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『LIFE IS』を通して”これまで”と”今”の安田章大を振り返る【約12,000字】

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「安田章大と,生きる。〜やすを見つめて命と人生を考える〜」

「「自分」というものを何よりも尊重する安田章大の生き様を参考にして「生きる意味」を見出す」

✔️ 「『LIFE IS』を通して”これまで”と”今”の安田章大を振り返る」Zoomオフ会 について

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*1名でもがあれば開催致します!
*本名や顔は非公開でも構いません🙇‍♂️
*申請締め切りは12/29(木)23:30までです。

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 何気なく今年1年,自分のなかで最も影響を与えてくれたジャニーズタレントは一体誰かなーと考えてみた。ボクは事務所推しタイプのオタなので「7個も離れてるのにあれだけの色気を放ってるラウールかなー」とか「やっぱ,剛(ごう)くんのアダルトな見た目と甘い声は際立つな」と改めて思わされたりとか,「マリウスにはかっこよさとっても聡明さとっても,どことっても勝てん...」と痛感させられたり,特に今年こそが彼らを見つめる時間が長かった分,多方面でインスパイアされた1年だった。

 結局のところ,自分の一番根っこの部分に衝撃を与えてくれたのは「やすだな!」と安田章大ということでボクのなかでは答えが決まった。去年にボクはやすと「生きる」ということについて自分なりに語ってみたnote記事を公開した。これまでもボクのなかでやすの存在はとてつもなく大きかった。

 小学生のときからやすのことが好きでずっと追いかけていたという歴史もあるのでなかなかそう簡単に乗り越えられる人ではないけれど間違いなくボクは彼から勇気と自信をもらっていた。

 『「普通がいい」という病』(泉谷閑示)のなかでボクの好きなフレーズがある。自分の感覚は以下の文章に対して「そうそうそう!」と言いたくなってしまうくらい頷くものだ。

「角」が切除された大人たちを身近なモデルとして育ってきた人たちの中には、人生の早い段階で生きる意欲が枯渇し、生きる意味を見失って、日々虚しさを紛らわすだけになっているケースも少なくありません。(p.6)

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 ボクが子どものときから,自分の身の回りにいる大人たちは往々にしてキラキラしていないとか輝いていないといえばいいのか,機械的に日々を過ごしている感じがして少なからず「大人になると楽しいことがたくさん待ってる!」と全くもって信じられない子どもだったし,今も若干その節はある(実際にいまは自分が大人になってるけど,「なんとかまあ,楽しくやってる」って感じ。あのときの大人たちもそう思っていたのかな?)。

 いつだったか覚えてないし誰に聞いたのかも覚えていないけれど,一度誰か大人に「大人って楽しいの?」と聞いたことがある。返ってきた答えは「楽しいよ!夜まで遊べるしね!お金もあるし!」みたいなものだった。

 けれど,大人は長い時間仕事をするというある種の常識が既に頭にあったので「お仕事は?」とボクは尋ねてみる。するとその大人は「お仕事はね,大変。だけど,終わったら楽しい時間が待ってるからね!」と言う。

 「すでに小学校の15時終了だけでもだいぶ耐えているのに仕事は大変だなんて,夜まで働いたらくたびれて死んじゃうじゃないか」と思ってしまい,そして他の大人たちにも聞いてはみたけれど,たしかに「楽しい」とはいうけれど(相手は純粋無垢な子どもなもので...笑)それは「仕事という苦楽を乗り越えた後」という言い方であった。わがままなボクは「全部楽しい」がよかった。

 そんななかでやすと出会い,テレビに映るやすの姿はいつもきらきらしていて楽しそうで,よく「変」な服装をしていて周りにいじられたりだとか「奇抜」と言われたりするけれど,「ファッションが好きだから」という純粋な理由で何食わぬ顔で一貫している姿がカッコよかった。ボクは昔からSMAPが好きだったので「慎吾ちゃんだってそうじゃん」ってツッコミがはいりそうだけど,当時からボクはある意味で敏感だったから「慎吾ちゃんは笑ってないときがある」となんとなボクは彼の闇みたいな素質をすでに見抜いていたのであった。しかし,やすにはそんな要素を全く感じない。そのときからボクはやす担であった。さきほどの引用文の全くもって反対側にやすが存在しているような感じがする。

 2017年に彼が髄膜腫を患ってから,彼の外見の点においても内面の点においても多くの変化が生じ,ようやく今年2020年には徐々に落ち着きを取り戻し写真集『LIFE IS』を発売し,そのなかで病を患ってからの自身の心境を赤裸々に公表する機会を我々に与えてくれた。その多くは良いことやハッピーなことばかりだけではないし,むしろ真剣に受け止めなければならない事実が多かった。

 けれど,今までずっと応援してきた1人のeighterとして,そして安田章大を応援し,彼から勇気をもらっていた1人の男性として,彼の最も人間み深いところを垣間見れたという点において,ボクは再びやすに感謝している。

僕は関ジャニ∞というI DOLだけど僕もただの人だ。

 前置きが長くなってしまったが,今年だからこそ思うぼく一個人の思う安田章大という人間と,彼が与えてくれた今後を生きる上で勇気や自信となえるGIFTを書き連ねてみようと思う。とても長いので,断片的に読んでもらっても全然大丈夫です。

<加筆修正>「己」のセンス[感覚]を最優先させるやすを振り返る

*この節は1年前にボクが挙げた↓の記事にある一部を引用し,加筆修正したものです。

 
 ボクが大学院で研究する学問分野である文化人類学であったり社会学であったり,メディアについて勉強していると,人々の美的センスなどといった主観的な要素というのは本能的にというよりも外部からの力(例えばメディア)によって形成され,場合によってはそれが恣意的に方向付けられてしまうこともしばしばあるためその威力にだいぶ恐れ慄く。

 特にその影響は中高生に受けやすく,たとえばメディアが「かっこいい」と評するモノに対して「これはかっこいいものなんだ」と思わされ,それに該当しないものに対しては「かっこよくない」とネガティブに捉えてしまうこともしばしばあるように思える。若かりし木村拓哉が全盛期を迎えた90年代にいわゆる「ロン毛」が男性を中心に広まったが,当時はそれが「かっこいい」の対象であったために広がったのであり,2020年現在はめっきり見かけなくなったし少なからずブームとはいえない。

 芸能人はオーディエンスのマジョリティーに寄せたほうが好感度や近い距離感を持たれるため,その潮流に乗っかったほうが無難だ。しかしながら,やすのファッションや髪型を見ていると,外部からのセンスというものに惑わされず,本来的に持ち合わせている自身の感覚というものに従って,自由に自分の姿を世間に提示している印象を受ける。

 簡単にいうと,やすはいつまでもやすなのだ。今でこそメンズの間で流行する髪型は「ショートとミディアムの中間くらいのセンター分け」だとボクのアンテナは言っているのだが,そんなのは彼にとって全く関係ない。

 あるときはナチュラル目な黒髪の短髪スタイルのときもあれば,ミディアム〜ロング中間あたりのゆるやかなパーマのかかった黒髪,茶髪の左流しミディアム,金髪のもこもこ,頭部ほぼ半分刈り上げの,半分金髪パーマ,くしゃ髪モヒカンなどなど,多岐に亘る.容易に受容できるかっこいい髪型,かわいい髪型,無難な髪型から,なかなか受け入れ難い独特な髪型まで彼の美的センスにおける範囲は計り知れない.ボクが個人的に思う彼の1番の魅力というのは,まさにこの点である。

 普通,他人[ひと]から「それ変じゃない?」とは言われたくないし,規範というか基準みたいなものはなんとなくその時代その時代に決まってる感じもするし,それもそれでかっこいいため,大多数は無意識か有意識か分からないが,その基準たるスタイルへと無難に向かう。

 けれどもよく考えれば,他者の言う「変」というのはその人の世界観で言ってることてあり,己の世界観では「良い」とされているのであれば,そりゃ己の感覚を誰しもが優先させたいことだろう。「とはいえ...」というビビリ的要素が働いてしまうのが関の山な感じがするが,安はまさに己の世界観を1番に優先させているように思える。

 理由はよく分からないが,ボクは小学6年生くらいのあたりから人と違うことをするのが好きで,「なんでみんな同じことをするんだろう」となんとなく疑問に思ったりもしていた。その矢先に金髪のモコモコという独特なスタイルでかっこよくエレキギターを弾き,東京ドームのステージを駆け回る彼の姿であったり,バラードを歌う姿,ハッちゃけるやすの姿はボクの感性にグサッとヒットしたのである.「人と違うのが好き」というボクの趣向がまさに確信へと変わったのだ。

 髪型のみならず,身に付ける衣類までも個性的で「奇抜」とまでいわれるやすのファッションの趣向もまたその範囲が計り知れない.今の若者の間ではモード系が1番無難でありながら1番カッコいいとされているが(「クロニクル」で言ってた),やすはサルエルパンツを履いたりダボっとしたアウターを羽織ったり,オーバーオールを着たり,時によってはスカートをはじめとしたレディースファッションも着こなしたりもする。やすのことをエイトの中で1番に推しているとはいえ,ボク自身のファッションのなかに例えばオーバーオールを取り入れたり,スカートを取り入れたことはないが,彼のその逸脱性というか,他の人からの声なんて気にもしていない感覚はボクのなかで非常に大きな発見となったのは胸を張って言えるのである。

 手術を受けた後,病気が脳の箇所に発生したということもあって頭には大きな手術痕が残る。ボクがいままでテレビなどで目にした,そのような痕と共にある方々はみんなそれをなんとかして隠すようにしきてたイメージがある。

 けれども彼はそれを自分のモノにする。病気の影響で光を直接みることができないということでサングラスをかけざるを得ない状況も自分の世界に取り入れる。これらによって,今までのやすの姿と比べるとだいぶ外見的には印象は変わるけれど,だからといって急に性格がワイルドに転換していった訳でもないので彼の内面にある魅力は変わらず今でも残っている。そんなことを,ボクは↓の動画を観てふと感じるのであった。

『LIFE IS』を手にとって,ここに映るやすから何を感じるのか

ボクは写真集を鑑賞する習慣がないので最初に『LIFE IS』を手にとって読み始めたときには,そういう読書の方法論としてどのようにして読み進めていけばいいのかが分からなかった。しかしながら,最初の木々が十字に並んでいる写真,次のページに映る表紙と同じやすの姿をみたときにしばらくページを進める手が止まった。

表紙にも映るこの写真は発売前からネット上で何度も目にしている姿だし,実際にこの本の厚みや重量感を初めて感じたときにもまじまじと味わっていたつもりであった。

本をひらき最初に目に映る「LIFE IS YASUDA SHOTA」という文字のフォント,紙の感触,におい,めくるときの音が改めて散々みたやすのこの姿へ改めて惹きつけるのだった。

このとき,ボクは今までに無意識に貫徹してきたいわゆる「読書法」が飛び,指を彼の顔に這わせた。

今までやったことがないけど,自然と彼の顔に触れてどんな肌質をしているのかだとかその肌は冷たいのかなとか,髭はややカタめなのかなだとか,髪の毛についている雪の粒たちをとろうと長い髪の毛の間に四本指を入れて指櫛でまくりあげたら溶けた粒の冷たい水を感じるのかなとか,実は髪の毛もカタめなのかなとそんなことを考えていた。

そんなことを考えながら写真集を読み進め,2時間くらいかけてようやく最後のページにまでたどり着けた。全ページを通して刮目させられた。

ボクは写真集の批評とかレビューとか今までに1度もやったことがないし,芸術の何かに秀でているワケではないので我流にはなってしまうけれど,ボクのとりわけ気持ちをキュッと握られたところの感想とか感じたことを書いていこうかなと思う。

写真集界では常識なのかどうか分からないけれど,この本にはページNo.がない。なので「今,このページのこと話してるよ」という合図が彼の姿とその背景でしかそのヒントを出せない。

なので,これもまた我流というか,ボクのなかでの言葉や表現にはなってしまうけれど,なるべくこの本を手に取れる方々にとっては共通認識できるように情景や彼の姿,表情などを最初にひいてから話していきたいと思う。進め方はページの通り順番に辿っていく。

表紙と同じ画角,顔の半分が前に隠れ,髪の毛の先端に施された緑色の隙間からちらっと歯が見え...

ボクは初めてこの写真集の表紙を目にしたとき,ボクのなかでやすの印象というのはにっこりとした笑顔であったために「らしくないなー」というのが正直なところの感想だった。だけど,彼の当時の境遇であったり苦しみについてを様々な媒体から見聞きすることで,これが今の彼の顔なんだなと,納得というか,「そういうことなんだな」と,自然と思うようになった。

今回の写真集はいわゆる喜怒哀楽でいうところの「哀」なのかなと思っていたところにこの写真をみて,なんだか久々に「いつもの」やすに再会できたような感じがした。髪型やノーメイクな感じ,そして背景はいつもと違うけれどニコッと笑う口角の上がり方だとかはやはり変わらない。

けれど,心なしか目がその「いつも」とちょっと違う感じがする。表現が合っているかどうか分からないけれど,エイトがクロニクルとかで使っていた語彙を借りるところのバッキバキな感じ?

様々な困難を乗り越えてのこの時なので,まだ脳の腫瘍は100%安心しきれるほど回復はしていないだろうに,また,レントゲンやEMIなどの最新技術を総動員しても見ることのできない深いところでまだ負傷を負っているのかもしれない。

癒えの最中にいるのか,それともこのふとした笑顔が今の完全体なのか,正直どちらなのか全く分からないし,この両方に優劣をつけるワケではないけれど,少なからず,ボクがこれまで長らく見てきたやすのこの表情に再会できた感覚がして,とても嬉しく思ったのがこの写真だった。

氷のうえに横たわり,牙のようなものが生えた三叉路のような形をした木を中心に据え...

冷たい氷のうえに横たわり,切ない表情を浮かべながら向こう側を見つめるやす。横から彼の姿を,この角度からまなざすことで彼の顔の輪郭を感じる。

真っ直ぐ伸びる顔の輪郭に指を這わせたくなるようなスッと綺麗な骨格に意識を向けつつ彼の首から上を見つめたとき,ボクは彼の「頭」を感じた。

綺麗な顔だなという感想はずっと前から思っていたけれど,この悲しげな表情もあって,このやすは一体なにを見つめているのだろうと思わせられるのと同時に,「やすの頭のなかには一体どのような過去や情報,心を大きく揺さぶる感覚が残っているのだろう」とふと考えてしまう。

いまでも無事に生きている彼の姿を見てとることができて,綺麗な顔つきの彼をまなざすことができるけれど,この時のつい最近を考えると,大事な記憶がきっと数えきれないくらい詰まっているであろうその脳に問題を抱え,実際に頭を切り開いて手術を施していた。これを思うと,意味合いは違うかもしれないけれど,まなざしている自分もこのやすのような表情を浮かべずにはいられない。

けど,この写真を見て「やすだなー(笑)」と思わせられるところがある。偶然なのか意図的なのか分からないけど,彼の右手の指先がハートをつくっている。指ハートとこの表情の組み合わせは今までに見たことがないけど,そういった常識であったり分かりやすい論理の外で振舞う彼のこれまでを思うとなんだか「らしいな!」とも思わせられる。やはりやすは此処にいるんだなと改めて思わせられる写真であった。

雪景色,真っ直ぐに伸びる足跡,黒に身を包んで空を仰ぐやす...

雪景色などといった真っ白の世界のなかにいるやすの姿といえば,ボクのなかでは「Snow White」(懐かしい!)が思いつく。最近(でもないけど)の曲でいうところの「今」も,真っ白な衣装で歌い踊る姿が印象的だ。

いずれにせよ,白いモコモコの衣装を着ていたり,ピョンピョン飛び跳ねながら笑顔を振りまく姿が白の下にいるやすの姿だとボクは思っているのだけれど,この写真では全く違う彼がいる。

真っ白な雪景色のなかを,その白さと全くもって対照的な全身真っ黒の衣装に身を包み,ポケットに手を突っ込みながら歩み,空を仰ぐこの姿は新鮮なはずなのだけれど,このページにたどり着く頃にはもう既にギャップをギャップとして感じなくなる。

もはや外見や身なりというよりも,目に見える彼の姿から内面や視線の先など目に見えないところを想像する。

これまでにたくさんの曲を作り,たくさんの詞を書き,パフォーマンスの全方面において秀でて,質的にも量的にも多くの表現を持っている彼は,この雪景色のなかで何をどう感じているのか。そこまで辿り着くまでの途中の道のりで何を考え,どうしてその場で立ち止まり,空を見上げたのか。めちゃくちゃ寒そうな景色の割にあまり着込んでいない感じがするけど寒くないかとか,純粋にそして自然にそんなことを考える。

近くの海からさざ波が見えるような気がするけど,この寒空のなかまだ海が凍っていないのと同じように,やすもこの寒さに負けない何かを燃やしながら歩いているのだろうか。

真っ黒の背景,ボヤけ,白を纏うやすの姿

真っ白な北の大地から,暗闇以外に自然界にはないであろう真っ黒の世界に白を纏うやすの姿ひ光が照射される。

依然として,緊張感を帯びる表情であったり何かに怯えるような姿がそれまでの見開き2ページに映し出されるなかで,ここに映るやすの姿はボヤけていて,ハッキリと見てとることができない。

ボクは初めてこのやすの姿を見てしばらくして,息を飲んだ。

(ボクはまだペーペーどころかまだ卵の段階だけれど)研究者という存在は「不思議」をもたらす何かしらの現象や事象に対して,因果関係などの何かしらの関係性を様々な既存の理論や事実などと照らし合わせて納得する何かを見出そうとする。

「なぜこの生命の息吹を感じさせるやすの姿をモヤっと写すのか」と最初は理解ができなくて,その理由を考えてみたときに息を飲む。きっとこれは,病で苦しんでいた頃の彼の視界を表しているのではないだろうか。

すばるの退所会見のときにやすが怪我によって欠席したときに「え?大丈夫なの?」とeighter全員は思い,後に明らかになったやすが脳に患った病の事実。彼の病気は時折(または往々にして),命に別状があるという訳ではないがこのように視界がボヤッと霞み,気づけば意識は遠のいて意識を失ってしまうという事実をどこかの報道で聞いたことがある。

特に何かしらの病気を抱えていないボクをはじめとした多くの人たちにとっては非現実的ではあるけれど,このような視界や見え方というのはやすにとっての現実なのであろう。急にこのような視界に移り変わったとき彼は何を思うのであろう。

前ページでは強張った表情や祈りを乞うような姿が見受けられるけれど,霞んだ2つの姿には澄ました表情を浮かべているとボクには感じられる。

とはいえこの,彼の現実や見え方を写しているのであろうという考え方はボクの推測に過ぎない。他にも何かしらの意匠がこの写真のなかに隠れているのかもしれない。

やすの写る写真のなかでこのようにしてピントをズラし,ボヤけている写真はこの見開き1ページが唯一である。これを見たあなたは何を思いますか?

ボヤけた背景に,やすにだけピントが合う,黒の毛皮(?)に身を包み,長い髪の毛は片目を隠し,口を半開きにしてこちらに視線を向ける

黒色の,毛皮のような衣に身を包み,自然をバックに映し出される彼の姿からは野性みを感じる。

一方で,これまでの彼の姿と見比べてみたとき,ここに写る彼の髪は洒落っ気きかせたようなパーマ感が出ていたり,眉毛が綺麗に整えられていたり,それまでにたくわえられていた顎髭がきれいに剃られており,人工的な施しをみてとることができる。後にも先にもこういった施しを感じられる姿はこの見開き,およびこのパートのみである。

ここまで,人間としての安田章大を見つめてきたが,ここでは「アイドル」という肩書きを想起させられる。

この意匠の意味だけ,どうしてもボクには分からない。なぜここだけ人工的に施された綺麗さを表象しているのだろうか。撮影者である岡田敦さんにその理由を聞いてみたいし,ここに映し出されていたときの思いや,この写真を通じて伝えたかったメッセージは一体何なのか,やすにも聞いてみたい。

彼に目を向ける白馬,笑顔のやす

最後に,白馬と目を合わせながら満面の笑みを浮かべるやすの姿に注目したい。

ボクはやすが満面の笑みを浮かべたときにできる目元のシワを見るのが好きで,同性でしかもおよそ20も年は違うけれども「かわいいなー笑」と長年純粋に思わせられていた。この思いはボクがエイトにハマった小6のときから変わらず思い続けている。

そんな今までの彼の満面の笑顔をサングラスなしに見れることが少なかったなかで,この写真をながめるだけでも『LIFE IS』を購入して良かったと思わせられる。

白馬というのはジャニーズを代表として王子様の象徴がある。それこそ,堂本光一や中島健人,(やめてしまったけど)手越祐也といった面々がまず先に思いつくのだけれど,正直これまでに白馬×安田章大という組み合わせを考えたことはなかった(白馬×大倉忠義 は考えたことあるけどこれはきっと「ヤスコとケンジ」の影響。大倉は王子様ではない(男eighter的知見))。

けれど,この写真をみて「らしいなー!」と思わせられるのは,ここに映る白馬に人工的な施し(毛切ったりとか,綺麗に映るよう技術的な写り方に工夫を施しているとか)がされていなかったりだとか,やすの髪の毛から風を感じられたりだとか,あと,よく見てみると彼の爪にネイルが塗られていたりだとか,という点にある。それまでのやすのことを考えると,ヒゲ剃ってよーだとかもっとポップな服着てよーとか,もしかすると色々思ってしまう方もいるかもしれないけれど,深くやすと接する安田担からすると笑顔ひとつで違和感も何もなく「やすだー!!」と思わせられる。

今のやすを思わせられる一方で,過去のやすも思わせられるこの写真こそがまさに「蒼写真」だなと心から思う。

『LIFE IS』で語ったやすの言葉と彼の死生観

 彼の写真集『LIFE IS』は多くのメディアで大々的に取り上げられた。そのなかの一つであるan・anには制作陣(アートディレクターの中島英樹さんと写真家の岡田敦さん)と共に語るやすの姿がピックアップされていた。ここには彼の死生観と今後を生きる上での信念や想いが語られてり,ボクはそのそれぞれに胸を打たれるのであった。

(中島:そもそも病気がわかった時はどういう心境だったの?)
焦ることも心配も不安も、なかったですねぇ。
(p.65)
脳の腫瘍のMRIを見て、僕、めちゃくちゃアートだなって思って、写真撮らせてもらいましたからね。先生には驚かれましたけど。
(p.65)

 病気を宣告させられたときにどのような心境を抱いたのかという中島さんからの質問に対するやすの「不安もなかった」という回答はボクにとっては非常に意外だった。

 ボクは昔からやすという人はいかなるときもずっと楽しみながら,何かに熱中になりながら毎日を過ごし,そしてこの先の未来にも彼にはやりたいことは山ほどあって「できるだけ長く生きたい!」と心から願う人で,死はなるべく避ける人だと思っていた。

 けれどもそんなボクの予想とは裏腹に彼にとっての死とはそう恐れ慄くものではなく,むしろ多くの人にとっては忌まわしき,死へと追いやる腫瘍の姿をみて「めちゃくちゃアートだな」と思えるところが驚きだし,とはいえたしかにこっちのほうがやすらしいなとも思わされる。

2度も命をとばしかけながらも生きている自分って何なんやろうって、あらためて見つめ直した時、生かされてた自分の使命を考えるようになり、この経験を誰かに届けられないかと思うようになりました。
(p.67)
そこからアイドル・安田章大を、偶像ではなく人間像に切り替えなきゃっていう考え方に変わりましたね。
(p.66)

 ボクは最近大学院のゼミで井上俊という社会学者の「死にがいの喪失」という論文を読んだ。そのなかでは,戦争を経験した人にとっての死とは身近なものであり,死の淵に立つからこそ自身の死を受け入れるための「死にがい」を探すとともに生きることへの希求が芽生える一方で,それ以降の戦無派とよばれる戦争を経験していない人たちにとって死はそう身近なものではなく,むしろ遠い存在であるが故に,戦中派と比べて「生きがい」を見出せない人が多い...ということが語られている。

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 きっと多くの人々(とくに若者)にとって死の淵へ不可避的に追い詰められる経験をした人はそう多くない。それに他者の死が間近にあるというような世界でもない。

 この論文は今からおよそ50年前の論文ではあるけれど,これは決して「古いし,私たちには関係ない」と捨てることはできない。死と生についてひとまず考えてみるきっかけを与えてくれる論文だ。

 戦争ではなく病によるものではあるけれど,やすも一度は死の淵に立った人だ。だからこそ今まで当たり前のように行ってきた「生きる」という営みを再び考え直し,そこで見出した答えが「”死”を伝える」という普段のボクらにとっては遠くにある存在を示すという結論に至ったのである。

 そのためには,今までに貫いてきた自身の見せ方を変え,ぶりぶりしたアイドルとしてではなく,あくまで今を生きる1人の人間としての姿を見せていく。

 彼の今後を生きる上での熱い信念と想いがここに込められているのである。

やすの与えてくれる勇気とは

 セクゾの曲で『麒麟の子』という曲があり,そこでは「ただ従順なだけでいなさい 何の疑問も抱かずに」「やっとわかったのね 逆らうほど孤独になる 誰も君の 味方になんてなりはしないよ 異端児なんていらないの」という歌詞があり,ボクにとってはこの言葉たちはめちゃくちゃ重く心に響いた。

 何かに追い詰められたり埋もれそうになってしまったりするとき,「死にたい」までは皆が思わないにしても「しんどいなー」と思うときは誰しもが経験することだろう。出る杭は打たれるだとか,同調圧力だとかはボクにとってはしんどいし,そう思う人も少なくないと思う。

 そんな世の中で「生きがい」を模索するときにやすのどこまでも自己を貫く姿は,見つめていると自然に勇気を取り戻すような感覚を覚える。

 ボクの研究室の先生の『生きる意味』という本のなかでこういうことをいう。

しかし、人間には、そもそも誰にもそれぞれの色があり、においがあり、癖がある。そして人間の魅力は、その人の人格的なにおいや色と切り離せない・魅力的な人というものは、近くとくさいなとか、何かあの人の色に染められてしまうのではないかというぐらい、個性的な色やにおいを持っているものだ。(p.26)

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 これまでに出会ってきた大人たちのなかで「魅力的な人」であり,くさくもあって染められてしまいそうになるほどの威力をもった人間は,ボクのなかではやす以外にあまり思い出せない。他の誰かからもどこかの点において実存的な影響をもらっているだろうけれど,具体的に「この人!」と胸を張って自信を持って言えるのがやすなのである。

 それは,今までもそうだったし,今もこれからもきっとくさいほどに魅力的な人,大人としてボクの心のなかで輝き続けることだろう。もちろん,やすと出会えた数えきれないくらいほど多くの人たちの心のなかでも...。

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