「私の正義は、誰かの悪」 〜ゲームゲノム「NieR:Automata」の回に学ぶ〜

ゲームゲノム「NieR:Automata」の回が、とても良かった✨

神ゲーと呼ばれる作品には、深い哲学や、プレイヤーの心を動かす何かが宿ってる。

今回のテーマは「罪と罰」。

ざっくり言うと、『「敵を倒して、めでたしめでたし」って、本当にそれでいいの?』という問いだし、

それを突き詰めると「私の正義は、誰かの悪になりうる」ということだと思う。

番組の中で、いくつか名言が出たので、それらを味わいたい。

罪に対する「罰」と「赦し」

「自分の行い(罪)に対して、罰を受けることもある。しかし、誰かに何かをしてあげることで、それが自分に対しての"赦し"になったりもする。」

「贖罪(しょくざい)」という言葉があるが、罪を犯すと、人はその罪悪感から、罪を償おうとする。

人へ利他的な振舞いをすることで、少し気持ちが軽くなったように感じる。(赦し)

それって、自分の気持ちを軽くしたいだけの利己的な行為で、真に利他的な行為とは、言えないのではないかとか。

すごくキリスト教的な世界観だなーと。

罪深さに自覚的であるということ。

「僕たちゲームクリエイターは、人間の欲望を使って、お金儲けをしてるって意味では、汚れた存在だなって。(中略)
罪深さに自覚的である、ってことは、大事にしようかなって、いつも思ってます。」

さっき、「人間は罪を犯したら、その罪悪感から、罪を償おうとする」って書いたけど、それには前提条件があって、「自分で罪を自覚してること」なんだよね。

今回の記事タイトル「私の正義は、誰かの悪」に繋がるけど、無自覚に誰かを傷つけてないか、常に自分に問い続ける姿勢は大事だなと感じた。

特に、個性や多様性を尊重する社会になればなるほどね💡

ゲームとは、プレイ体験を通じて、プレイヤー自身が感情を育てる行為。

これは全部のゲーム、すべての出来事に言えることなんだけど、

ゲームは、どこまでいってもプレイヤーが主人公だし、プレイヤーの選択に委ねられるんだよね。

ゲームでのプレイ体験が、プレイヤーにどんな感情の動きをもたらすのかは、人の数だけ存在する。

また、1人の人間が、多くの時間、そのゲームをやり込んで、世界観にのめり込んで、没頭したら、

多分そのプレイ体験が、感情と結びつき、手放しがたいものとなるだろう。(たとえば、セーブデータが消えるなど)

「なにかに時間やエネルギーを割く」ということは、自分が、その何かに対しての「感情を育てる行為」をしていることなのかなーなんて考えたりしました。

抽象化・メタ認知の視点で、色々俯瞰してみると、面白い発見があるね💡

ではまた!

しゅんたろう

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