虫目線

室内に植木鉢を置いてから、小さな黒いものが目に入るようになり、
数ミリしかない小さな体躯をふわふわと運ばせている生き物は どうして果敢にこちらに向かってくるのだろうと不思議に思いながらも、
パチンパチンと手を叩くたび その命は簡単に息絶えます。
それでもまた新たな命がこちらに向かってきます。

作業に集中していると、ピントが合わないほど至近距離に近づいてくるコバエたちにわたしは苛立ちます。
憤慨し手を大きく払うと、小さなそれは瞬く間に風の渦に飲み込まれます。


「向こうの方が怖がってるわ」

小学生の頃、部屋の隅でクモを見つけて騒いでいたわたしに、叔父はそう言い放ち、ムッとしながらも言い返せなかったことを覚えています。

確かに、クモからすれば わたしの大きさは数千倍の巨体で、その目の前の巨体を見上げる恐ろしさは進撃の巨人さながらでしょう。
その巨体は自分をロックオンし、なにやらこちらを見て叫んでいる。
怖すぎる。想像を絶するほどの体験です。
叔父の一言でその時初めて、わたしは「虫目線」で世界を捉えました。

ドイツの生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した「環世界」という言葉は、現代であらゆる場面で使用されるようになりました。
'すべての生物は自分の知覚によって世界を理解している'という環世界の考え方は、自分の経験からも容易に腑に落とし込むことができます。


人間は目で見る視覚優位の生物ですが、コバエはどうなのでしょう。
コバエの'眼'は複眼で、小さな目のレンズが集合されて構成されています。
それにより、視野が広くなり、動きを敏感に読み取ることができ、光の向きを感知できるそうです。
人間の目も横に2つ並んでいますが、仮に片目をつぶってみると視野が狭まり、遠近もわからなくなったりします。
片目を遮断して不便さを味わうことで、逆に眼がたくさんあると便利そうなことを想像することはできますが、
あいにく2つの目玉だけでは本当に複眼を経験することはできません。

眼がたくさんあるだけではなく、コバエは空を飛べる羽も持っています。
高速移動を可能にするハイスペックな眼、あるいは動体視力を活かすことのできる空飛ぶ羽、両者が揃うことで双方の能力が活きていることも実感として理解できます。


そんな超すごい眼や羽という器官を持っているコバエも、わたしの大きな手には歯が立ちません。
何も思わないこともないですが、わたしはほぼためらいなく手を叩きコバエの命を断ちます。
そうやって命が簡単につきることで、部屋にはたくさんの生と死が混ざっていきます。

能力を自分と比較して想像することはできても、彼らが何を思っているのかを想像することは容易ではありません。
飛んで火に入る夏の虫、ということわざがあるように、わたしからみると、彼らは儚い時間の中で、生まれ、食べて、飛んで、産んで、忙しく果敢に生きているように見えます。
けれど、こうやって彼らがどう思っているのかを考えることはすべて、わたしの体の器官が持つ能力や寿命の平均値と比較して、主体的に感じることです。
客観的に彼らの知覚や思考を感じることはできません。
わたしにとって儚い期間に見える生命も、彼らにとっては十分な時間かもしれない。ただたくさんの「かもしれない」を思い浮かべてはみるものの、
コバエの思考という未知の領域に足を踏み入れる手段はありません。


秋が来る頃には、彼らは活動を緩め、地中に卵を産み、そして次の夏が来るまでじっとしているのでしょう。
わたしも彼らのことは忘れ、また来年に同じように思い出し、互いに生きるのかもしれません。
わたしとコバエの共存(と言っていいのかわからないけれど)は、今年3年目になり、そしてこうやって、互いの領域を覗いたり覗かれたりする豊かさを、意外と楽しんでいる自分に気がつきました。(コバエからするとたまったもんじゃないでしょうが)


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