瞑想中に現れ去るもの:私は「場」


瞑想をして体を観察していると・・・

細胞の集合体な自分

を感じる。


ああ、ホルモンの爆撃を受ける my 細胞s

大丈夫かい?

なるべくいい感情のホルモンを浴びせてあげたいなぁ。


でも、誰が?

誰が、浴びせてあげるの?


そんな疑問が浮かぶ。


私がだよ、私が。

私が何を「どう感じるか」決めるんだよ。

幸せや感謝を感じれば、my 細胞s は常にいいホルモンに触れて元気でいられると思うんだよね。

体の王様として、何を感じるかみんなのためにいいものを選ばなきゃ。


でもさ、この思考も電気信号じゃない?

私という個体の思念みたいなのはないんだよね。

ビリビリ電気が走っててそこから浮かび上がって流れていくものじゃない?

じゃあ、体の王様である「私」っていう実体なんてないよねぇ。


じゃ、この「私」という認識をする電気信号は誰が出してるのかなー?


私 じゃないなら

私 じゃないなら

私 じゃないなら


私に

コントロールできないよね。

コントロールしてるって

錯覚はできるけど。


じゃあ、脳の信号も

浮かび上がるなんだか自我ってものも

my 細胞s も

っていうか、my なのか?


私の、なのか?


まあいいや。


委ねよう。


私のボディに起きていること

私が私だと思っている境界線の内側で起きていること

眺めるしかないじゃないか


次に何が起きるのか

感謝の気持ちであろうと

ネガティブな何かであろうと

それはコントロールできないのだ


なんて気になってくる。


すると、理性がささやく。


ちょいとお待ちなさい。
それ、自分の悪いとこも
仕方ないんだ
コントロールできないんだもんって
そんな風になっちゃうよ?!

そんなのダメ!


コントロールせよ


ああ、そんな思考が浮かんでるなって眺めています。


でも、やがて静かになる。


完全に手放したら何がやってくるのかな


完全に委ねて手放した先に

やってくるものは


ずっとここにあったものだと感じる。

言葉にならないなにか。

あ、これをほとんど見ないでいたのか。今まで。

ぜんぶここにあったのに。


しかし残念だという気すら起きないのだ。


そしてまたエゴ?が顔を出す。


だめよ、しっかりしなさい。
きちんとしなさい。


どうぞ、それもまた現れるがままに。

私は「場」なのだから。


みたいな感じで自分を観察しているこの頃です。

ずーっと瞑想した状態で暮らす感じですね。

はずれちゃう時間もあるんですが。

この「観察」をじっと座ってするんじゃなく、日常的に基本的にずーっとやっていることで、変わったことがあります。


それは「感情的な反応」。

特に、子供への接し方がかなり変わったと夫に言われました。

かなり、と言ってもわかりやすい「これ!」じゃなくて、雰囲気が、ということです。


それは私にも自覚が少しあって、

子供への反応の多くが「思い込み」によるものだと気づいたのですね。


例えば、娘が言い出したんです。

「ママ、お兄ちゃんはママのお腹にしばらくいて、そして生まれたんだよね?」

「うんそうね」

「じゃあ、どうしてアレルギーなの?」

ありゃー、厳しい一言。
息子をアレルギー体質に産んじゃったこと気にしてたのに・・・
いら。とするとこだよね、ここ。

いら。

え?
私、本当はいらって感じてなかったよね。
最初に、「いら。とするとこだよね」と考えてそれから「いら」としたよね。

ふぉぉぉぉ、思い込みのパターンで反応してるだけじゃん。

と、見えちゃうので

「さあ〜、なんでだろうね〜」

と穏やかな声で返事ができたりするのです。


息子が姿勢悪くパソコンしているのを見て「背筋をまっすぐに!」って声をかける時、自分の中に不安があるのも見えます。

彼の将来を心配しているわけです。

不安ベースから声をかけてんのかー。
じゃ、違うベースから声をかけたらどうなるかなー。

とりあえず、今は放置しといてみるかー。

って放置していたら、いつのまにか背筋が伸びている!

「おー、ママはなんかうれしい。君のルックスと健康が良い方に向かってる気がしてうれしい」

と、声をかけてしまった。

だって、そう感じていたし、なんか伝えたかったから。


私という「場」にうつる景色を眺めっぱなしなのは、久しぶり。

忘れてたなー。これ。

しばらく。

また忘れるかもなぁ。

でもま、いっか。

眺められるだけ、眺めていよう、なう。




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