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「大衆の反逆」、リコリス・リコイルに見る時代精神、そしてこれからの人間

この記事は、筑波大学人文・文化学群 Advent Calendar 2022 の22日目の記事です。

この記事はTVアニメ「リコリス・リコイル」「PSYCHO-PASS」のネタバレを含みます。

はじめに

知り合いが人文のアドカレを作ったというので参加させてもらうことにした。話題としては私が愛読してる名著、オルテガの「大衆の反逆」をここで一度かいつまんで復習し、その後、令和の時代精神を色濃く反映し、キャラクター造形と緻密な関係性描写で話題を呼んだTVアニメ「リコリス・リコイル」を取り上げながら現代人の「大きな物語」に対する精神構造を考えていく、というものにする。

大衆の反逆、大衆と貴族的生き方

みんな大好き「大衆の反逆(ちくま学芸文庫)」において、大衆と貴族がどのように対比されているかを書いていこうと思う。
まず、貴族についてはこのように表現されている。貴族は「常に自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度を持っている勇敢な生」を持ち、「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自ら進んでそれに奉仕するというやむにやまれぬ必然性をうちに持っている」。一方の大衆は「生きることにいかなる制約も見出すことはなく、その完全で自由な生を生まれながらに確立したものとして自らに見出し、権利としての凡庸さを宣言し、強行している」とされている。
大衆のあり方は、自分には権利が自動的かつ受動的に付与されており、自分にはなんの枷もかけられていないと信じ、いかなる規範も持たず自己の能力を疑うこともしない。他者と同質であることに安堵し自由に思考し発想するものを引きずり降ろそうとするというものだ。このあたりの説明は「大衆の反逆」の解説でいくらでも出てくるのであまり詳しく述べなくても良いかもしれない。いずれにせよ、本著では貴族的生き方を推奨しており、私もそれに賛同する立場であることを記しておく。

政治的直接行動

オルテガは「大衆の反逆」の中で「直接行動」を戒めている。共存を拒否し相手との議論を避け、暴力的な方法で自己閉塞的な思想を唱えて社会的な生パブリックライフに介入することはバカげたことだとしてる。また、議論に際し、次のように述べている。

「思想を持ちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意を整える必要がある。思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とか言ってみても無意味である。そうした規則こそ文化の原理なのである。」

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」(ちくま学芸文庫)


つまり、議論や政治を行うにあたっては守るべきルールを遵守せよ、さもなくばそこで述べられる思想や意見は無意味になるということだ。近頃、インターネットを見ると「議論よりビラマキや学生運動などの直接行動によって政治を動かそう」という類の主張を見かけるような気がする。そういう時期なのはわかるのだが、政治を行うというのは、対立する相手の主張とこちらの主張の相違点と一致点を探り妥協するポイントを探るというような、非常に静的で手間のかかる営為だということが忘れられているように思われる。

「自由主義とは敵との共存、そればかりかか弱い敵との共存の決意を表明する。人間がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到達したのは信じがたいことである。敵と共存する!反対者と共に政治を行う!かかる愛はもはや理解され得ないものになり始めているのではないだろうか。」

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」(ちくま学芸文庫)

この一文は、私が本著の中で最も印象深いフレーズである。学部一年生の時分に「政治学概論」の講義を必修として取り、その講義の初回で「民主主義の本質は【対立】です。」と先生が述べられたことがある。政治を行い、人々が共存するということは、すなわち自分とは異なるバックブランド、異なる意見・主張を持つ者同士が方針を擦り合わせるということにほかなら無い。その醜悪で面倒な行いを成立させるための基本原則というものを忘却して、果たして何が議論だろうか。我々が自由主義国家に生きている以上、そこでの政治のルールというものは遵守されるべきはないだろうか。

リコリス・リコイルと令和の時代精神

リコリス・リコイルという2022年夏に放送されたアニメがある。リコリス・リコイルとは、近未来日本における秘密組織DA(Direct Attack)に所属する暗殺エージェントである女子高生「リコリス」が、社会の暗部を銃によってもみ消しているというディストピアコメディーだ。これについては以前書いた記事があるのでついでに読んでいただきたい。

私が特に注目したのは、リコリス・リコイルにみる令和の時代精神についてである。リコリス・リコイルのディストピア社会では、「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」というフレーズがあるように、あらゆる事件はDA率いるリコリスに隠蔽されてしまう。しかし、作中の登場人物がそのことに言及するシーンは少ない。それどころか「それも仕方ない」「それでも日々を生きていく」というメッセージが随所に散りばめられているという有様だ。例えば作中に登場する刑事がリコリスと話すシーンが有る。この刑事は会話している相手がリコリスとは知らずに接しているのだが、その後「ああいう子が安心して暮らせるなら誰が何を隠蔽してようがなんだっていいだろ」というセリフを残している。真実が隠蔽されてしまうようなディストピア社会を良しとしている、体制に疑問を持つより足元のつながりを大事にする方が良いとする態度が垣間見える。

ここから見える「陰謀や悲劇と言った『大きな物語』について考えるより、地道に日々小さなしあわせを感じていこう」というスルーの精神は極めて現代的、というより「令和的」であるという感想を持った。平成のアニメであれば「体制に立ち向かう、社会のあり方を問い直す」という文脈を持ったところであろう。実際に平成に放送されたTVアニメ「PSYCHO-PASS」では、主人公がディストピア体制の親玉に向けて堂々と反対の意思を示す場面がある。こうした部分はおそらく時代の空気を強く反映している部分だろうと私は考えている(実際に監督のインタビューでそのように述べている部分がある)。社会や政治、ディストピア体制の是非といった「外側」の話をするより、小さな仲間うちでボードゲームをしたり絆を深めるという話の方が今の視聴者にはリアリティを持って受け入れられるのだろうか。政治や社会のあり方を語る大きな物語を避け、仲間内でつながりを深めることでサバイブしていこうという態度を「マイクロ共同体」と呼称したインターネット論客もいるらしい。これについて次章で扱う。

これからの人間

大衆の反逆とリコリス・リコイル、この一見何ら関係の無さそうな要素をあえて並列して話を進めてきた。最後に、ここまでの議論を踏まえてこれからの人間像を少し考えてみたいと思う。
大衆の反逆では、自律した思考を持たず同質化を好み、議論というものができない大衆が厳しく批判されている。しかし、リコリス・リコイルに見る令和の時代精神というものは、外側の大きな物語を喪失し、「マイクロ共同体」を志向する動きが加速している。マイクロ共同体は同質な少数の仲間とのスモールなつながりというスタイルを取る生き方であるが、私は、これは大きな物語、例えば少子高齢化や防衛などといった国家全体に係る課題に対する意識を共同体ごとに共有することが難しくなるあり方ではないかと考えている。自律した人間によるぶつかり合いの議論、他者との擦り合わせ、共通の大きな課題に対処するといった面倒な政治ごとに対する無関心というのは、オルテガのいうところの「大衆的」なあり方にほかならない。我々はどこに向かっていくのだろうか?

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