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『第11回:もう「後生鰻」はできない時代なのかしら、の巻(寸志滑稽噺百席其の九)』

杉江松恋(以下、杉江)次が「町内の若い衆」「後生鰻」「ろくろっ首」ですけど、これは何がネタおろしですか。
立川寸志(以下、寸志)「ろくろっ首」がネタおろしです。

■「町内の若い衆」

【噺のあらすじ】
男が兄貴分を訪ねていくと留守でおかみさんが応対に出る。茶室を普請しているそうなのだが、その受け答えに感心させられた。男は自分の女房にもなんとか見習わせようとするが。

杉江 「町内の若い衆」、これは(立川)左談次さんのが好きでした。
寸志 はい、僕もです。これはもう、左談次師匠に二ツ目になってすぐに教わりに行きました。左談次師匠の「町内の若い衆」です。
杉江 いいですよね。ぼやくところとか。
寸志 「胸が苦しくなる、足が動かなくなる」ってところですね。「俺ぁ、うちへ帰ってくると必ずこうなるんだよな。なんかあんじゃねえか」って。で、男に何か家で褒めてくれ、って頼まれたやつも同じところまで来ると「俺はここに来るといつもこうなるんだよ。なんか呪われてんのかねえ」っていう。これは本当にもう僕としては左談次オマージュではあります。でも、左談次師匠は実は(立川)談幸師匠に教わったんだそうです。
杉江 そうなんだ。
寸志 そう。ただ、僕の中ではそこは左談次師匠っぽい感じ。(やや左談次師の口調を真似て)「ねえさん、兄ぃいますか?」みたいなね、そんな入りのところから。「ねえさんとこはいつもこう、きれいに片付いて」。あの歌い調子でね。たまらないですよね。今年のご命日に近かった左談次追善のシブラクは呼んでいただいたんですけど、「町内の若い衆」やりましたよ。(メモを調べて)あ、違った、「大安売り」でした。「町内の若い衆」は一昨年の追善シブラクでした。
杉江 シブラク、渋谷らくごね。米粒写経のサンキュータツオさんがキュレーターとして顔づけをされている、月例の落語会です。左談次さんは、かなり早い時期から加わっていて、癌であることを公表した最晩年のぎりぎりまで出演してらっしゃいました。タツオさんの『これやこの』(角川学芸出版)に詳しく書かれています。
寸志 左談次師匠の最後の高座は渋谷らくごだったんですが、その直後で私が「死神」やったという。その話は『これやこの』には出てきませんが、また「死神」の時にでも。
杉江 「死神」、やります? あれは滑稽噺かどうか……。
寸志 まあまあ、それは議論していきましょう。で、「町内の若い衆」ですが、これはバレ噺とはいかないまでも、ちょっと色っぽい噺ではあるから。そんなにひんぱんにかけないですよね。また、形としては完璧なオウム返しなんで、前座さん直後の出番が多い身の上としては、やる機会はあまり多くないですね。やっぱり、大人がクスッと笑う噺なので、選択する回数はそれなりになっちゃいます。
杉江 まあ、どこでもというわけにはいかないということですね。左談次さんの「町内の若い衆」を聴く機会がわりにあったというのは、年季のいった演者だからであって。
寸志 はい。二ツ目が初めて呼んでもらった会でやるような噺じゃない。
杉江 そりゃそうですよ。

■「後生鰻」

【噺のあらすじ】
信心深いご隠居が鰻屋の前を通る。さばかれそうになっている鰻を可哀想だからと買い取って、川に放してやった。それから毎日ご隠居はやってきて鰻を買い取っていくようになる。

杉江 そういった意味では「後生鰻」もやりどころを選ぶ噺ですよね。
寸志 これはなかなかできない噺です。これをやったのは何年ぐらい前でしたっけ。
杉江 二〇一八年六月だから、三年前ですか。
寸志 その時点よりも、さらに今はできなくなっていると思います。
杉江 できない、というのは寸志さんには無理ということですか。それとも。
寸志 世の中がこういう風になってきてるから。
杉江 ああ、そっちか。いわゆるブラックな感じというか、生き死にに関わるものだから、お客さんに好まれないということですね。
寸志 そうです。もう、「落語だからね。しょせんお笑いだからね」っていう前提というか言い訳は通用しなくなっていて、世間から許されないものの対象に入ってきてるんですよ、徐々に。やっぱり「後生鰻」はダメですよ。この会より後にどこかでやったときも、「『後生鰻』はあんまり聴いてて楽しくない」的な感想が出ました。
杉江 ああ、この会のときもアンケートを見ると「『後生鰻』は気分良く笑えない」って感想がありますよね。
寸志 でしょうね。すでにそのころからそうだった。
杉江 あ、別の人が「学校寄席の児童になった心境」って書いてる。こんな噺、学校寄席でやったんですか寸志さん。
寸志 まさか、やらないですよ。そういうマクラでも振ったのかなあ。
杉江 学校寄席でやってたら、ちょっとおもしろいですけどね。先生に何を言われるだろう。というかきっと、寸志さんはそこ出禁になりますけどね。「オチがめずらしい」という感想もありますね。これは何かな。
寸志 こういうブラックなオチは他であまり聴かない、ということなのかなあ。
杉江 寸志さんはこの噺、オチを変えないで普通にやってますよね。
寸志 はい。この噺のサゲを変えるのはいやなんですよ。僕としては、いやがられてもこのままやるしかないんです。
杉江 ああ。世間に向けて手直ししたら「後生鰻」じゃなくなると。
寸志 そう。このままやることが大切だと思うんです。だからそのぶん、サゲだけに焦点が当たらないように、おかみさんをちょっとエキセントリックな人にしています。「ご隠居が来る、ご隠居が来る。じゃあ」って、とんでもない行動を取る。トおかみさんがすすんで赤ん坊をまな板に載せさせちゃう。
杉江 ああ、そうですね。
寸志 その展開にするために、サゲの前に1シーン作りました。鰻屋がご隠居に邪魔されて鰻が割けないから、「一度鰻屋やめて、ここから引っ越したい」っていう提案をおかみさんにするんです。そうするとおかみさんが「なに言ってんの。うちはこれで儲かってんだからダメ。やりなさい」って言う。で、おかみさんはおかみさんでいろんな工夫をしてると。「私も、川に放ったやつがそのままうちに帰ってくるように、樋と竹籠で上手い具合に戻る仕掛けをいま考案中だ」とか言って。
杉江 ピタゴラスイッチみたいな装置を。
寸志 古典落語の時代性無視したクスグリを入れて、サゲの前にそこで笑いを取ろうと、盛り上げようとしたんですね。
杉江 なるほど。
寸志 そこは前座時代で同期の落語家とやってた会ではけっこうウケていた記憶があるんですけど、それでもサゲに関しては「ブラックでおもしろい」っていう人だけじゃなくて、「これは受け入れられない」派、気分良くないと思っちゃう人は出てしまったはずです。
杉江 もう時代の趨勢で仕方ないんでしょうね。
寸志 ただ、そういう形でやっている演者もいらっしゃるので差し障りがないような言い方にしますけど、だからといってほうり込んじゃうのを赤ん坊じゃなくするような、「これなら多少罪悪感が減るでしょ」みたいな変えかたにはしたくないんですよ。
杉江 原型にある負の魅力みたいなものを損なうような形にはしない、ということですね。少なくとも寸志さんは。
寸志 負の魅力、そうですね。同時に、笑いって決して社会の想定する安全な範囲に収まっているようなものじゃないよ、と小声で言いたい。だからこそ、聴いた人間は気分は良くなくなって当り前なんですよ、これは。
杉江 そうですね。文部省推薦みたいな噺じゃないからですね。
寸志 みんな、ちょっと本質から目を反らしているとも思うんですよね。この噺の本質の一つは宗教に狂った人批判ですからね。「宗教に狂うと怖いよね」という噺ですから。そこを見ないで、サゲが非人道的だから良くない、許せん、と断罪する人がいれば、そこは違うんじゃないかな、と思うんです。宗教の非人道性の方が怖いってことですよ。まぁそこまで言うと「めんどくさい人」って言われて嫌われちゃうからなあ。
杉江 うんうん。
寸志 そこまでがんばる必要もないわけですが。この会のときはどうしたか覚えてないんですけど、今年の夏に何回かやったときは、「あえてブラックなことやりますよ」とマクラで十分にエクスキューズした上で「ブラックユーモアとはこういうことを言います」というのを例をマクラで振ってから掛けました。(立川)談志師匠が「笑点」で「飲酒運転をやらない理由は?」「轢いたときの充実感がないから」というブラックジョークを放送できなかった話、あとは(三遊亭)円楽師匠(先代)が言ったとされる「私は差別と黒人が大嫌いなんです」という有名な話なんかを入れて、すこーし場の雰囲気をならした上でやったんです。まあ、あまり効果はなかったかもしれない。
杉江 客を選ぶでしょうね、それでも。
寸志 選びますね。だから、わかってくれる人の前だけでしかできないです。笑いにはこういう面があるんだ、そして私はそんな笑いも好きだ、これも落語だと――小声で言いたいです。小声が届く範囲でいいんですけれど。

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■「ろくろっ首」

【噺のあらすじ】
ろくに働きもしないのに与太郎が嫁さんが欲しいと言い出した。呆れるおじさんだが、出入りのお屋敷にちょうどいい話があることを思い出した。そこのお嬢さんは夜中に首が伸びるのだ。

杉江 今回の最後はネタおろしの「ろくろっ首」ですね。寸志さんが苦手と公言している与太郎ものです。
寸志 そうなんです。ただ、「ろくろっ首」は大好きな噺で、実は大学落研時代にやっていました。そのころにここはどうなんだろうかと思っていたのが、お屋敷での挨拶のところ。挨拶をろくにできない与太郎のために、おじさんが下帯に紐をくくりつけて、一つ引いたら「左様、左様」、二つで「ごもっともごもっとも」、三つで「なかなか」と合図をするという。あそこが嫌いというか、面白くできなくて。で、今どうやっているかというと、そのくだりをバッサリ切っちゃった。で、別の場面に差し替えました。
杉江 どういう場面ですか。
寸志 単に、お嬢さんが庭を通るのを見ながら、おじさんと与太郎がこそこそ話してる、というだけにしました。「あの首が伸びる……」「シッ……他は?」「他?」「手首は」「伸びない」「足首は」「ない」「乳首は」「それはわかんない」。
杉江 ははは。
寸志 「なーんだ」っつって、それだけで終わっちゃう。やっぱりこれはサゲが一番面白い噺だと思うので、そっちに早く話を持っていきたいなと。
杉江 確かに。挨拶のところをやっちゃうと、あそこでお腹いっぱいになって、その後がちょっとつけたりみたいな感じになってっちゃう気がしますよね。
寸志 そう、これこそつけたりですからね、本来。あそこはなくても全然、成立する噺なわけで。まぁ私の腕の問題であるのですが。(柳家)小三治師匠(※)とか爆笑ですから。あと、前半の「おかみさんがほしい、おかみさんがほしい」とか言うのもあまり好きじゃないんで、くどくやらないようにしています。おじさんと与太郎が話す文脈もちょっと変えてます。「赤ちゃんがかわいい」から始まるのはなんとも遠回りですよね。長屋にきれいなかみさんがいてうらやましくて、ってシンプルにしています。これは、今年何回かやりました。
杉江 おお、その後もやっているネタおろしだ。どうですか。与太郎は。
寸志 まあ、ほどほど。最近は歳のせいか、ときどき勢いよくやるのが疲れちゃうことがあるんですよ。「もう与太郎はゆっくりゆっくりやろう」と。間を取って、ゆっくりやろうと思ってやってますね。
杉江 この与太郎はそんな理屈を言う与太郎じゃないですよね。流れに身を任せる与太郎というか。
寸志 価値を転倒させようとする、矛盾を曝け出そうとする、そういう部分はない与太郎ですね、たしかに。僕はメロディでしゃべりたいんですけど、与太郎のメロディはまだ掴み切れていません。しゃべるリズムがダダダダダだとすると、それに乗せる僕の与太郎のメロディがつかめないんです、まだまだ。それができないとすると、本当はリズム、テンポのほうを改めるしかないんで。改めた上でそこに乗せるメロディを作る。そのことに今年はチャレンジしたという。まあ、成功するかどうかはわからないですけどね。ある日、お客様の前でハタとコレだ!と気づくんでしょう。

※この収録後10月7日に永眠されたとの報道がされました。心からの弔意を表します。

(つづく)

(写真:川口宗道。構成:杉江松恋。編集協力:加藤敦太)

※「寸志滑稽噺百席 其の二十九」は10月28日(木)午後8時より、地下鉄東西線神楽坂駅至近のレンタルスペース香音里にて開催します。詳細はこちらから。前回の模様は以下のYouTubeでダイジェストをご覧になれます。コロナ対策の意味もあるので、できれば事前にご予約をいただけると幸いです。上記フェイスブックのメッセージか、sugiemckoy★gmail.com宛にご連絡くださいませ(★→@に)。


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