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「第十三回 入れごとは気づかれないようにそっと、の巻(寸志滑稽噺百席其の十一)

杉江松恋(以下、松恋)この回は「意地くらべ」「やかん」「目黒のさんま」。これはネタおろしはどれですか。
立川寸志(以下、寸志)「意地くらべ」です。

■「意地くらべ」

【噺のあらすじ】
八五郎がさる旦那に五十円の借金をして、隠居の家にやってくる。やはり五十円を借りていて、その期限なのだ。しかし隠居は、無理をして作った金は受け取れないと言うのだ。

杉江 「意地くらべ」、私は好きですけど、寄席ではあまり聴いたことがないです。
寸志 正直難しい噺ですよね。これは昔の速記を見てやってしまってます。四代目の柳家小さん師匠です。それをベースにして、あとはいろいろ自分で作りました。パッと読んだだけじゃ僕は構造が理解できなかったんです。聴くだけだったらもっとわからないと思ったので、かなり変えました。
杉江 どういうところを変えましたか。
寸志 たとえば強情田中と強情おじさん――これも私が勝手にネーミングしたものですが――の「行ってこい」っていうところとかですね。でも、今でもどっちの家で最終的に牛鍋を食べることになってるのか、自分でもわかんなくなっちゃう。
杉江 やっているのにですか。
寸志 この「滑稽噺百席」のチラシって、それまでにやったネタを書き連ねてあるじゃないですか。立川流の一門会で僕が高座に上がっているときに、(立川)ぜん馬師匠がこのチラシをご覧になっていたそうなんです。それを前座が見ていたんですけど、並んでいるネタを見ながらあれこれとコメントしてくださったんだとか。「『蒟蒻問答』は滑稽噺じゃないな」とか「ああ、『意地くらべ』な。つまんない噺なんだよ」とか。
杉江 身も蓋もない。
寸志 つまんない噺なんですよ。ただ、これってやりようによってはものすごいシュールでおもしろい噺になるんです。このときのアンケートを見ても強情田中と強情おじさんが自分の強情を張り合って、「『あ、強情田中の、名が~すた~る~~』と芝居の見栄風にやったところがおもしろい」という意見があるんですけど、それは自分の工夫です。まぁ本質的なところではないんですが。
杉江 オリジナルにはないんですね。
寸志 だから、噺の本筋でおもしろがってもらってるわけじゃないんでしょうね。だから、もうちょっとキャラクターたちの強情度を下げちゃってもいいかもしれない。もともと強情同士の張り合いという展開に無理があるわけですから。うーん、だからすっかり変えちゃいたいなと思ってるぐらいですよ。
杉江 私はたしか最後に聴いたのは(柳家)小袁治さんだったと思うんですよね。
寸志 ああ、おもしろそうだ。
杉江 そのとき、『天才バカボン』に出てくるバカ田大学の人たちみたいだな、と思ったんですよ。あのマンガ、バカボンのパパの家にいろいろなバカ大の人が来ますけど、「意地くらべ部」がやってきました、みたいな印象でした。そのバカ大たちの意地くらべにバカボンのパパも参加しました、みたいなイメージが頭の中に浮かぶんですよね。だからストーリーは毎回忘れるんですよ。「意地くらべ」というシチュエーションだけしか覚えられない。赤塚不二夫と長谷邦夫と古谷三敏が一所懸命バカのアイデアを出し合っている一席です、私の中では。何人も強情な人たちが出てくる。でも登場人物の個性というよりは、状況に対する強情反応の違いだから、それぞれのキャラクターを掘り下げるんじゃなくて、漫画的な記号でやっていく手はあるのかな、と思います。
寸志 もしかすると最初の「借金を返すためにわざわざお金借りて」みたいな展開が複雑なので、そこから始まらないほうがいいのかもしれません。もっとばかばかしく、たとえば、「こんちは。いますか」「おかしいじゃないか。『いますか。ああいました、こんにちは』ならいいけど、なんで最初『こんちは』って言うんだよ」、みたいなね。そういうところから、強情さを見せていく。「いや、言うよ。だって、たいがい『こんちは』って言うでしょ。『こんちは』って言って、すぐ『こんちは』って返してくれたら『いますか』もないんですよ」みたいに、言葉の不条理劇から始まる。もう「そのレベルの強情から始まるの?」みたいな不条理から始めてもいいんじゃないのかな。「お金を返す、返さない。いついつまでという条件だったから、いついつまでは返せない」というやりとりが、複雑すぎてわかんないんですよね。
杉江 そうですよね。
寸志 ゴチャゴチャして、何を言いたいのかわからないと思う。お客さんが求めるのはもっとわかりやすい強情さなんじゃないのかな。
杉江 お客さんは「今から強情比べします」みたいに始まっても別に怒らないでしょう。
寸志 そうそう。「強情長屋」、「強情村」でもいいんですよ。

■「やかん」

【噺のあらすじ】
隠居を訪ねて八五郎がやってくる。「来たな、愚者」と学者気取りで、物の名前の由来について聞かれると即答していく隠居だが、やかんはなぜやかんなのかと最後に質問される。

寸志 「やかん」は僕の前座時代の定番ネタです。ここでこれを出しているということは、たぶん「意地くらべ」のネタおろしが大変だったんだと思います。
杉江 ああ、他に手が回らなかったんだ。
寸志 楽なネタを選択したわけですね。でも、アンケートを見ると「長い」という意見がありますね。もともと長いんですけどね、僕の「やかん」は。このときはフルサイズでやりましたから、それは長いですよ。最初の「浅草行って帰ってきた話」と「魚根問」、それに「やかん」で三部構成なんです。その組み合わせなんですけど、ぜんぜん時間がないときは「魚根問」だけ。ちょっとあったら「浅草と魚根問」、または魚根問を抜いて「浅草とやかん」にしたりね。もしくは浅草を抜いて「物の名前にはいろいろありますね」と始めて「魚根問とやかん」でもいけます。たぶんこのときは、せっかく聴いていただけるんだったらフルサイズで、ということでやったんじゃないかな。フルで二十二分ぐらいあるはずです。
杉江 仲入り前の二席目だからフルでやったんでしょうね。
寸志 たぶんそう。ネタおろしを一番最初に持ってくるっていうのは、「一分でも一秒でも早くしないと忘れちゃう」ということなんですよ。
杉江 早く楽になっちゃいたい気持ちなんですねえ。
寸志 そういうことそういうこと。「やかん」は最後の講釈のくだりがあるでしょう。あそこがあったから後に「鮫講釈」ができるようになったんです。講釈への道は「やかん」で開けたというのが僕のイメージですね。これ、僕はちゃんと師匠(立川談四楼)に聴いてもらってアゲてもらっている(演じる許可を取っている)んですけど、先代の(春風亭)柳朝師匠の高座をだいぶ参考にしているんです。だから聴く人によっては、あれ?と思うかもしれない。冒頭の、「浅草行って帰ってきやした」「なんだかわからん。行けばこそ帰ってくるのであり、帰ってくるのであれば行ったという覚えもあるのであろう。それをお前が言うように行って帰ってくるなどというムダなことを言うから電車が混むんだ」というやりとりはみんなやらないですよね。
杉江 そうかもしれない。
寸志 僕はあれが大好きなんですけど。あと、講釈の言い立てのところね。僕がやっているのは、ストーリーというよりは武具の部分を羅列する言い立てなんですよ。それも柳朝師匠ぐらいでしか聴いたことがないかもなあ。
杉江 そうか。敵が夜討ちに来て、誰かが兜を持って行ってしまったから仕方なく、というような全体の流れのうち、要所だけを引っこ抜いてやっている感じなんですね。
寸志 と言うか、講釈のパロディなのかもしれない。あと、「やかん」をみんなやんないのは、家元(立川談志)が晩年、すごい自由な「やかん」をやられてたじゃないですか。もう「やかん」というか、「森羅万象根問」みたいなやつを。あれがあるから、みんなやらないのかもしれません。でも、「やかん」で根問の部分だけやったり、やかんのくだりをやっても講釈の言い立てをやらない演者もいるみたいですね。
杉江 いますね。講釈風にしなくてもあそこはできるでしょうし。
寸志 なんで講釈をやらないのかな、とは思うんです。話芸に携わる者として講釈やりたくならないのかな。「聴いたことをそのまま再現すること」に対する執着がないってことなのかなあ。
杉江 聴いたリズムをそのまま再現したいかどうか、という問題かもしれませんね。
寸志 講釈の形をそのままやりたいと、僕は思うんですよ。ちなみに「やかん」の言い立ては前座時代にウチの師匠の伝手で神田愛山先生に稽古にうかがって見ていただいたことがあります。

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■「目黒のさんま」

【噺のあらすじ】
殿様が馬の遠乗りで目黒まで行かれたが、急ぎの出立だったので弁当を忘れてしまう。だが近所の農家からさんまと飯を貰って昼食にできた。その日以来殿様はさんまの虜となる。

杉江 最後、「目黒のさんま」です。アンケートの意見にもありますけど、地噺の「紀州」と同じで、家臣の侍たちを寸志さんはかなりクローズアップしているんですよね。
寸志 「目黒のさんま」は今年は結構な回数をやってるんですけど、以前から数ヶ所大きく入れごとをしています。お腹をぐうと空かせているお殿様を見てする家来たちがする会話です。「弓と矢もってないか」「どうする」「空のトンビを撃ち落として焼き鳥にでも」「いやいや、そんなことするぐらいだったら、あの林の奥に踏み込んでキノコでも採ってきて」「いやいや、毒キノコなどあったらどうする」「うーん、いかがいたすかのう」「ほら、先ほどな、目黒通りから山手通りへ右折したところ、駒沢通りの立体交差、中目黒駅の手前の角にファミリーマートがあったではないか。あそこでコンビニ弁当とお茶でも買えばよかったのじゃ」「貴殿はなにか幻でも見ておるのか」って。そのやりとりは初演の頃からやってますね。
杉江 なるほど。ご当地ネタですね。
寸志 実際そうですから、中目黒のあのあたりは。あとは最後のほう、料理方同士が「聞いて参ったか」「さんまである」「そのようなことはなかろう。まあ、買って参れ」「買ってきた」「脂まるまるとして美味そうであるのう」と。そんなやりとりあるじゃないですか。
杉江 ありますね。
寸志 あそこをもっと二人で楽しそうにと言うか、ワチャワチャ感出して、「え、どうするどうする」みたいな感じにしています。
杉江 殿様自体はそんなにいじるようなキャラクターじゃないですもんね。
寸志 あんまり殿様を変にしたくないんですよ。ある方の「目黒のさんま」を聴いたとき、あまりに殿様が奇矯な感じで半ばヒステリックな演出で、「これはちょっと…」と思っちゃったんですね。そこまでいかないだろうと。僕だったらそこまではキャラクターを変えられない。
杉江 なんといっても育ちのいい殿様なんだから。
寸志 そうなんですよ。殿様のキャラクターはいじってないんですけど、一ヶ所、ちゃんとほめてもらいたいところがあるんです。
杉江 伺いましょう。
寸志 俳句を入れてるんですよ。「一句できた。聞け。『天高く』」「はあ、天高く」「『昼より鳴ける 腹の虫』」「名句でございます」。これ、僕が作った句ですからね。
杉江 オリジナルなんだ。
寸志 いいでしょう。本当に収まりのいいくすぐりって、気づいてもらえない傾向がありますよね。もとから古典落語にあったとみんな思っちゃう。「誰のかたちですか?」ってよく訊かれます。だから、「これ、俺だから」と主張しておきたい。でも、そういうのが理想なんですよね。さっきのファミリーマートうんぬんは入れごとだと誰でも気づくでしょうけど、どっちかというと本質的に僕がやりたいのは、「気づかれないけど上書きされてる」ということなんですよね。このときのアンケートでは、ぜひそこを褒めてもらいたかった。残念ながらスルーされてましたが、それはそれで本望と言えば本望かぁ。
杉江 なるほど、と感心したところでちょうど借りている会場の刻限となりました。講釈場じゃないんですが、「これからがおもしろいところだが、続きはまたのお楽しみ」ということで。

(つづく)

(写真:川口宗道。構成:杉江松恋。編集協力:加藤敦太)

※「寸志滑稽噺百席 其の三十」は12月23日(木)午後8時より、地下鉄東西線神楽坂駅至近のレンタルスペース香音里にて開催します。詳細はこちらから。前回の模様は以下のYouTubeでダイジェストをご覧になれます。コロナ対策の意味もあるので、できれば事前にご予約をいただけると幸いです。上記フェイスブックのメッセージか、sugiemckoy★gmail.com宛にご連絡くださいませ(★→@に)。



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