、可能ならば「利害関係」で縛って抜けられないように仕向ける。

状況は違う。仲間扱いされたくない
利害で引く相手に対して、利害で説得ではなく、距離感を詰める

つまり、カスミが作り上げる「我々」という存在は、表面的には「身内的な関係」の体裁を取り、そう見せかけながらも、内実は利害関係で繋がっている、あるいは縛り上げている関係性と言える。この特異な関係を「身内的なる関係」、その関係で出来上がった集団を「我々なるもの」と呼ぼう。

カスミは本来的には利害関係で結びつくことのない相手を「我々」と見なせるという詭弁で、相手側が不利な条件でも呑ませて「我々なる」共同体を仕立てあげる。なぜこのロジックに一理あるように思えてしまうのかというと、本来の「身内的な関係」である「我々」ならば損得関係ではないから協力すべきだという雰囲気が出てしまうからだろう。そして、この見せかけを維持するために、先んじて「我々」と述べたり、異様に距離感を近づけるなどの「身内的なる」行為を繰り返す。

カスミは、その場限りの自身のための(道具的な)共同体――その共同体はカスミの利益のためにある――を作るため「我々」というものを利用する。
”私”のために「我々」ロジックを使いまわす。

カスミの、この部分だけを見ると、ハナコは反吐が出るくらい嫌いだろう。

ただ先生の他で、犬猿の仲であるトリニティとゲヘナが手を組む必要がある場合に、カスミはその仲介になれうる稀有な存在だろうなと思う。「犬猿の仲も1つの仲」と絶対言う。

ルソーさん、このタイプですね

実はこの(詐欺的な)「我々」ロジックを利用している存在には見覚えがある。『人間不平等起源論』の詐欺的立法者である。

 『人間不平等起源論』の詐欺的立法者の形象はここだけではない。それは不平等な社会が成立するもう一つの重要な局面である悪しき社会契約である所有権と実定法の確立のシーンである。(中略)ただし注意すべきはここで富者は何の権利も権限も有していないただ持っているだけの存在であり、いつ何時団結した貧者たちに掠奪されるかわからない。こうした所有〈権〉と法の不在に恐怖する富者はとある宣言を思いつく。「われわれは団結して、弱者たちを圧制から守り、野心ある者たちを抑制し、各人に自分の属するものの占有を保証しよう」(186頁)。こうして富者と貧者の共同体が設立され、ただある不平等は所有権と法の下での不平等へと正統化される。これが人間の不平等の起源であり、それは自然状態からの必然的帰結ではない。
 王寺はここに富者の巧妙な言語行為を読み取る。それは先の宣言にある「われわれ」という発話である。そもそもこの発話以前に彼らのあいだに共同体は存在せず、少なくとも富者自身は貧者たちによって攻め立てられる状況にあった。しかし、富者は貧者たちを含め同じ構成員として「われわれ」を主語に語り出す。(中略)富者はまさに詐欺師的立法者と呼ぶにふさわしい。
※太字の強調は引用者による

言語と時間の政治学:王寺賢太『消え去る立法者』を読む / 淵田仁 (paul-valery-japon.com)

ルソー曰く、この論法の使い手が「どれほどの犯罪と(……)悲惨とおぞましさ」を引き起こすことになる所有権と法をもたらし、所有がない世界に所有を確立させた存在である。

イチカとの対比

『Trip-Trap-Train』では、カスミと並行でメインを務めたのはイチカであった。この物語を、上の『人間不平等起源論』の話に重ねると、カスミは富者=詐欺的立法者であり、イチカは貧者(の代表)とも読めるだろう。

カスミが”私”のために「我々」ロジックを使いまわす存在であるとすれば、イチカら貧者は「我々」のために”私”が苦しめられる側にあたる。そして、『Trip-Trap-Train』の神話的な読みとしては、この貧者が富者に対して「お前は詐欺師だ」と反逆する物語であると読める。
※こういう神話的な読み方に馴染みのない人もいるかもしれない。例えば「人魚姫」や「ピノキオ」は「人でないことの受難」の物語である。(果たして、私たちは赤ん坊の時に自分が大人と同じ人間だと思えただろうか)

『Trip-Trap-Train』では法にまつわる象徴が散りばめれられている。下記の感想は(雑に)その象徴を辿った感想・考察であり、イチカサイドの話の神話的な読みになる。(※読まなくても良いです)

解説すると、ナギサがティーパーティーの権威を上げるために求めた「ティーセット」であるが、権威性の象徴とも言え、これは(ラカン派の)精神分析的には「ファルスの指し示すものシニフィアン」と言っていいだろう。例えば、小さい子供にとって、どのような親だろうが、親が絶対的に感じる時期がある。そして、時間の経過とともにその絶対性は薄れていく。では、薄れる前と後では何が違うのか。子どもから見て親が権威性を持っていたか否かである。その持っていたとみなされる権威性が「ティーセット」として(象徴的に)表されている。この「ティーセット」を持っていれば、言っていることは正しい。そういうものとして「ティーセット」が描かれている。

イチカサイドの話は、「詐欺的立法者」のように振る舞うカスミがこの「ティーセット」を持ち、その「詐欺的立法者」に支配される中で、堪忍袋の緒が切れてイチカが「ティーセット」と「詐欺的立法者」をぶち壊すという貧者の反逆の話になる。このとき、イチカの状態の変化は「法治(トリニティ)」から「無法(ゲヘナ)」への変化であると、列車の向きで示唆される。これがイチカサイドの、象徴を辿った神話的な読みである。

「身内的な関係」である「我々」のために私を捧げることはきっと幸せだろう。しかし、「身内的な関係なるもの」である「我々なるもの」に押し付けられた法に従うことは、一見正しいように見えるが、見えるだけで、実際は苦悩である。そういう詐欺師の法からの脱却が描かれている。イチカサイドの結論は、引用したジョジョのエルメェスの有名な台詞が全てを語っているだろう。

「我々」のためであるならば、抑えつけれよう
だが、他人のような「我々なるもの」の言に、一理あれど、そこまで我慢する必要はあるのか
『ジョジョの奇妙な冒険』©荒木飛呂彦 集英社

こういう神話的な読みができる物語は多くないし、最初からこういう風に読むことも少ない。ただ「ティーセット」というギミックが臭すぎて、明らかに意識して描かれているのがわかるので、こういう読みをしてほしいと言われているように感じた結果、最初の感想の記事になった気がする。

ところで、『Trip-Trap-Train』には「ティーセット」とは別ベクトルのギミックも仕組まれている。それは「トラップトリップ」である。

カスミの行動の謎

「トリップトラップ」の実行者

イチカが「ティーセット」をぶち壊した出来事。この出来事は明らかにカスミが意図して引き起こしたことが示唆されている。

カスミは意識的にイチカのことを煽っていたのは見てて分かる(滅茶苦茶ワザとらしかった)し、イチカに撃たれて倒れる際は満足そうな顔を見せて倒れて行った。またメタであるが、イベント題名に「トリップトラップ」が含まれ、開眼したイチカは明らかに「トリップ」状態であった(「トリップ」には「旅行」とトリップ状態の「トリップ」が掛けられている)。この「トリップ」状態にさせる「トラップ」を仕掛けたとすれば、その実行者はあの場において煽って発破をかけていたカスミしかいないのだ。

怒らすこと自体が目的にしか思えない煽りの1つ
名前を間違えるのも滅茶苦茶わざとらしかった
撃たれて倒れるときの満足そうな顔
明らかなトリップ状態

だとすると、カスミの行動に対して疑問が浮かび上がる。矛盾しているように見えるからだ。詐欺的立法者としてイチカや先生を手玉に取った状態を維持するには、煽るよりなだめる方が良いはず。堪忍袋の緒が切れ、逃れられては元も子もない。自分の手駒として縛り、あの場を切り抜けることが目的ならば、イチカが爆発してしまう方に持って行く理由がない。なのに、カスミが意図的に爆発させたことが示されている。この矛盾しているように見える行動の動機がわからないというのが、今回の考察の動機である。

この疑問に対して、いくつか気になる点から迫っていく。

”こっち側”

まず気になることは、カスミが作り上げる「我々」は、決して「身内的な関係」ではないとすれば、彼女にとって真に「身内的な関係」を感じる相手とはどんな相手だろうかという疑問である。その回答に思われるのが、作中に出た”こっち側”というタームである。”こっち側”という括り方は、あの場の「我々」――列車を降りる目的で結ばれた関係――を決して指してはおらず、また別の共通項で繋がっている関係を指して述べられたように見える。シナリオを顧みると、カスミはイチカの抑えつけていた内面を指して、自分とイチカは同じところがある”こっち側”だと述べていたように思える。

私は爆破が好きなんだ

仮にカスミがイチカの”こっち側”要素に親しみを覚えているとするならば、仮説が1つ思い浮かぶ。それはイチカの内面的な要素と出会うために、イチカを爆発させたのではないかということだ。つまり、カスミの目的は実は口八丁でイチカたちを縛り上げることではなく、爆発させた後の内面の露出が真の目的であり、あくまで爆発を引き起こすための手段として、圧力をかけていたのではないか、と考えられる。

おそらくだが「トリップトラップ」も一種の爆発である、ということなのだろう。個人の内面に蠢く、固有の衝動。社会的に求められる振る舞いの中でそれは隠れてしまう。その内側に蠢く衝動は温泉にも例えられよう。硬い岩盤――あるいは仮面――に隠されてしまっている、それ。それを掘り当てるために、カスミは岩盤を爆発霧散させるべく圧力をかけているのではないだろうか。本音、本性をもって角を突き合わせる関係を求めて。

絆ストーリー:脈なしから脈ありへ

この仮説が正しそうかどうかの検証作業として、カスミの絆ストーリーを追っていく。絆、つまり情動的な関係を作り上げていくストーリーであり、カスミの絆ストーリーは、通常の意味での「我々」を、決して身内的な関係には落とさないカスミに対して、先生がどのように情動的な関係を作っていけるのかという観点から、そもそも興味をそそるものになっている。実際に絆ストーリーを通して、「脈なし」から最終的に「脈あり」へと変わっていく。

仮に仮説が正しいとすれば、お互いに内面を晒した情動的な関係を先生と結ぶために、カスミはイチカにやったことと同等のことを先生に仕掛けるはずである。それが、イベントでイチカに「トリップトラップ」を仕掛けたのは気まぐれだったのではなく、意図的に内面を掘り起こすためだった、という説を支持するものの1つになるだろう。

絆ストーリーを見ていくにあたって留意点がある。カスミの発言は本音か、または(調子のいい)口八丁でたぶらかしているのかをはっきり区別するのが難しく、ふるまいの機微を見る必要があるが、紙芝居形式(しかも音声もなし)だと読み取るのは困難極まる。その点書き手も理解しているようで、メタ的だが、根拠を補うものとしてBGMが大きく代わりを担っているようだ。ここはBGMは信じよう。

※ちなみに名取さんの絆ストーリーの配信でも見れますが、考察するのでちゃんと引きました。ちょうど振動も欲しかったし(典型的な言い訳)

EP01:鬼怒川カスミ

まずEP01から直球の題名になる。この題名からカスミの人物像についての機微が描かれたEPと思われる。

先生はカスミから「手伝ってほしいことがある」と連絡を受けて、カスミのアジトを訪れる。まず目につくのがカスミの発言中の「WEの会話」である(個人的には「人たらし構文」と呼んでいる)。『Trip-Trap-Train』では詐欺的立法として「我々」なるものが作り上げられたが、恋愛の文脈では「我々」と言語行為することは「WEの会話」というテクニックで知られている。

典型的な、たらし構文

微妙な機微として感じるのは、この時点でのカスミは、わざと「わざとらしく」「WEの会話」を使っているように見えることだ。一度落としてから「我々」と結び直す。一度「お客さんかな?」と落としたり、わざわざ「誰でも良いわけじゃない」と枕詞を置いたり、先生を部屋に置いて行ってすぐ地図を取りに戻ったり。距離を近づけて離してを繰り返している。これは、相手が好意を持っていることを分かって、たぶらかしている。ボールを握っているのはカスミ側である。

この感覚は『Trip-Trap-Train』のときの「我々」の距離感に近く、「身内的なるもの」を作り出しているように感じる。ただ言葉回しがどこかもったいぶっていて「わざとらしい」印象が強い。

またメモロビは先生がカスミに踏まれるかのような印象を抱かせるショットになっている。これはつまり、仄めかされる先生とカスミの関係性は、先生は、踏まれる側=貧者側=コントロールされる側だということだろう。

しかし、シナリオはメモロビが抱かせる印象と反対方向に進む。カスミが次の温泉ポイントを指定し、先生はそれに意見するという形でカスミと先生は温泉ポイントを決めようと話を進める。しかし、意見が一致することはなく、カスミは最終的に「先生が反対しても実行する」と豪語して、最後のポイントを指し示す。それが、どこか先生側に迎合したようなポイントだった。

ここに『Trip-Trap-Train』でカスミに抱いた印象と同じ違和感が出てくる。カスミは相手をコントロールするという過程の行動と最終的な行動がどこか微妙にずれている。最後の最後でどこか一貫性がない。たまたまだったのかもしれないという可能性を排除できない程度だが、一度だけでなく二度も見られるならば、カスミという人物を見る際に見逃してはいけない違和感だということだろう。爆破を語るEP02ではなくEP01に『鬼怒川カスミ』という題名がついているのも、それを物語っているように思える。

EP02:私は爆破作業が好きだ

再度カスミは爆破計画の会議に先生を呼びつける。そこで、話はカスミはなぜ周りに追われても温泉開発を続けるのかという話に及ぶ。カスミは「温泉開発を成功させること」が好きなのではなく、「爆破」が好きなのであり、成功するに越したことはないが、温泉が湧き出てくる願望を元に温泉開発を作り上げる過程にこそ温泉開発のすばらしさが詰まっているという。温泉が絶対あるとは言えない。成功するかどうかもわからない。しかし、掘り起こしたい。いや、掘り起こしてみせる。そういう気持ちが「爆破」したいという気持ちのケツを叩く、と。

そして、話はシャーレの爆破予告に及ぶ。この脅迫に発破をかけられた先生は、カスミとの温泉ポイントの議論に「とことん」「真剣に」付き合うことになる。陽が昇るまで続いた議論の結果、「納得できる場所を見つけたカスミは、地図の上で満足げな寝顔を見せ」る。寝顔を晒せるのは、ある程度心を許した証であろう。

この話で着目すべきポイントは爆破予告のタイミングから『Trip-Trap-Train』のメインテーマのBGMが流れたことだろう。これはつまり、カスミが先生に「トリップトラップ」を仕掛けた、ということではないだろうか。この際の言葉回しも巧みだ。カスミは「シャーレ」に言及したが、「シャーレ」が「目に」「映っている」と言っただけであり、爆破するなんて一言も言っていない(カスミは「約束」は必ず守る聡明さを持っているので、嘘言わない。まぁEP03では爆破候補と言っちゃってたけど)。脅迫自体がトリップさせるためのトラップと考えられる。この脅迫によって先生が発破をかけられたのは明白で、つまり、この発言によって、爆薬を仕掛けられはのは「シャーレ」ではなく、先生だったとも言えよう。

なぜこのタイミングで仕掛けたのか。
EP01で、先生は温泉ポイントを「なるべく安全な場所に」誘導しようとしていた。ただその判断は社会通念上妥当な判断であり、先生個人の判断か、一般的な判断に従っただけなのか見分けがつかない状態に思える。カスミから見て、先生は社会人としての仮面を被っているのか、本音で意見を述べているのかが見分けがつかなかったのではないか。

ここに先ほどのカスミの発言が重なる。先生の内側に――仮面の向こう側に――固有の衝動が絶対あるとは言えない。掘り起こすのに成功するかどうかもわからない。しかし、掘り起こしたい。いや、掘り起こしてみせる。そういう気持ちが「爆破」したいという気持ちのケツを叩く、と。つまり、「トリップトラップ」はカスミにとって、相手の内面にあるかもしれない衝動と対面したいという「もう1つの温泉開発」なのではないだろうか。

EP03:知的な姿

カスミが先生に「勉強」できる場所がないかを聞き、先生は「シャーレ」の休憩室にカスミを招く。カスミは感謝はするが、爆破予告した相手を呼んで大丈夫なのか、と先生をつつく。ここに先生はいつもの解答を投げる。

絆ストーリーと呼ばれるシナリオの中だが、カスミと絆=情動的な結びつきが強くできた瞬間を指すとすれば、(カスミの反応から)この場面であるのは間違いないだろう。「生徒が困っていたら、手を差し伸べるのが私の仕事だからね」という言葉には、複数の含みがある。1つは、キヴォトスにおいて指名手配犯として扱われいるカスミだが、先生はカスミを他生徒と区別することなく、一律に生徒として認め、またその在り方も認める。例えば,、以前のイベントでは慈愛の怪盗にはこの意味合いが大きかっただろう。

『白亜の予告状』

ただ流れからして、カスミにおいてはもう1つの意味合いが大きかったのではないかと思う。一般的な判断であれば、爆破予告した相手を「シャーレ」に呼ぶ判断は到底できない。この判断を己の意志で下すには先生固有のものが先生の内になければできない。当初カスミには先生がカスミを「シャーレ」に呼んだ=カスミに迎合した(爆発して良いという意味合いにも取れる)ように思えただろうから、カスミはどこか不満そうに見えたけど、先生の内面が露出した解答が発せられて、カスミがこの解答を聞いたとき、温泉が湧き出たような感覚だったのではないだろうか。

EP03『知的な姿』は、題名からも他人から見られる姿と実際の等身大の姿の乖離が扱われている。狂人のように見られているカスミ達だが、一方で地道な「勉強」を行う姿もある。その姿を誰も見てくれないし、見てくれないのは普通だという旨のことを、カスミは言う。

この絆が結ばれたであろうやり取りのあとから、雰囲気がガラッと変わる。特にBGMが顕著で、EP01のメモロビのBGM(『Shady Girls』)と比べて、とても穏やかで爽やかなBGM(『Honey Jam』)がチョイスされている。

二人で一言も発さずに集中して勉強や作業を行える心地よい体験の後、カスミは自主的にコーヒーを先生に入れる。ウイのコーヒーを思い出させる一種の”贈与”であり、BGMも相まってか、今まであった、わざとらしさを感じさせる余計な一言がとても弱くなっているように感じられる。素直に、率直に差し出したいから差し出しているように見える。「身内的なる関係」ではなく、互いに素直に本音を述べ合える「身内的な関係」があるように感じられる。

最も顕著なのは、エピソード終わりのモモトークだろう。普段の調子からたぶらかされているのか判断がつきにくいが、手の内を晒してくれたことは確かで、カスミの歯切れの悪さからも、本音を素直に曝してくれたように思う。もうそう見せかける必要はなさそうだ、と。


EP04:山奥からの救助要請

EP04は先生とカスミの二人の間で、土居健郎の言うところの『「甘え」の構造』が出来上がった話になる。EP03でカスミは先生にいつでも(シャーレに)来ていいよと言われていたが、断っていた。ここから一歩進んで、二人の間の最後の壁が払われた話になる。

このEPの内容を簡単に述べると以下になる。
山奥でカスミはサンダルが壊れ、先生に救助要請を出す。先生は駆けつけ、カスミは先生におんぶしてもらい、山を下りる。

上の記述は事実として間違っていない。ただし、欲望の次元を見るならば、情報落ちしている。まずカスミは最初からおんぶしてほしいなど露とも思っていなかった。この場面でおんぶしたがったのは先生である。つまり、このEPで起こったことは、先生がカスミをおんぶしたいと思っており、先生はカスミに「甘やかせてもらって」おんぶさせてもらったのである。先生がおんぶしたいと思い、それにカスミがのった(おんぶさせてあげた)のである。先生がカスミに「甘やかせてもらえた」のである。

カスミは先生に助けてほしいと救助要請を出し、先生はそれに答えてかけつける。先生はカスミに「おんぶさせてほしい」と要請を言葉の裏で出し(「怪我人だからおんぶは絶対」という名目)、カスミが答えて「おんぶさせてあげ」た。そしてカスミはその関係を心地よく感じて、背に身体を預ける。相手のことを信じられるから。

このようにお互いが相手が求めているものに「のる」関係が成り立っている関係のことを『「甘え」の構造』と呼ぶ。この関係は「身内的な関係」の最たるものである。ここまで関係が出来て「脈なし」な訳がない。

※『「甘え」の構造』は初見時分かりにくい。以前Vtuberと視聴者の関係において詳細に解説したことがあるので、興味のある方は下記記事の「「甘え」の空間」の項目を参考にしてみてください。

【息根とめる】新大久保聖地巡礼と『スペクタクル社会の治癒空間』について|九重 (note.com)

カスミの本当の「我々」と「狂人の戦法」

まとめよう。『Trip-Trap-Train』やEP01にて、カスミは相手を支配して物事を進める手段を取っているが、支配して物事を進めるという視点で見ると、最後の最後で一貫性のズレが出ており、自らの手で破綻させているように見える。イチカへだけでなく、EP02の先生へのトリップトラップの様子も鑑みると、シャーレの爆破の話自体もEP03以降とんと消え去ったのも加味して、これはおそらく支配や脅迫するのは圧力をかける手段であって、そのあとの(仮面の)爆破が目的であり、爆破して出てくる相手の内面と対峙したいと思っているのでは推測される。

実際、EP03にて先生の内面が見えたとおぼしき後に、カスミの態度や雰囲気が軟化する。手の内も先生に晒すようになるし、最後(EP04)は先生に「甘えさせてあげる」まで至る。

ここから、カスミが本当に求めていた関係はお互いに本音を言い合える関係であり、つまり、実はハナコと同じく「身内的な関係」の「我々」だったのではないかと考えられる。ただそこに至るための手段が違うだけであって、先生(やハナコ)側が「太陽」だとすれば、カスミは「北風」なのだろう。「北風と太陽」は目的は一緒だが、手段が違うだけである。おそらくカスミのパッシブスキルの「狂人の戦略」はこの「北風」の手段=「トリップトラップ」を指しているのではないかと個人的に思う。

※ちなみに先生側の手段は以前のイベント『隠されし遺産』で示されている。一言で言うと「フルオープンで相手を待つ」であり、「愛への賭け」と私は呼んでいる。下記記事で詳細に書いた。「囚人のジレンマ」を越える唯一の手段と称したが、二か月で覆されて恥ずかし。

では、なぜカスミは先生とは違って、相手への支配力を高めて爆破する手段――狂人の戦略――を取っているのだろうか。ここからは根拠の薄い推測だが、多分カスミの性質からだろう。

カスミは(立法者として)かなり周りを惹きつける、人的な魅力に溢れた人物である。この性質からすると、周りがどうなるかというと、カスミに好かれようとして振る舞うようになると予想される。仮面を被ってしまう。そうなると結果的に、周りがカスミに内面を晒すことがなくなるのだろう。相手が内面を晒してくれない、表面だけの関係の寂寥感はハナコ関連の話でも示されている。

その人にとってトリニティ総合学園は、嘘と偽りで飾り立てられた、欺瞞に満ちた空間でした。
エデン条約編「こくはく」

この相手の内面の方を知りたい、意見をぶつけ合いたいカスミの態度は、下
記の台詞に良く表れているように見える。

反対に言えば、私にどう思われるかではなく、貴方がどう感じるか、が重要
ここでの関与とは、自分自身の意見でコミットしてこいということだろう

カスミの立ち位置は一般的な「アイドル」の立ち位置にも例えられるだろう。ファンはアイドルを応援するが、マナー的にも自我を出して関係を結ぼうとすることは普通はない(反転などしない限り)。アイドルはファンに感謝するが、できるのは感謝だけで、ファンが具体的にどのような内面を持っていて、どのような人生を送っているのかを知ることはできない。心の交流という点ではどこまでも一方通行に留まる。

状況は全く違うが、距離感はどこか似ているだろう
https://www.youtube.com/watch?v=ZRtdQ81jPUQ

そのうえで、カスミはあるがままに過ごしていると――アイドルはファンとアイドルという枠に限定されていたが――カスミの場合は、身近な人物ともお互いに内面や内情を屈託なく晒すような関係を作れない状態に陥るのだろうと推測できる。その距離感をカスミが寂しいと感じたのか、つまらないと感じたのかはわからないけれども、行動から見て、少なくとも好みの距離感ではないのは間違いないだろう。

惹きつける力はもう持ってしまっているのでしょうがない。それを失くすことはカスミがカスミ自身を失うことになってしまう。そして、この周りが内面を晒してくれない状況を打破するための方法として考えついたのが、カスミらしさの延長線上で、ひきつける力を極限まで高めることなのだと思われる。その支配やたぶらかしがラインを越えることで、相手の堪忍袋の緒を切らせ、カスミに迎合してくる態度や社会的な仮面を爆破する。相手の内面を知るために。お互いに率直に意見を言える関係を求めて。これがカスミの「もう1つの温泉開発」であり、この開発の先にあるお互い対等に角を突き合わせる関係が、カスミの求める本当の「我々」なのではないだろうか。

反吐を吐くほどハナコが嫌いそうな、カスミの「我々なるもの」を作り上げる詐欺的立法が、実は目的はハナコや先生と目指すところが同じ――本音を言い合える関係――であるという結論になるのが絶妙で、ハナコとカスミの邂逅はどうなることやら。

ただカスミの絆ストーリーに関しては、太陽と北風が出合った例外的な話と見える。カスミは先生を爆破しようとするが、中途半端に終わった印象がある。それは、爆破する前から実は先生がオープンだったので、途中から北風を吹く必要がなくなったから、つまり、先生はオープンだったので爆破せずとも求めていた繋がりができたという話。EP03で「先生だからか」と言っていたのは、この多くの生徒と関係を作る故の(相性ではない)オープンさを指していたと思われる。またカスミが自身と先生の在り方の違いを「対蹠点」と呼んでいたのは「北風と太陽」の違いかなと思う。

本当の「我々」を目指して

最後に。
『Trip-Trap-Train』でのカスミの動機にとして、もう1つだけ妄想的な予想がある。『Trip-Trap-Train』とカスミの絆ストーリーはどちらが時系列的に先かは示されていない。仮に絆ストーリーが先だった場合に、1つだけある動機が思い浮かぶ。

それは、実はカスミは先生を手伝ったのではないかということ。つまり、先生と共同でイチカの呪縛を解く作業を実施したのではないかという説である。

先生は生徒たちが捕われている呪縛から逃れられるようにずっと立ち回っている。もしカスミが先生が生徒たちにどのように振る舞っているかまでも知っていれば、絆ストーリー後の関係の二人ならば、分業的に阿吽の呼吸で成し遂げた可能性も0じゃないなと思う。

特に根拠として思うのは分業的なスムーズさである。カスミがぶっ壊して、先生が立て直す。シナリオでは、滅茶苦茶スムーズに事が為されていた。

とはいえ、この説は妄想だろう。列車で出会ったときの、先生の「仲間?」という態度は、絆ストーリー後だったら、流石にカスミも傷つくだろうから。

絆ストーリー後(特にEP04後)だったら、この態度・発言はないと思う
流石に傷つくわー

妄想はおいといて、カスミと先生は「北風と太陽」。つまり、手段は違えど、目指すところは一緒である。

私達が目指すべきは「我々なるもの」ではなく、「我々」だと。


???「ああ、知ってる。」

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