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「第十五回 「芝居の喧嘩」って実はおもしろい構造の噺なんですよ、の巻(寸志滑稽噺百席其の十三)」

杉江松恋(以下、杉江) 次は「元犬」「六尺棒」「芝居の喧嘩」ですね。
立川寸志(以下、寸志) それぞれ短い噺ですから、寄席サイズに合った、という滑稽噺の趣旨としては合ってますね。

■「元犬」

【噺のあらすじ】
野良犬のシロが人間になりたいと思って神社に願をかける。本当に人間の姿になったのはいいものの素っ裸である。顔見知りの上総屋が世話してくれて奉公に上がることになるが。

杉江 「元犬」は、(立川)笑二さんについて以前何度も言及ありましたね。
寸志 そうなんです。笑二兄さんの「元犬」。端的に言えば「犬が本当に人間になったのか、いやそではない」なんです。兄さんの噺は。
杉江 そうですね。これはネタばらしではなくて、噺が始まってすぐに明かされる。
寸志 だから言ってもいいですよね。でも、読みたくない人はここ飛ばして。乞食が出てきて、シロに化けるんですよ、私がシロですって。すごい工夫じゃないですか。たぶん前座時代からその形でやってたと思うんですけど、これはもうかなわない。
杉江 北沢八幡の立川談四楼独演会に前座で出たときに、私も聴きました。かなり前ですね。
寸志 兄さんにはかなわないながら、僕も細かい工夫はいろいろしているんです。たとえば、ここは要らないんじゃないかな、と思うところは切っている。人間になったシロを口入れ屋(現在の職業案内所)の上総屋が家に連れ帰る。足を洗う水を飲む、帯を咥えて振り回す、色々くすぐりには入るんですけど、僕はそこを一切やってない。
杉江 ああ、そうでしたっけ。
寸志 私は八代目(春風亭)柳枝師匠の形です。上総屋の旦那はある朝で八幡様で出会ったこの裸の男がシロだと知っているんです。シロがあらかじめ告白する。たいがいの型だと、知らないまま奉公に上げるんですね。それで男の奇行を見て「変わった人だねえ」って言ってる。それってちょっとどうかと。だって「変わった人だねえ」と思ったらそこで「まるで犬だねえ」って言っちゃうと思うんですよ。
杉江 ああ。そうかもしれない。
寸志 そこが「なんで言わないの」って気になるんです。あと、こんな変なやつを上総屋も世話しないでしょ。いくら「変わった人、面白い人を」と言われていても。限度てえものがある。
杉江 大事なお得意なのにね。
寸志 ですよ。だとしたら、もとからわかってて、「お前さん、本当にシロなんだ。そうか、人間になれたのか、おめでとう。いやあ、よかったね。じゃあ、人間になれたお祝いに紹介するな」としたほうがいい。そこらへんにいる裸の男を、いくら人柄が良くたって、さすがにお得意先には世話しないでしょ。
杉江 そりゃそうだ。
寸志 「変わった人」ではないからですね。「ちょっと危ない人」だから。だから僕の場合、歩いているあいだに上総屋が元シロの男に「お前さん、そんなことしちゃいけませんよ。お前さんね、もう人間なんだから。犬じゃないんだからね。これから行くところでそんなの知れたらダメですよ」と教えるんです。それがあって「元は居ぬか」「今朝ほど人間になりました」と告白する。本当はサゲまで変えて、「元は居ぬか」「ああ、バレちゃった」で終わろうと思ったんですよ。
杉江 ああ。それはいいですね。
寸志 「へい、今朝ほど人間になりました」ってオチは、「なんでここで告白するのか」という疑問が残るじゃないですか。だから「ああ、バレちゃった」のほうがらしいかなって。でも、そのためにはかわいくないといけないんですよ。
杉江 出た。寸志さんのかわいくない問題。
寸志 そう、シロがかわいくできないんですよ。他にもいろいろ考えたんです。「元犬」じゃなくて「元・犬」っていう題名にして「『元犬』後日談」で、人間になっちゃったけど、もうやりきれなくて犬に戻りたいと思っている男の話。でも、全部裏なぞりだなと思ってやめました。後日談って言っちゃうと、あまりにもつまらないから。うーん、「元犬」……これもあんまりやんないですね。

■「六尺棒」

【噺のあらすじ】
若旦那、遊びが過ぎると常々親父に叱言をくらっているがまた遅くなってしまった。締め出しをくらって自棄半分、戸の外で親父をからかっていると六尺棒を持って飛び出してくる。

杉江 このときのネタおろしってどれですか。
寸志 「六尺棒」です。
杉江 これは聴いたときに「ああ、これは立川流の『六尺棒』だなあ」と。「家元(立川談志)から来てる『六尺棒』だなあ」と思いましたけど、それはどうですか。
寸志 これは芸協に行かれた立川幸之進兄さんとの交換で憶えた噺ですね。「『庭蟹』教えて」って言われて、あの兄さんはよく「六尺棒」やってたんで、「『六尺棒』教えてください」って。で、幸之進兄さんは立川龍志師匠からですね。完璧に龍志師匠の形です。噺の大小があって、龍志師匠ぐらいの方に直接「師匠、『六尺棒』をぜひ教えてください」って言うのって、なんか申し訳ない気がするんですよ。それでわざわざ時間取っちゃうのが恐縮で、向こうもだれるだろうなあと。「いいよ、聴いたことあんだろ。やんないよ。それでいい」みたいな感じに言われちゃうから、それだとつまんないんですよね。だから、というわけじゃなあないんですけど、幸之進兄さんはしっかり立川型を受け継いでらっしゃるので、お願いしました。難しい噺ですよ、「六尺棒」は。
杉江 お。どこが難しいんですか。
寸志 「きちんと振って、きちんと回収しないとおもしろくない」タイプのネタなんです。完全にそうですよね、この噺って。「看板のピン」のときにもお話ししたように、私みたいにふらふらと、その場の思いつきみたいな感じで演じるとおもしろくならない噺なんですよ。きちーっと前半やって、きちーっと親父の言ったことをせがれがなぞらないと、これは笑いが起こらない。
杉江 なるほど。それぞれのセリフがオチに直結してますからね。
寸志 そうなんですよ。ただこれ、ちゃんと得意にしてれば、いろんな場面で七、八分でもできる。いいなあとは思うんですけどね。一時期みんなよくやってたけど、最近あまり根多帳に載らない。
杉江 なんでなんですかね。
寸志 あんまり得な噺でもないからかですかね。爆笑噺ってわけでもないじゃないですか。
杉江 そうですね。前半で仕込んで後半でバーッといくところで受ける。
寸志 そうそう。実はこのとき一回しかやってないですね。いつかまた、なんかふらーっとやるかもしれないけど。ふらーっとやるにしても、きちーっとやれるかどうか、です。

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■「芝居の喧嘩」

【噺のあらすじ】
侠客・幡随院長兵衛と旗本奴・水野十郎左衛門が対立していた時分のお話。満席の芝居小屋で、ちょっとした行き違いから侠客と旗本奴との喧嘩が持ち上がる。次から次に現れる猛者。

杉江 じゃあ、次いきましょうか。「芝居の喧嘩」。このときね、ちょっと意外だったんですよ。「ああ、『芝居の喧嘩』なんだ」って。滑稽噺として掛けられるとは思ってなかったもので。講釈ネタじゃないですか。「幡随院長兵衛」ですから。講談とか浪曲では、別に笑わせるつもりじゃなくて、旗本奴と町奴オールスターズ登場みたいにやるわけじゃないですか。それを笑いに結びつけるというのは、ちょっとおもしろいな、と。
寸志 これはですね、「講談のパロディ」なんですよ。僕は、噺家ではなく講釈の(神田)愛山先生に教わってます。「芝居の喧嘩」は談志師匠もやるし、今だと(柳家)権太楼師匠、(春風亭)一朝師匠とかが有名。先代の(春風亭)柳朝師匠もやられているのかな。で、談志柳朝の二人がルーツで、その元は先代の(神田)山陽先生なんですって。
杉江 ああ、二代目の。
寸志 はい。山陽師が談志師匠と柳朝師匠に教えたそうです。そこから落語協会のほうに行くと。芸術協会は、そもそもその山陽先生がいるから遠慮してやらなかった。寄席のネタじゃないですか。伸縮も自在だし。で、私はしっかり講釈で聴かすかたちのものを愛山先生に教わって、上げてもらってます。でも、落語としてやるために講釈の特徴を語る前段をコミカルにして、「パロディだよ」っていうことを明確にしたんですよ。このネタの肝は「この話はこれからがおもしろくなる、あとはまた明日」、もしくは「明晩」ですね、という講談のお決まりの決まり文句でしょ。それを一回マクラでやる。「あとはまた明晩とやられますと、『ああ、聴きたいな。また明日来よう』」みたいな。で、翌日になると違うネタがかかって、「『ああ、それ違う。こないだの続きじゃない』って聴いてるうちにどんどんどんどん引き込まれていきまして、この話はこれからがおもしろくなる。あとはまた明晩」「『うわあ、また来ないと』ってなわけで」って、そっからガラッと雰囲気変えて噺に入る。
杉江 なるほど。
寸志 自分は講釈の口調に向いてるほうだと思いますし、やってて気持ちがいいですね。でも、最近やらなくなっちゃったな。やっぱり言い間違えたりするとかっこ悪い噺なんで、少し稽古を積んでからじゃないとできないです。
杉江 そうですね。口舌が慣れてないと。
寸志 この百席じゃないどこかでやったときに、「初めてこの噺が、こういうことを伝えたい噺なんだって思いました」って感想をいただいたんですね。つまり、講釈のパロディだということが初めてわかったと。普通に話してて、「あとはまた明晩」っていう形だと、ただの講釈じゃないですか。落語家がやるんだったら笑わせないといけないんで、ガーッと盛り上げておいて、「あとはまた明晩」で「おい、お前もかい」みたいな感じにする。「そういうことをやるのが講釈だよ」という、講釈というジャンル全体を引きの目で見たパロディが成立する。そういうところが、ちゃんとマクラで押すから伝えられるわけで。本題に入ったら、言い立ての気持ちよさなんかでいったんそのことを忘れてもらって、「ハラハラハラハラ、どうなるどうなる」と思わせておいて、このサゲを言いたい。それがはまったときの快感たるや。いい噺ですよね。
杉江 確かに家元がやられたときというのは、講談や浪曲が好きな方だから、自分の気持ちの良いものを再現してるってことがすぐ、ダイレクトに伝わるんですよ。でも、その下の世代の演者だと、「ああ、それって講談だね」「落語に移植したんだね」という感想が先に立ってしまう。いや、これは誰かの悪口を言おうとしているんじゃないんですよ。講談そのままを落語で聴かせる意味について考えてしまうということです。そしたら講談の席に行けばいいのでは、という話だと思うので。
寸志 最近の多くの演者は、もっともっと落語っぽく、それこそ芝居見物の観客同士のやり取りにくすぐりを入れて、もっと膨らまして全体の雰囲気をおもしろくしますよね。
杉江 そうですね。
寸志 僕がなぜこの噺をするか思い出したんですけど、高校生か、大学生ぐらいのときに、池袋演芸場で、当時まだ二ツ目くらいだったと思うんですけど、権太楼師匠の「芝居の喧嘩」を聴いたんです。で、ワーッと観衆が騒いでるときに、ちょっと意外な人が出てくるんですよ。言えませんけど、他の落語の登場人物。それがすっごいおもしろかった。当時は落語通を気取っていたから、そこで爆笑。もちろんそれは自分ではやりませんけどね。
杉江 そうですね。そのギャグは権太楼さんのオリジナルだから。
寸志 いいなあ、とは思いますけどね。そういう風に「落語家としてくすぐりをぶち込んでいく」という方法と、「講釈部分を気持ちよく聴かせた上で講釈全体のパロディだということを見せる」っていうやり方、方向性としては両方ありなのかな、という風に思いました。
杉江 なるほどなるほど。それで、「芝居の喧嘩」を滑稽噺に入れた理由がわかりました。
寸志 うん。滑稽、だと思う。
杉江 確かに笑えるんだけど、「釈ネタ」っていうのがやっぱり、頭にあったんですよね。
寸志 このアンケートでも、「杉浦茂みたいでバカバカしくていいですね」っていうのがあります。それこそ、「襟首掴んで頭と頭を、おでことおでこを、ガーン、ヒー、コーン、ヒー、コーン、ヒー、コーン、コンコンコン、コーン……芝居が終わっちゃった」みたいな。そういう突飛な、あえて言えばイリュージョン的なものもあるわけで。まあ、それが講釈のバカバカしさだし、そういうところから……茂も、逆に講釈から取ってるわけだけど。そういうような感じです。
杉江 よくわかりました。
寸志 あれ、杉浦茂でいいんだっけ。漫画家、杉浦茂ですよね。
杉江 『猿飛佐助』の作者ですよね。
寸志 ああ、すみません。今、フォークボール投げる人は……。
杉江 杉下茂さんですよね、それは。
寸志 それそれ! いま顔は杉下茂浮かんでて、すっごい不安になってた!

(つづく)

(写真:川口宗道。構成:杉江松恋。編集協力:加藤敦太)

※「寸志滑稽噺百席 其の三十」は12月23日(木)午後8時より、地下鉄東西線神楽坂駅至近のレンタルスペース香音里にて開催します。詳細はこちらから。前回の模様は以下のYouTubeでダイジェストをご覧になれます。コロナ対策の意味もあるので、できれば事前にご予約をいただけると幸いです。上記フェイスブックのメッセージか、sugiemckoy★gmail.com宛にご連絡くださいませ(★→@に)。


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