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ミモザ・シンクロニシティ

これで学校という場所で卒業式を経験するのはきっと最後だろう。友人の多くはこの先、何回も何十回だって学校という場所で卒業式を経験する。そのたびにきっとこう思う。”辛いことや我慢のならないことがたくさんあった、誰にも気づかれず涙を流し、歯を食いしばって過ごした時間もあった。けれどそれらは今日という日のためにあり、そして今日から始まる明日への架け橋となるに違いない。あの子たちにもそうあってほしい。”と。

”これまで過ごした時間は今日のためにあったに違いない”と疑いもなく感じられる人のために卒業式は用意されている。”今までした苦労は決して無駄ではない、明日はきっと輝いている”と斜め上を見上げ続けられる人かどうかを見極める最後の試験が卒業式は設えられている。そうした人たちは卒業式が終わった後は学校へは戻らない。自分の経験を外へ開き始めて、旅行やらさらなる資格試験へと繰り出し自分磨きを怠らない。

「ミモザ狩りをしよう」留年をして人より長く大学にいたヒナタをそう誘ってきたのは同じく人より長く大学にいたマリだった。もっともマリの在学期間が長くなったのは留学をしていたからである。数字だけで判断することの落とし穴はこんなところにも潜んでいる。数字が語る物語まで考えないとその人物のことを計り損ねる。マリはアートマネジメント学科で主に国際芸術祭のキュレーションや助成金がうんたらかんたらといったことで実際に運営団体でインターンシップをしながらその経験をもとに卒業論文を書いたそうだ。小柄で、フェミニン(こんな風に表現することをマリは嫌ったが)な彼女からは想像もできないほどエネルギッシュで直截に判断と行動を続けるマリの姿にヒナタは何度も光を感じた。

映像学科で映画批評家になりたいなぁと漠然と思っていたヒナタは大学2年のある日、教授に勧められた『勝手にしやがれ』という映画のDVDを借してもらって観た。別に何か感銘を受けたとか、稲妻に打たれたとかまったくもってそんなことはなかったのだが、なんとなく借りっぱなしにしてなんとなく今日まで来てしまった。そしておそらく今日が大学に来る最後の日ではあったのだが、DVDを持ってくるのを忘れてしまった。いつになったら怒ってもらえるのだろう。そうこうしている間にマリの所属する研究棟の下に集まって、いざミモザ狩りが始まった。

マリは小さなハサミを手にもって、ヒナタは特に何も持たずに歩いた。春休みで時々びゅうっと風が通り過ぎる構内は、もう何百年もこの時間だけを繰り返しているかのような心地がした。マリとヒナタは時々「桜はまだ咲かんね」とか「梅はもう葉っぱじゃん」とか「風やばっ」とか、ただ見えたものやただ聞こえたものについて話した。ヒナタはミモザという花がどういうものだったのか知らなかった。知らなかったからただマリについていくしかなく、マリが時々立ち止まって植物を眺めるたびに(これがミモザか・・・?)と思ったが、どの植物もマリのハサミは向かわない。かくして構内が被疑ミモザで埋め尽くされ始めようとした頃にマリが「そろそろミモザの方へいくか」と言った。

「ミモザどこにあるの」ヒナタは自分たちが目的に向かって迂回していたとは思っていたなかった。ヒナタはすぐに結果を欲しがった。一度だけ批評誌に『勝手にしやがれ』の評を投稿したことがある。あとから知ったがその雑誌は批評家としての登竜門として名高い雑誌らしく、ヒナタのような勉強もせずただのらりくらりとした空っぽの精神の持ち主の書いた文章はものの数秒で棄却されたことだろう。それにヒナタは『勝手にしやがれ』が国内外問わず数多もの批評家の目と言葉を潜り抜けてきた作品だということも今でも知らないほどには幼かった。雑誌に自分の批評が載っていないことを確認したヒナタはいともたやすく映画批評家になることを諦めた。

卒業式にこれまでの自分の経験を悲喜こもごも総じて美化して感謝を述べられるほどの時間的中身をヒナタは持ち合わせていなかった。自分は結局報われてはいけない人間なのだ、端っこの人間なのだという自己意識にヒナタは気づいていない。ただなんとなくマリに言いたいことがあるような疼きを覚えるものの、その疼きを言葉として塑像する技術も、たとえできたとしてもそれを口にする勇気も、その勇気を振り絞るためのいかなる論理も思想も持ち合わせていなかった。ただ、マリが迂回していたことがなんとなくうれしくて、そして一緒にミモザへ歩き始めたことがなんとなく寂しかったことだけヒナタは覚えている。

そして二人はマリの研究棟に戻ってきた。研究等の入り口の脇に生えているのがミモザなのだった。マリはミモザを丁寧に探りながら、チョキンチョキンと剪定しながら片手いっぱいになるまでミモザを狩った。マリがミモザを狩っている間、やることがないことに気が付いたヒナタはなんとなくマリの写真を撮り始めた。ミモザ越しに写真を撮るのは楽しかった。次はどの辺を切ろうかと思案しながらも時々カメラの方にポーズをとってくれるマリ。卒業式が終わって数日たった学校というのはこういう光景を何百年も何度も何度も繰り返しているているのだろうか。だとしたらその時間が自分たちも仲間に入れてくれたりはしないだろうか。

チョキンチョキンとミモザが切られる。

ヒナタはしがみつくような気持で写真を撮った。

チョキンチョキン。


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