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清岡卓行「ミロのヴィーナス」で何を教えるか(「国語の授業は意味がない」になる仕組み)

 教材「を」教える授業の在り方から、教材「で」教える授業に変えていきましょうという話を、清岡卓行「ミロのヴィーナス(手の変幻)」の授業の紹介と共にお話していきます。
 教員や高校生のほか、教育実習を予定している大学生の方にも読んで頂きたい記事です。

国語科の「課題」

 少し堅苦しい引用からはじめます。平成30年公示の学習指導要領で示された、国語科の「課題」の一つです。

高等学校では、教材への依存度が高く、主体的な言語活動が軽視され、依然として講義調の伝達型授業に偏っている傾向があり、授業改善に取り組む必要がある。

 相変わらず読みづらい文章ですが、この箇所は噛み砕くまでもなく、教室での場面が具体的に想像しやすいのではないでしょうか。特に注目したいのは「教材への依存度」という文言です。

 現代文で夏目漱石『こころ』を扱っていて、先生が50分かけて「その先生の解釈」を講釈する。生徒たちはそれを考査に出る「正しい答え」として覚えようと、一生懸命に板書をノートへ書き写す。日常の家庭学習時間は他教科に比べて短く、テスト前によくある質問は「先生、国語ってどうやって勉強すればいいんですか?」……。
 つまり、国語の授業が、「担当教員の解釈を暗記する科目」と化してしまっている現状があるわけです(今に始まった指摘ではないのですが)。結果、教材を通して何か身につけるわけではなく、教材「を」覚えるだけの授業に終始してしまうことになります。そして皮肉なことにこの方法で授業をする以上、授業をする当の教員も、同科目を一緒に担当している教員と「正しい」答えを共有するために、「指導書」に頼ることになります。その結果、さらに教材への依存度が高まるという悪循環に陥る。このような考査のための国語を「暗記国語」と私に呼んでいます。

 この「暗記国語」はその授業、その考察内での評価であれば問題なく済みますが、応用性がありません。したがって当然、外部のテストや模試、そして大学受験ときわめて相性が悪く、「学校(読んだことのある文章)のテストは出来ても、模試(実戦問題)になると全然手が出ない」という事態になります。そうした生徒たちは、学力テストによる大学入試を極度に恐れてしまい、学校の成績を高く維持することに専念して、学校推薦型選抜(指定校推薦)を狙う傾向にあります。
 また一方で学力テストによる入試を考えている生徒にとっては、授業で学んだ内容が学内の評価以外では役に立たないことに不満を覚えます。
 その結果、「学校の国語の授業なんて受けても意味がない」という批判が生まれることになります。これが、今日まで国語の授業が「要らない」「役に立たない」と学び手に言われ続けてきた理屈だと思います。

 象徴的な話があります。大学生に「高校の数学では何を習った?」と聞くと、「三角関数」とか「微分・積分」といった単元名で答えてもらえるのですが、「高校の国語では何を習った?」と聞くと、「『羅生門』」とか「『こころ』」といった教材名で答えがかえってくるのです。

 高等学校に限らず、中学校でもこうした「暗記国語」の授業は日本中に蔓延しています。こうした授業のあり方の全てが悪いとは言いません。しかし、この手の教材依存型授業の実践者は、自分が行っている授業で当然想定できるはずの欠点や課題について無自覚であることが殆どです(おそらくその教員自身も、自分が生徒だったときに同じような授業を受けてきたことが原因だと思われます。ただしこれは原因とはなっても、言い訳にはなりません)。

 極端に言えば、考査は初読の文章で出題して、授業で身につけた力を問うスタイルでも良いわけです。授業で扱った文章を考査で問うのは慣習であって、本来は積極的意義を見出した上で採用するスタイルのはずです。

 こうした現状が、「課題」として新学習指導要領に載るに至ったことは、極めて恥ずべきことだと言わざるを得ません。大学入試改革や新設置科目まで様々に批判を浴びている新学習指導要領ですが、私はこの点に関しては深く同意します。そして、何とかしなきゃいけないと強く思います。新指導要領が300ページ近い「解説」の中で指導事項を具体的かつ細かく指示するという前例のない様相を呈しているのは、ある種、現場の教員に対する不信が反映されていると見て良いでしょう。

 教材「を」教えるのではなく、教材「で」教えるにシフトする

 国語科の教員免許を取得した人間ならば、そんなに難しい話ではないはずです。

清岡卓行「ミロのヴィーナス」の場合

 高校2年生1学期でよく扱われる清岡卓行「ミロのヴィーナス」ではどうでしょうか(ここからは、本文を一緒にご覧頂いたほうが宜しいかと思います)。この「評論文」は、書かれてあることがどういう意味かの説明に終止してしまう授業に陥りがちな教材の一つです。そこで、やはり「この教材で何を教えるか」という指導内容を明確化しておきたいわけです。
 まず、教科書の発問を手がかりとしたいと思います。例えば三省堂『精選現代文B(現B324)では、本文の後ろの「学習の手引き」で次のような問いかけがなされています。

 一 この文章は三つの部分に分かれている。それぞれの要旨をまとめてみよう。
 二 次の表現はどのようなことをいっているか。わかりやすく説明してみよう。
 ①部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫
 ②表現における量の変化ではなくて、質の変化である
 ③手というものの、人間存在における象徴的な意味
 三 「ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。」とはどういうことか、筆者の考えをまとめてみよう。
                       (頁数・行数は除いた)

 これを見ると、一は文章全体の構成の把握と、要旨をまとめる活動。二と三は内容説明、とくに抽象的な内容を説明するというものです。
 そうすると、ミロのヴィーナスは「具体」とか「抽象」といったものを教えるのに適した教材であるように見えます。本文でも、「具象」や「全体性」といった言葉が用いられています。

 ところが、このことが事を複雑にします。というのも、「具体と抽象」を教材で指導するテーマとして設定すると、①「本文内で用いられている語句の意味」と、②「文章の構造を指す用語という意味」の異なる2つのレイヤーを同時に扱うことになってしまい、生徒が混乱する可能性があります。そのため、「具体と抽象」といった読み解き方を指導するには少し難しい(ややこしい)教材ということになります。この教材の難しさはまさにこの点にあるわけです。

 では、どうすれば良いでしょうか。本文と発問をもう少し丁寧に見てみると、二も三もその解答プロセスの中に「言い換え(換言)」が含まれる点で共通しています。順番に説明します。

二 「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫」

これは、次のように文の要素を3つ取り出して、それぞれ本文中の別の言葉で言い換えることで理解する方法が有効です。

①「部分的な具象」=両腕

②「ある全体性」=普遍的な美

③「偶然の肉迫」=巧まざる跳躍

これらを整えると、「(ミロのヴィーナスの)両腕が失われたことによる、普遍的な美への巧まざる跳躍。(27文字)」という説明が可能になるわけです。「二」に傍線部を引いて30文字で換言させる問題が作れるわけですね。

三 「ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。」

 「その欠落」という指示内容が「両腕」を指すことはすぐに判断できます。難しいのは後半で、「逆に、」のロジックを理解すること、「可能なあらゆる手への夢を奏でる」を言い換えることです。

 「逆に」という表現は、つい「逆説」を用いて説明したくなりますが、本文中に「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない」と断られています(実際に指導書も「逆説」と「逆接」の意味の違いを指導するといった記述に落ち着いています)。
 ここは、先にある「ほかならぬ」を踏まえ合わせて、「~~からこそ」の表現を使って説明することにします。

「逆に」=「両腕が無いからこそ、両腕を想像(暗示)させる」

「可能なあらゆる手への夢を奏でる」の箇所は少しステップをあげて、本文中の言い換え表現を探すだけでなく自分の言葉も用いて言い換える必要があります。

①「可能なあらゆる」=(想定できる、想像しうる)様々な、

②「手」=自己や他者、世界との交渉の手段(自己や他者、世界との交渉を媒介する原初的な方式)

③「夢を奏でる」=暗示する、想像させる、感じさせる等

 これらを整えて、「ミロのヴィーナスは両腕が失われたからこそ、手というものが人間存在において象徴する自己や他者、世界との交渉の手段を様々に想像させる。(65字)」の説明が完成します。選択肢で問うか、頑張る学校なら記述で、といったところでしょうか。
 ※ちなみに、指導書にはもっと踏み込んだ模範解答が示されていますし、付属問題の解答も同様ですが、あんな解答ができるようになるほどの指導力は私にはありませんので、ここでは身の程にあった難度で調整しています。

他の箇所の言い換え

 このように、本文の中核的な問いが生まれる箇所において、その解答プロセスに「言い換え(換言)」の知識及び技能が必要となることがわかります。これを、この教材を通して教えたいこととして設定する。そうすれば、「書かれてあることを説明することに終始する授業」においてまさに教師がしている説明を生徒自身に取り組ませることで、授業で身につける力とすることできます

 本文ではこの他にも「言い換え」を問うのに有効な表現が多くあります。

「特殊から普遍への巧まざる跳躍」
「生命の多様な可能性の夢」
「おびただしい夢をはらんでいる無」
「限定されてあるところのなんらかの有」
「生命の変幻自在な輝き」など

 こうした教材研究を経たならば、教員は「今日からミロのヴィーナスっていう評論を読みます」ではなく、「今日からミロのヴィーナスという評論文を通して、皆さんに言い換え表現の読み解き方を学んでもらいます」と導入できるのです。

おわりに

 今回は「ミロのヴィーナス」を例に、指導事項を念頭に置いた授業構想の一部をご紹介しました。逃げ口上のようですが、今回の記事はあくまで一例であって「『ミロのヴィーナス』は『言い換え』の単元として扱え」という趣旨では全くありません。本文には指示語が多くあるので、それを教えても構いませんし、学習の手引きの「一」を拾って、文章の要旨をまとめる活動を中心に据えても良い。また当然、「具体と抽象」を説明する教材として扱ってもよいわけです。大事なのは、教材を通して指導する内容を明確化するという教材研究の在り方です。

 おわりに、私がこの教材を扱った最後にする発問をご紹介しておきます。わりと熱心に考えてくれる生徒が多いです。

問:この「ミロのヴィーナス」は、ある別の教科書では「手の変幻」というタイトルで掲載されています。あなたは、タイトルとして適しているのはどちらだと思いますか。理由もあわせて答えて下さい。

もしお役に立てたならば、サポートいただけると嬉しく思います。コーヒーを飲んで一服したいと思います。