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大学2年生、春にやってきた鬱🌸

2024年、大学2年生(進級3年生)の春休み、ちゃんと鬱になった。というかごめんなさい鬱の定義が私の中ではっきりとしたものではないので、完全に鬱状態に入り込んでいたのかわかりませんが、ただWikipediaに載っていた精神疾患一覧のいくつかの言葉は私のその時の状況に該当するものであったのは事実です。

結局鬱状態ってどんなもんなのか。そもそも春休みに入る前の時点でその予兆みたいなものはありました。それは「死ぬことが怖くなくなった」時です。ただちょっとまって、これは結構論理的思考に基づいた考え方なんです。そうなんです。考え方の入り口は「私は生まれながらにしてこの日本という地にいる」からです。日本は安全でご飯も美味しい、水も飲めて仕事の選択肢が沢山あるという、決してこの地球という惑星に暮らす多く人々…もっというと多くの生物が経験できることではないものが当たり前のようにある国に私は生まれた。そこで私は沢山の出会いをした。沢山の友人ができた。沢山の美学に触れた。沢山の目標があり、沢山の夢も生まれた。そして私は家族にも恵まれた。別に大金持ちってわけでもなければ、有名人の親を持ったというわけでもないが、毎日寝る場所があり学校にも連れて行ってもらい、家族はいつも私に愛情を注いでいてくれた。そして何より私には妹がいる。私にとって妹はかけがえのないとんでもなく大切な存在なのである。最強ザ妹。そんな妹がすくすくと育っているのを私は見ることができ、それは時にとてつもなく恵まれていると感じる。このようにして私にとってこの人生はすでに完璧に近いようなもので、もちろんこれよりもっと生活が豊かになることに越したことはないが、もうこれ以上求めるのはなんだかバチが当たりそうな予感がする。そんなわけで私の人生は全てを超越したような感覚を持ち始め、もういつ死んでも正直なんともない状態までなった。これが私にとっての「死ぬのが怖くない状態」。ただ今思い返すと恐らくこの心情が鬱の予兆であったと感じる。なんとなく。

そして春休み、鬱。鬱到来。私の場合それは人間関係やお金、大学などの問題ではありませんでした。それはただただ私の内側から発散したものでした。ええ、大学にはちゃんと行っています。ええ、私の親も妹も健康です。ええ、友人関係も順調です。ええ、卒業した後も友人とは何度も遊んでいます。ええ、趣味も沢山ありとても楽しいです。ええ、YouTubeの収益もあります……
恐らく鬱状態というのはこのような「事実」とはまた無関係な方向で私を襲っているのかもしれません。というか事実とは無縁な存在のような気がする。事実殺し。特にその時私の頭を掻き乱していたのは死です。キャッチコピーを付けるとするなら、生きると紙一重の存在、「死」。我々が人生を歩むとなった時に重要な要素となる目標や夢、後悔、幸福、環境などなど。鬱はこれらを超越した存在として飄々と玉座に座っており、見事に全て飲み込んでしまってます。と、なるとそこに残されたのは生きることとそしてどこぞの破壊神が言っていた世の中のバランスを保つために存在している死ぬという対になる存在だけが取り残されているんですね。私は今生きている。で、鬱によって苦しめられている。ではその対をなす死を選択すれば少しは楽になるのでは?とこんな具合です毎日。自殺願望?…ええ確かに近いかもしれませんが、そもそもこの世から離脱する理由もないのです。言ってしまえば生も死も、最終的にそれらも含めてただの事実に過ぎず、次第に鬱はそれすらも飲み込みます。死ぬ理由を失ってしまったが故に生きることもわからなくなってしまったのでしょうか。「生きること」って言い換えれば「どのように死ぬか」、的なことじゃないですか。ひたすら死に走り続けるのが生きるなんですよ。なんて紙一重。まぁちょっとこれはロマンチックになりすぎた高校生みたいな思考でちょっとダサいですが。高校生ごめんなさい。

で見えてきたワードは「真実」です。あぁ、世の中を核を突くたった一つの存在「真実」。これが朧げに現れ私の脳内を歩き回ります。ただ真実を結局どう調理したかったのか未だにわかりません。真実を知りたかったのか?真実を創りたかったのか?真実がわからなくなったのか?真実がわからないのかすらわからないです。という感じで私の興味関心は長年「事実」の傘下にありましたが、ここで「真実」へなんとなく移住。なぜなら「事実」は鬱により機能しなくなったと感じだからです。



とまぁ、今ここです。はい、完治せず。結局は答えに辿り着けていませんね。春休みの途中から東京旅行行ったりサークル活動に熱心になったりと色々したので心身ともに今はだいぶ楽な感じですが、まぁ恐らくまだ鬱状態っちゃ鬱状態。鬱って途中下車できるんですかね?できるなら多分やったほうがいいかも。死という人間誰しもの天敵であるはずの存在がなんとも思わなくなるこの感覚は初めてです。そしてこれが嫌とか良いとか、そんな次元にないのです。これはあくまでも考察ですが、なんか自分の個性が制御できなくなってしまったんじゃないんですかね。これ、鬱ね、私の内側から生まれてきたものなんですよ。内側で関係性持つものってそれ即ち個性ですよね。個性のプログラミングに何かしらのズレが発生しちゃったのではないのかと思うんですよ。アイデンティティというかね。使用しているプログラミング言語では動かない機械やらを動かそうとでもしたのか(表面的な理系炸裂)。個性の話で言うと、もしかしたら外側の影響もあるのかも。私は高校の時は工業系だったのですが、大学からは芸術系の学部に入ったんです。私はよく「個性的」とか周りから言われてきましたが、その学部には「個性的」だらけなんですよ。しかも各々またベクトルの違った「それ」を持ち合わせているんですって。で、最初はそれはめっちゃいい環境で自分に適した場所だと思いました。生徒たちが作った作品を見て講評会したりグループワークで企画考えたりと、生徒間で色んな刺激があり自分が成長している感覚を肌で実感したんです。それは別に今でもそうです。ただ。最近。もしかしたら。それに打ちのめされてる感は、正直あるのかも。上級生になってみんなどんどん作品を創り出し、表現においてどんどん自分という存在の咀嚼と露出を繰り返している。そしてそこでそれを見て、揺るぐはずのない、というか揺らいだ経験のない個性が揺らいでしまったのかもしれない。結構周りに影響されやすいタイプなんでね頭では思ってなくても。鬱状態は言い換えれば自信なさげな状態なのかも。で、そして「私」という存在が見ている唯一無二の「私という世界観」ではこれらのこの自信やら個性やらは「真実」に関することであったのかもしれない。真実は一つであると同時にその数は人の数に比例していると私は思っている。真実が他の人とも重なり合うのはコナンが劇中で犯人を特定するときだけだと思います。まぁあれは事実沢山並べてできた真実だから、ここで言うニュアンスとは全然違うけどね。

あぁ、わかりました今のところの答えとしては自信欠落状態ということだと思います。そしてそれは表現をするという面で。もうほんとに自分の作っているYouTubeの動画とかなんも思わんくなるよ。あれやってる俺すごいでやってたのにずっと。だから最近はもうバイト代稼ぎになってしまっている。かなり大衆に寄せた内容にしなければと思ってしまっている。良いのか悪いのかはさておきこれはまた「事実」。ただこれもまた事実なので鬱にまた飲み込まれてまた何にも感じなくなるんだろな。なんか迷惑系YouTuberのフォーミュラが完成したかも。
多分今までの自分に戻りたいと思うならとてつもなくでっかい事実が必要な気がする。でっかい山登るとか、恋人を持つとか、川に流されるとか、無免許運転とか、ゲイに囲まれるとか、PPAPのパロディ作って本家越えるとか、失笑で骨にヒビが入るとか、大江裕に追いかけられるとか、初対面本名当てクイズとか(当てないと帰れない)、そしてこれらを継続的に。え、やる気ですか?そんなもんないですよ。だって鬱なんだもん🎶

ごめんなさいこれに関しては元々根っからのめんどくさがり屋だからってのもありますすみません。

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