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TureDure 14 : ようこそ即興の三叉路へ(後半戦)

ほりこーきが当てどもなくあちらこちらと周遊する根も葉もないパルプ随想録「TureDure」、およそ1ヶ月ぶりの更新です。ちょっとねGWとかも挟んで5月病というか、だらりんとしていたりしていました。あいも変わらず毎日のように勉強会を続けており、家には次々と本が届く始末。そんな今回は以下の記事の続きです。

何を隠そう僕の専門はインプロと呼ばれる即興演劇なわけで、それを本業にも副業にもしているし、何よりライフワークとして探求していきたいのです。しかし、僕のインプロの知識はまだまだ浅い。と言うわけで特に演劇の文脈における即興的実践についてその歴史を大まかに概観していたわけです。

前回の記事では、「即興」(=improvisation)とは、型がないこと(完全に自由であること)を必ずしも意味しないことから、即興的実践は三叉路にぶつかることを述べました。

では、その三叉路とは一体何なのか、私たちはどのように即興を捉えてきたのか、その入り口を一緒に覗いて行ってみましょう。
そんな私たちの水先案内人を務めてくれるのは「人格」(Chracter)という概念です。この概念とどのように付き合って行くかが特に最初の分かれ道を決定します。

1つ目の道;「Traditional Theatre Training」 通り

私たちが1つ目の道を進んでいくとそこは「Traditional Theatre Training」と言う通りでした。その通りでは即興は「パフォーマンスのための準備あるいはパフォーマーたちを統べる(Tuning Up)方法」として用いられます。この即興的実践がどのような文脈に位置づけられるのか、著者たちは次のように述べます。

私たちはこれ(筆者注;パフォーマンスのための準備あるいはパフォーマーたちを統べる(Tuning Up)方法としての即興)を(スタニスラフスキー派の)“キャラクター”作りの流れか、もしくは、俳優をキャラクターの“リアリティー”に入り込ませる戦略的方法として位置付けることができるだろう。(IID,P.4)

このトレーニングにおいては想像力のスキルや、適切に感情を引き出し表現するスキルの向上が見込まれるようです。すると水先案内人である「人格」がポツリと語り始めます。

「この通りでは私は決定論的な立場で理解される。かのD.H.ロレンス殿が言うように私は“変わることのない自我という使い古されたパーソナリティー”なんだ。だからなのかこの表現は写実的になったりドキュメンタリー的になって、本当の私ってものを探すのさ。」

私が「何を言っているのか分からない、私は私でしょ?」と返しても「人格」は黙ったまま、道を引き返し、もう1つの通りを案内してくれた。

2つ目の道:「Perhaps Anti-Tradition」通り

2つ目の道に差し掛かる時「人格」はぼそっと「ここは少しラディカルなんだ」と言った。私はラディカルという言葉の意味がよくわからないまま連れられるままに通りを歩いた。ここでは「Improvisation」は社会的なパーソナリティーの安定性や“中産階級”を立派な立場だということを事実だと考える常識を覆そうとする実践と次のように結びついたようだ。

個人のアイデンティティの一貫性や階層の序列と意味の一致に関する政治的・宗教的・哲学的神話の価値を極端な形で刈り取った。例えば、アルフレッド・ジャリ、アントナン・アルトー、サミュエル・ベケットの仕事はこの不安定化を前傾化させ、発展させた;それはまた、演じることに対するよりラディカルな身体的・即興的なアプローチを要求した傍ら、驚くことではないがこれらは最終的には台本化され、演劇の一形式として受容された。即興に取り組み、即興を伴う作品はそれ自身において、そしてそれ自身のための形式として発展し続けるべきであった(IID,P.5)

私は「人格」のことがよく分からなくなってきた。今私たちを案内してくれているこの「人格」とは、誰のことなのか、何を名指しするものなのか、世界がぐらついて吐き気を催した。これ以上深入りすると嘔吐してしまうので、私は疑うのをやめることにした。

3つ目の道:「Para-Theatre」通り

元の三叉路に引き返すと吐き気は遠のき、ずしんと背中にのしかかる宿命のような感覚も、私の身体の物的安心感も戻ってきた感じがした。平和な感覚がしたが、この感覚こそが壊すべきものなのかもしれないなと私は感じたが、そうするとまたあの吐き気が来る気がして、黙ったまま「人格」のそばに立っていた。
最後の道である、「Para-Theatre」通りに進もうとした時。

「ここはもっとラディカルだ」

「人格」がそう言うので私は怖くなった。ラディカルの意味はあいも変わらず分からないけれど、私はラディカルに怯え始めていた。だから「どんな感じなの?」とはじめて通りに入る前に様子を確認してみた。

「自己という存在の不安定さを引き受けつつも、その不安定さを前向きに使おうと考える、あいのこだ」

「人格」が少し気の抜けたような調子で言うもんだから私は通りを歩み始めていた。何やら、演劇以外の人たちもこの通りにいて、演劇をしているんだけど、それはどこか軽快なスキップをしているようにも見える。どうやら次のような通りのよう。

この取り組みはキャラクターのリアリティではなく、パフォーマーのリアリティにフォーカスを当てている;この文脈において、(筆者注:パフォーマーのリアリティーは)パブリックシアターとして創発するのだ。パブリックシアターは、物語の表現とは対照的に、ハッキリとした観客との関係性における俳優たちの真正性や発想によって成り立つ。こうして、即興とパフォーマンスは成長過程としてみなされ、それ故に演劇の文脈を超えて、例えば、サイコセラピーや教育、そして政治へと拡張していけるのである。(IID,P.5)

この観客もパフォーマーも一体となって、その関係性から生じてくるあらゆる演劇的な試みを「人格」は眺めていた。「もうここでは居場所はないのかもしれないな、実は。」とぼそっと呟いていた気がした。

この通りでは皆が軽やかに、しかし熱くその新しさを語る様は何か、はるか遠くの時空を超えた声を聞いている気がした。中にはヴィクター・ターナーという人がこのpara-theatricalな実践を宗教的な祭事と重ねあわせており、新しいわけではない、むしろ後退ともいえるんだと言っている人もいた。

私はよく分からなかったので、足を止めることなく、引き返した。私が引き返しているということは先ほどの人の観点からすれば前進しているということになるのだろうか。

Improvisation

「人格」は最後にジョン・マーティンという人のことを教えてくれた。彼は即興の実践をリハーサルとしての即興とパフォーマンスとしての即興とに分けて説明してくれているようだ。

そして即興の実践はヨーロッパにおいても稽古としてだけでなく、アウグス・ボアールさんのフォーラムシアターような観客の介入に反応するような即興もあるし、観客の状態を即興的に感受する日本の能のような即興もあるし、お決まりのキャラクターとして観客と即興的に関わる南インドのカタカリのような即興もあるし、名前の付いていない即興もたくさんあるそうだ。

私はつい、「じゃあ即興て何なのさ!」と言いたくなったが、何だか不自由な気がして言うのをやめた。

リハーサルとしての即興(プロセス)もパフォーマンスとしての即興(プロダクト)も同心円状に位置しているようだが、それぞれの立場からはかけ離れたもののように見えるものなのかもしれない。

私は三叉路が急に1本道のように思えてきた。





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