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【ブルアカ】消え去る立法者と立ち上がる私【Trip-Trap-Train】

土地を囲い込んで「これは私のものだ」と言うことを思いつき、それを信じるほどに単純な人々を見出した最初の者こそ、政治社会の真の創設者であった

ルソー『人類不平等起源論』


ルソーはこの人物を「詐欺師」と呼んだ。


ブルーアーカイブのイベントシナリオ『Trip-Trap-Train』の簡単な感想・考察です。
また画像は「© NEXON Games Co., Ltd. & Yostar, Inc.」になります。
※23/10/6 色々修正

※23/10/10
下記の記事の方がちゃんと(行間も)記載しているので、先に読んでいただいた方が雰囲気が伝わるかと思われます。
またこちらの記事はイチカ寄りで、下記の記事はカスミ寄りになります。


校宝はゲヘナ行き

イチカは、ティーパーティーのナギサからの依頼で校宝「ティーパーティーの一番最初の会合で使われたティーセット」を発掘現場から届ける仕事を受ける。発掘作業はしていたものの、先生はその校宝の価値について詳しく知らず、イチカから説明を受けるのだった。

『エデン条約編』以降の話だろう。ごたごたがあった影響で、ティーパーティーの政治的な立ち場は弱くなり「救護騎士団とかシスターフッドと対等に話せず頭を悩ませて」いた。その状況下でこのティーセットは超重要な校宝だという。それは「我々は由緒正しき存在」「トリニティの祖」だとアピールできるから。

社会の始まりの思想実験の話。遊牧民時代に「ここは私の領地だ」と最初の誰かが言った。その正しさは誰が保証するのか。何をもってその所有――引いては法が認められるのか。何も根拠が無ければ、それは詐欺ではないか?

それを認めさせるには権威が必要になる。正統性――『信頼』が必要になってくる。『Trip-Trap-Train』では、その正統性の根拠が校宝のティーセットとして示され、証であるティーセットは巡っていく。その行き先はゲヘナだ。

イチカと先生はゲヘナ行きの列車に乗り込むが、ゲヘナでは「正義実行委員会」の正統性は決して認められない。またイチカと先生は「無賃乗車」という違反の元で、”手厚い”歓迎を受ける。

ところでゲヘナとは何の象徴だろうか。ハイランダー鉄道学園の生徒はこう言っていた。

ゲヘナは

またハスミは校宝について「トリニティ全体にとって大切なもの」と言っていた。権威の下に統治がなされ、秩序が成り立つ。逆に言うと、権威がなくなれば、統治がなくなり、秩序が失われる。

それは無法地帯――このシナリオではこう形容される――「地獄」である。

The good, The bad, The trinity

表題で示される「The good, The bad, The trinity」。
つまり、この世の中には3つの区別がある。「良いこと」と「悪いこと」、そして「トリニティ的なこと」だ。

「トリニティ的なこと」とは政治的な駆け引きの中で、”正しいこと”はくるくる変わるということだろう。

このシナリオで最も顕著なのが「風紀委員会」と「不良生徒たち」の関係である。ゲヘナで正統な取り締まりを担っている「風紀委員会」であるが、人数的不利な状況と、理不尽な状況に「不良生徒たち」が憤り、武力行使をちらつかせられ、立場が逆転する兆しが見受けられた。

イオリは状況下で正統性を失いつつあった。だから、先生にすがろうとする。

かわいい


絶対的に”正しいこと”はない。ある意味でこの世には詐欺師しかいないと言えるだろう。正統性は移り替わる。このことがシナリオでは正統性を指し示し、移り変われるティーセットで示唆されている。

カスミはこの詐欺性に気づいている(指名手配犯で、己の正義がある)。だから、言ってないことと言ったことの間で、道具のように”正しさ”を使いまわす。”われわれ”の文法を”私”のために使いまわせる見事な詐欺師だった。カスミのその姿は最高にトリニティしてて良い。

『Trip-Trap-Train』は、”正しさ”の根拠を巡った喜劇と言って良いだろう。

そして、絶対的な根拠は無いことを目指して、社会的な次元と並行してイチカの物語が走る。

トリップ トラップ

詐欺師によって示される法――『約束』。それは社会的な次元だけでなく、個人にも施行されている。私たちは育っていくうちに「これは良い事、これは悪い事」と知らず知らずに学んでいく。

イチカは他の正義実行委員会の面々と比べて、なるべく穏便に物事を進める生徒であった。しかし、イチカ自身がその対応について、どこか後ろ向きな発言をしているのだった。

開眼時との対比
暴れた後

イチカは自分の根本にある性格を把握している。とても情動的で、暴れる手段を取ってしまう私である。イチカはそれは社会的に良くないことであり、表に出すと(他者から)「手のかかる子」だと思われてしまうことを知っているのだろう。実際の経験の中で培った、あるいは培ってしまった世間の目という法を持っている。集団の中でこれはしてはダメだと、理性的現実的判断から、穏便にすませようとしているのではないだろうか。しかし、その判断は同時に自分の中の情動を抑えつける法になっている。他者との関わりの経験から生じた法に私は我慢させられているとも言える。

そんなイチカに揺さぶりをかけてくるのが法外系/指名手配犯のカスミである。このシナリオにおいて、カスミはイチカを執拗に煽る。十中八九、意図的だろう。最初の何回かのやり取りで、イチカは法を上手く利用するより、我慢させられているタイプだと分かるからだ。我慢しているということは、法で抑えつけられている欲動があるという証でもある。

この法を超える欲動の点で、似ていると直感してるのだろう
「こっち側の人間じゃないのか?」

法に嫌々でも従うのは社会的には「是」とされるかもしれないが、個の幸せの観点からすると、法外系のカスミが「是」と言うことはない。カスミの煽りは(行きずりのついでに)なんなら抑えつけている法から解放してやればいいという、カスミなりの”善意”だろう。

こういう法外系の存在としては、例えば『ファイトクラブ』のタイラーを連想させる。(タイラーは身内を作る目的とは違うと思いますが)

※23/10/03
完全に読み間違えてました。行きずりかつ、法から解放してやればいいと考えていたのは確かでしょうが、おそらく動機は”本当”の我々=”こっち側”を増やそうとしたからではないかと思います。カスミは「我々」という言葉をその場限りの自身のための(道具的な)共同体を作るために使いますが、”こっち側”という呼び方には、「我々」とは違う身内感を感じているのではないかと思えるからです。
それ以外にここまでイチカを挑発する理由が正直見あたらないのです。
※20/10/10 動機について、ちゃんと考察しました。


カスミは執拗にイチカを煽る。『正義実行委員会』だと恐らく知っているだろうに「お嬢さん」と子供扱いする。人生の教訓を説いてくる(うざい)。こんなこともわからないの?とどこか上から目線で協力体制を引くことを要請してくる。名前を間違える(絶対わざと)。その他数々の狼藉を行う。カリスマ性からか、ねちっこい嫌悪感は感じないが、イチカの情動を確実に煽り立てる。挙句の果てには、ティーセットを手にして、その場を支配する立法者として君臨し、状況からイチカを思い通りに動かそうとする。イチカが支配されることを嫌がらせるために。現実的に考えてここで怒ってはいけないという理性的な判断を――知らぬ間に自分に課してしまっている法を、堪忍袋の緒を切れさせて破らそうとする。

これこそがカスミの仕掛けたトラップなんだ。法外に誘うトラップ。イチカに撃たれた時、カスミは内心ほくそ笑んでいたに違いない。どっちに転ぶにしろ、脱出の手筈は整っていたのだから。(撃たれたあと、倒れる際の表情に注目してほしい)

ティーセットは壊れた。法は破られた。法は抑えつけるものであったと同時にまた秩序をもたらすものであった。その秩序は消えた。つまり、

あとは、イチカが思うがままに暴れるだけ。

『Trip』には「旅行」と、ドラッグなどによる享楽的法外的な陶酔感である「トリップ」がかかっている。
カスミが仕掛けたのは文字通りの「トリップトラップ」だったのだ。

立ち上げる先生、立ち上がる私

カスミにとって予想外だったのは先生の存在と、その対応だったのはないかと思われる。事が終わってみると、カスミは先生の欲望を手伝っただけになったのだから。ただカスミにとっては、イチカを解放したのは行きずりのついでぐらいだろうから、どうでもいいのだろうけど。

法は破られた。しかし、壊れたティーセットを見てナギサは言う。

(ちなみに「紛失」している=「排除」されている人は精神病の主体となってしまう)


先生がイチカにした対応も同じく、法の復元であった。

イチカはそれまで社会的に良くないという理由で自身を抑えていた。そこには他者による法とそれに従う私という二者しかいなかった。

先生はそこに一人書き込む。

イチカは確かに抑えていたが、それはイチカ自身も良くないと思って抑えていた、つまり、イチカ自身が同意して抑えていたということだ。他者からただ押し付けられたのではなく、自分で同意して、自分もそうすべきだと思って従った。それは己で選んだこと、だと。イチカは自分の意志で抑えつけていた。そしてその結果は努力のたまものであると。先生は、イチカの立法者としてのイチカの存在を指摘したんだ。

先生の欲望。それは生徒自身が、自身の立法者になること。絶対的な正しさはない。しかし、自分の正しさは自分で持つべきだということ。先生の、この態度は一貫している。

厳密な正統性の観点だけを見ると、他者による、どのような法にも絶対的な正統性は見つかることはない。法が持つ効力から、その法に私が従う打算的現実的な判断はあっても(神様の言葉でもない限り)絶対に従うべきという正統性は見つからない。

”私”がまず従うべきなのは、”われわれ”という論法を用いてくる――カスミはよく使っていた――社会のため法ではなく、自分で立てた法、自身の価値判断だということだろう(もちろん、ただ反発するのではなく、同意するかどうかも含めて)。「我慢させられている」ままにいるのではなく、そういう現実を加味した上で、私が私の判断で「これは我慢する」、あるいは部分的に他者から課せられる法を犯していようとも「あれは我慢しない」と自分で言えるようになること。

社会の次元の善と個人の善は区別せねばならない。周りにあれこれ言われて従ったとしても、一定の社会的評価はもらえても、周りの人たちは君の人生に対して何も責任を取ってくれない。最後は、自分の人生に責任を持つべきは自分であり、自分で判断すべきということなのだろう。その”正しさ”の根拠は自分自身の中にある。


「復讐して良い」わけではない。「私は復讐する」という選択をするだけ。
『ジョジョの奇妙な冒険』©荒木飛呂彦 集英社


このシナリオにおいて、カスミはイチカから他者との関わりの経験から生じた法を引き剥がすまでの過程を(結果的に)手伝ったに過ぎない。

しかし、先生がいなかったらと思うと……。カスミは行きずりのついでに囚人タイプを増やしていきそうで、法治社会における危険性が垣間見える。個人的にブルアカ界の「タイラー」と呼ぼう。くっそイケメンだしな。

カスミと先生の対比

一言だけカスミの絆ストーリーに触れる。カスミは先生のことを自身と「対極」と呼んでいた。

これは、上の(詐欺師の)法を引き剝がすまでだけのカスミと、生徒が自身を立法者とするところまでサポートする先生という対比もあるけど、カスミや先生自身が立法者としてどう立ち回るか、の立ち位置の話だろう。

カスミはカリスマ性あふれる強烈な立法者である。周りを巻き込んでしまうほどに。一方で先生は立法者としては決して立たない。この対比ではないかと思う。

しかし、シナリオにおいては、先生がいる側が常に正統性の証になっちゃうよなー。


以上、やっぱりブルアカのシナリオ、濃厚で面白い。




参考1:「消え去る立法者」について

参考2:カスミの絆ストーリーの配信。(名取さんの反応を含めて)カスミの立法者っぷり、人たらしっぷりが見れて良い。


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