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第二十二回「寸志さん、「桃太郎」は昭和の落語黄金期テイストでやりたいの、の巻(寸志滑稽噺百席其の二十)」

杉江松恋(以下、杉江) 次は第二十一回ですね。このときは「桃太郎」「悋気の火の玉」「三方一両損」です。ネタおろしはどれですか。
立川寸志(以下、寸志) 「悋気の火の玉」ですね。形としては(八代目桂)文楽師匠の形そのままをやらしてもらってる感じです。やはり雰囲気が大事な噺ですから。
杉江 ほう。では「悋気の火の玉」から伺いましょうか。

■「悋気の火の玉」

【噺のあらすじ】
旦那が脇に拵えたお妾さんと本妻の間で嫉妬の炎が燃え上がる。それが祟ったのか、ついには二人とも儚くなってしまった。ねんごろに弔いを済ませたが後、旦那は奇妙な噂を耳にする。

寸志 良い噺ですよね。寄席っぽくて、さらにシンプルでいいと。この噺で難しいのは、女将さんとお妾さんが、お互い言ってることをエスカレートさせてくところだと思います。八代目の桂文楽師匠は、「五寸釘持っといでー!」みたいなすごく高い声まで行くでしょう。ああいうところが難しい。でもって、爆笑を呼ぶ噺でもないんですよ。これをやったのは、六月か。まあ、夏に向けて人魂の出る怪談っぽいものをという意識もちょっとあったのかもしれませんね。この後はほとんどやってないです。自分のネタおろしの会で、もう一回ぐらいやっただけかな。
杉江 正直な話、「悋気の火の玉」と「おすわどん」だったら「おすわどん」やるでしょ。あっちのほうが儲かるというか、笑わせられるし。
寸志 そうですね。「おすわどん」のほうが儲かります。「悋気の火の玉」は間に挟まってやるものだと思いますね。邪魔にならない代わり得もしない。でもいい雰囲気は漂わせることができる。「三年目」はうちの師匠の得意ネタですけど、それよりはこっちのほうがやれる場所が多いかもしれません。「三年目」も「おすわどん」と同じ構造なんですが。
杉江 怪談話で引っ張っていって最後でどっと笑わせるという。三つの噺の中で、いちばん笑いが来るのは「おすわどん」かな。
寸志 「おすわどん」でしょう。あれはまさしく緊張の緩和ですから。
杉江 ですね。次が「三年目」か。「悋気の火の玉」は笑わせるというより、ふっと気が抜けて終わり、みたいな感じですもの。
寸志 火の玉がビューンと飛んできたのに旦那が煙草の火を頼んでね。あの、火の玉で煙管の火を点けるという部分が、なかなかおかしみがあるっていうかな。そのおかしみは落語的だなととても思います。
杉江 この噺のときも、寸志さんは地図というか場所の話を振りましたね。
寸志 これはどこだったかな。奥様の火の玉は花川戸から大恩寺っていうところの上空を通って根岸のほうに向かう、お妾さんの火の玉はその逆に向かうというわけですから、少しでもリアルに感じてもらうためにそういう話はしましたね。で、大恩寺の前のあたりが当時いかに暗くて寂しかったか、みたいな話もしました。そのあたりで二つの火の玉がぶつかる。見物人は直接出さないけど、人が集まってるということで番頭が店の宣伝をするとか、そういうくすぐりは入れました。本来はあそこね、旦那と同行するのは番頭じゃなくて、知り合いのお坊さんなんですよ。でも、それだと何となく陰々滅々とした話になるので、お坊さんはやめたんです。もっと軽いくすぐりのジャブは入れてったほうが明るくなっていいなと思ったから。
杉江 坊さんを出すのは因縁譚めいた雰囲気にしたいからなんですかね。この噺は、演じる上でのポイントみたいなものはあるんですか。
寸志 さっきも言いましたけども、女将さんとお妾さんの恨み合戦がエスカレートしていくところでしょうか。あまり真剣にやっちゃうと嫌な感じになるし、笑いも取らないといけないけど、エスカレートさせていきながら、二人が違う感じだというのを出さなきゃいけない。そこで見せた、奥様と妾の違いというのが火の玉のときの動きの違いに出てくるわけですから、それがあってのちの笑いにつながるんですよね。火の玉になってもお妾さんのほうはかわいくて「今なにかい。片目をつぶってウインクしたかい」みたいなくすぐりを入れられる。で、奥様のほうはゴワーッて飛んできて「こっち睨んだね、今」と。その対比の仕込みになるような人物の描き方が難しいし、ポイントだと思います。

■「桃太郎」

【噺のあらすじ】
寝物語にお伽噺でも語ってやると昔のこどもはすぐにことんと眠りに就いたものだが、今はそうはいかない。親父が「桃太郎」を語ると、幼いせがれがいろいろと注文をつけてきた。

寸志 「桃太郎」ねえ。なんでここでやったんでしょうねえ。
杉江 いや、そう言われても困ります。
寸志 よく、落語家にこどもが生まれると桃太郎をやる、みたいな話があるじゃないですか。(古今亭)志ん生師匠にこどもが生まれたときに「桃太郎」ばっかやってた、みたいな逸話ね。全然子ども生まれてないですよ、うちは。「桃太郎」は前座のころからやってますね。師匠に上げてもらってます。初演から変えたところもあります。本来の「桃太郎」ってまず昔のこどもをやりますよね。「そろそろ寝なさい」って言われて布団に入って、「今からおとっつぁんが昔話してやるからな。昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」って、すうっと寝ちまう。「おい、もう寝てるのか。こどもなんて罪のないもんだ」。ここで素に戻って、これが昔の子どもでございますが、今はそうはいかないもんで、というのを前段の別エピソードにしてやりますが、僕はそれを止めて同じ子でやっています。
杉江 ああ、後半に出てくる賢い子に。
寸志 ええ、ひとりの子にしました。「早く寝ろ、おめえ。いいから」って親父が「ドンブラコッコ、ドンブラコッコ」と昔話を始める。で、「寝ちまったか。子どもなんて罪のないもんだ」と言うと、こどもは目をぱっちり開いて「おとっつぁん」「お、おおっ、なんでえ。今お前、寝てたじゃねえかよ」って、もうそこでくっつけちゃう。「ううん。寝てないよ」って。そうしたほうがいい、というか、「昔はこどもはこうでしたが」の素に戻る部分が無駄だと思っていたので、やらないようにしたんですね。無駄というか、そこで醒めちゃう感じ。そもそも昔のこどもについて語ってもリアリティないですから。あとは細かいくすぐりを今にアジャストするかたちで変えていくぐらいでしたかね。昔話の解釈に関しては、ちょっと現代的にしてるだけで、新説みたいなものは唱えないです。
杉江 そうでしたっけ。
寸志 そこんところは演者が大喜利的にギャグは変えてってもいいのかもしれないですけど。どうなんですかね、僕、「桃太郎」はおもしろいと思ったことがあまりないんです。こまっしゃくれたこどもに大人がやり込められる、みたいな構造があまり私にフィットしないんですよ。「初天神」とかもピンとこない。僕がこどもを演じるのが得意じゃないからというのもあるかもしれません。だって、「大人なんて罪のねえものだ」と言ってもドッとは笑わないじゃないですか。ほのぼのだなあ、って終わるだけ。
杉江 じゃあ、なんでやったんですか(笑)。
寸志 なんでやったんでしょうね。その日のお客さんに申し訳ないですよね。アンケートの評価は、5段階評価で4.6か。「最近、変化球多く聴く噺だったから、元のスジで話者の特徴が出てると安心感がある」と。ほら、最近の演者みんな昔話解釈を変えてばっかりいるから、僕は変えなかったんですよ。あそこは変化球じゃなくていいんですよ。
杉江 現代風にアレンジするところが、すぐ風化するというか、中途半端に古く感じちゃうんですよね、いつも。
寸志 僕自身は微妙な古さもいいと思うんですよ。落語教室とは別に一時期アマチュアグループに落語を教えていたんですけど、ある人が「桃太郎」をやったんです。その「桃太郎」現代版って、スマートフォンなんかも出てきて完全に今風になっていたんです。「これはご自分でお考えになったんですか」と聞いたら、お名前は伏せますが、K師匠の音源です、って言うんですよね。その師匠みたいに現代に舵を切りきっても面白い方はそれでいいと思うんです。でも僕は「落語の時代」の現代、というと伝わりにくいかもしれませんけど、戦前からせいぜい昭和30年代くらいまで、落語の黄金期の語彙でやりたいんです。
杉江 なるほど。
寸志 そこは演者の考え方一つでしょうね。もっとおもしろくできるし、いくらでも2020年代の「桃太郎」は作れると思います。でも僕が好きになった落語というのは、昭和30年代黄金期の人たちがやってた落語なんです。で、そのころの方たちは、現代の要素を入れるとしてもせいぜい戦前から昭和初期ぐらいの風俗文化だったと思うんですよね。だから、僕はやっぱりスマホが出てくる「桃太郎」はあんまり趣味ではないんですよね。
杉江 ああ、それをやるんだったら「桃太郎」じゃなくてもいいんじゃないか、という気はするんですよ。新作でいいじゃんっていう。話だって「桃太郎」じゃなくて、たとえばハリー・ポッターとかにしちゃってもいい気はしますし。だから、「桃太郎」でやること自体が逆に足を引っ張るような気がしないでもないです。
寸志 考えてくださいよ。そもそもあれでこどもの代わりに親が寝ちゃって、「あーあ。親なんて罪のないものだ」みたいなこどものこまっしゃくれかたって、昭和初期じゃないですか、どう考えても。今なんて大人がこどもより先に寝ちゃったら「ああよかった。寝たか。じゃ、ゲームしよう」みたいになるんじゃないですかね。展開そのものが変わってくると思うんです。だから、おっしゃる通りなんですよ。「桃太郎」のかたちを借りることすら違うんじゃないかと思います。
杉江 なんかね、手塚治虫以前の漫画みたいな感じですよ。イメージとしてはね。
寸志 ああ、そうそう。なんだろ、「ギャフン」とかも出る前ぐらいの感じ。
杉江 (笑)。「桃太郎」はあまりやってないですか。
寸志 やってないです。ただ一度だけ、頼まれたことがあるんです。ありがたいことに縁もゆかりもない地方の方からメールが来て、「披露宴で落語をやってくれ」と。「どうして私なんですか」っていったら、「ホームページとかいろんなものを拝見して」とか。「そうですか。ご当地に縁のある立川流の人いますけど」「いや、寸志さんで」みたいな、本当にうれしいやりとりがありまして。それで相談していく中で、長さが十五分ぐらいだったら、ということで選んだのが「桃太郎」だったんですよ。
杉江 まあ、罪もないですけどね。
寸志 案の定、別にウケずに……。でも、とてもいいギャラをいただいてしまって。なんだか申し訳なくって。ご依頼いただいた方はアゼルバイジャン日本領事館の料理人だった方だったんです。すごいでしょ。そんな人会えないですよ、生涯。首都がバクーって言うと思うんですけど、観光客がお土産に買っていく紙バッグで引き出物もらったんです。もったいないから、その袋まだとってありますよ。「バクー」って書いてあるんです。イラストはリアルなバクーの街みたいな絵です。
杉江 「バクー」って書いてあるのもらう機会ないですからね。よかったじゃないですか。
寸志 よかったです。それが「桃太郎」の思い出です(笑)。

■「三方一両損」

【噺のあらすじ】
歩いていて財布を拾った男。親切に届けてやるが、相手は「江戸っ子が一度懐から出したものを戻せるか」と意地を張り、喧嘩になる。とうとうお奉行の大岡越前まで出てくる騒ぎに。

杉江 次は「三方一両損」です。これはもちろん(立川)談四楼ゆずりですよね。
寸志 はい。僕も師匠のを聴いて好きだなあと思いますし、家元(立川談志)の「三方一両損」もいいし。でももうひとかた影響を受けているのは、実は(立川)志の輔師匠です。志の輔師匠の「三方一両損」は、画期的な視点を出してきたものなので。
杉江 というのは。
寸志 というのは、「大岡越前が自分の裁きに酔ってる」。
杉江 ああ、なるほど。
寸志 「明らかに自分の裁きに酔ってる」ということをお客さんに伝える大岡越前像を作り上げたんです。「この裁き、三方一両損と申す!」って言ったら「どうだ」って顔するんですよ。それを入門前に聴いてて、これはもういいだろう、全落語家に影響を与える演出だから影響されよう、と。
杉江 なるほど。
寸志 何かのギャグを盗るわけじゃないからね。解釈の影響を受けた、と言いましょうか。僕はそれを極端に押し出しています。
杉江 周囲を意識してる感じですよね。「ちゃんと見てるか」って周りを見回す大岡越前。
寸志 以下ネタバレ注意ですけど、「わからんか」ってもどかしそうにして、「(書記に)もうこいつらわかんないから、いい。書け」「お前もわからんか。いいかっ」。もうとにかくわからせたいから、口移しで説明を始める。「いいから書け」って。「『三方一両損』……ゾンの字は手偏だ」とかね。その場にいる全員がわかってなくて、越前だけが得意になっている。で、みんな帰っちゃおうとするので、「待て。『一同立ちませい』と言ってないからな……そうだ、ご飯食べてけ」みたいな感じで越前はご飯を振る舞うんですよ。そっからは他の人間に喋らせない。「今日はなんだ。鯛だぞぉ。鯛なんか食ったことないだろお前。飯も炊きたてだ。すぐ食ってけ。腹減ってない、急いでる? お前、そういうことを言うな。そんなたくさん食べさせるわけじゃあないんだお前。大体あったり前だ。俺をなんだと思うんだ。多くは食わせんたった一膳」って自分で言っちゃうんです、越前が。サゲが町人の台詞じゃない。そこまで作りました。
杉江 その最後ずっと越前の一人しゃべりになるのはオリジナルなんですか。
寸志 オリジナルです。志の輔師匠も町人の会話を入れておられたと思います。あそこまで一人でバーッとしゃべって、サゲを越前が言うのはオリジナルですね。。
杉江 「伝わらない越前最高であった」ってアンケートにあるのは、そのことですね。
寸志 それのことです。
杉江 「三方一両損」といえばもう一つ、江戸っ子同士の喧嘩で切る啖呵じゃないですか。
寸志 そこが気持ちいいですね。うん。やっぱり、江戸っ子の口調を口に乗せたい夜もあるんですね。
杉江 あるんだ(笑)。
寸志 そうそう。なんかちょっと、言いたくなるよねって感じはあります。この噺はもうのっけからですよね。冒頭の「変なもの拾っちゃったね」という独り言辺りから江戸っ子の感じです。
杉江 前半はもう江戸っ子推しですよね。
寸志 全体の三分の二はほとんど江戸っ子のやり取りですね。そこがおもしろいし、聴いてて気持ちが良いっていうか、楽しいんです。僕は江戸っ子をやるの好きだし、無様な江戸っ子を演じてはいないと思うんですけど、教室で指導している社会人の方とか、というかはっきり言っちゃえば入りたての前座さんなんかでもいるんですけど、「江戸っ子を妙に巻き舌にする人」っているじゃないですか。妙に巻き舌で、「るら゛ぁ(表記不可能)」ってやっちゃう。
杉江 ああ、いますね。
寸志 「こんちは。ご隠居いますか」「八つぁんか。まあまあ、こっちへお上がり」「じゃあどうも、あがるう゛ぁせていただきます」って。そう言わなくてもいいのにな、って思います。あと、「ひ」と「し」とかもね。ちょっと、おやおや、って思っちゃうんですよ。アマチュアの方だったら、「いや、そんなに言わなくていいんですよ」とか言えますけど、前座さんでも妙に強調したがる子がいるだよなあ。あれは誰か教えてあげないといけないんだけどな、って思うんですけど。まあ、そういう癖がついている人はこの「三方一両損」やればいいかな、と。
杉江 なるほど。
寸志 この噺の啖呵なら巻き舌で言ってもいいだろうし。後から出てくる大家さんたちも実は、元血の気の荒い江戸っ子なわけですから。もう存分に江戸っ子がやれますからね。最近またやらなくなっちゃったな。一時期よくやってました。
杉江 寸志さん、「大工調べ」ってやってましたっけ。
寸志 いちおうやってるんですよ。ここではやってないですね、長いから。「大工調べ」難しいもん。僕、ダメなんだよなあ。やっぱり、与太郎が今ひとつなんです。
杉江 ああ、「大工調べ」の緩急は与太郎でつきますよね。
寸志 大家と棟梁の話が煮詰まっていくところなんかは、なんとかなると思うんです。ただね、与太郎が出てきたときにおもしろくならないんですよね、僕の場合。それは棟梁の啖呵、きちっとお腹の中に入れられればできるようになると思うんです。まだきちっと入ってない状態だからそれを、与太郎がオウム返し的に繰り返して失敗していく、というのがピタッピタッと決まらないんですよ。前に「看板のピン」でお話したと思いますけど。「看板のピン」は、これはオウム返しの基本ですけども、全部きれいに形良くやって、それを順番通り、そのまんま間違えるからおもしろいわけで。僕の場合、フワッと憶えてるから、二番目にオウム返しでやったときにおもしろくならないんですよ。ビシッと決まんないの。
杉江 勢いで押しちゃダメなんですね。
寸志 そうなんです。だからね、きちっと本当に地道に憶えて、きっちり再現できる人がやると、絶対おもしろくなるんですよ。「看板のピン」しかり、「大工調べ」しかり。
杉江 啖呵を江戸っ子らしくやればいい、というだけの噺じゃないってことですね。
寸志 そうなんですそうなんです。啖呵を言うだけでいいんだったら、どれだけ楽かっていうことですよね。そんな身もふたもないこと言っちゃいけませんけど。
(つづく)
(写真:川口宗道。構成:杉江松恋。編集協力:加藤敦太)

※「寸志滑稽噺百席 其の三十三」は6月23日(木)午後8時より、地下鉄東西線神楽坂駅至近のレンタルスペース香音里にて開催します。前回の模様は以下のYouTubeでダイジェストをご覧になれます。コロナ対策の意味もあるので、できれば事前にご予約をいただけると幸いですsugiemckoy★gmail.com宛にご連絡くださいませ(★→@に)。

ここにこっそり書きますけど、なんとうっかりして一回分収録を飛ばしてしまいました。2019年6月20日開催の其の十六です。このときのネタは新作「豆腐の佐藤」と「猫の皿」「船徳」。なので、「其の三十三」では寸志・松恋の百席余談生収録版として、上記の三つについて寸志さんにあれこれ話していただきます。お聴き逃しなく。


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