若さと幼さと認知のゆがみ

もう三十路となってしまったわけだが、まあよく「そうは見えない」と言われる。

ある程度会話もして、親しくなってから年齢の話をする。

私の普段の言動がそう思わせるのかと思うと、年相応に振舞えていないのかと気になって、素直に喜べない。

ひとまず事実として顔や体形は20代とまだそんなに大きく変わらないから、褒められたことにして反応しておく。

実際のところはどんなふうに見えていて、どう感じて、その人はその言葉を口にしたのだろうか。

いざ問いを文書化してみると、「若い」の発言の前提にそんなに大した思考があるわけではないと思う。

実際に「なぜそう思ったか」と尋ねたら、「なんとなく」とか言われるだろうな。

具体的かつ無難な回答としては「肌が綺麗」。体形のふくよかさが目立つ方への誉め言葉のイメージ(これこそ偏見に対する偏見、私自身としては体形より食生活だと思う)。

具体的な回答が得られないまま自分で考え出すと、たどり着く可能性のひとつは「にじみ出る幼さ」。

言い方を変えれば「にじみ出る精神年齢の低さ」。

他にも「思考の柔軟さ」「フレッシュ」「素直さ」「緊張」「焦り」。

いくつか挙げたが、果たしてこれらは誉め言葉だろうか。

誉め言葉でなければ悪口なのかというと、そういう風にも思えない。

少なくとも言葉だけで見れば公平な評価に思える。

そもそも「若い」というのはあくまで事実というか現象というか。悪意をはらむような言葉じゃない。

人と比べて年齢が高いか低いか、それだけだ。

何と比べているかは発言者によるのだが。

先ほどの会話の中での「若い」であれば、見た目と比べるか、実年齢と比べるか。

自分と比べて若々しいということかもしれない(それは文脈的に失礼にあたるので、おそらく違う)。


単語に意味を込めるのは文脈で、文脈を構成するのは人だ。

そういう文脈を含んだ文章をたくさんやりとりして、人間はコミュニケーションをとっている。

些細な違いは誤差として処理されるけれど、積み重なれば前提にある互いの意識を疑うこととなる。

「疑う」なんて言い方はネガティブなイメージだが、私には相手を誤解したまま付き合いを続ける方が全くどうかしていると思われる。

完璧な理解はあり得ないし、人間は日々変化している。

相手と自分の変化を認めながら、お互いをすり合わせていきたい。

価値観や感性や、人間としての違いを感じていきたい。

そういったところが私の願いであり、趣味とも呼べない趣味である。

これはまた別の話だが、疲れていると、いつも通りの相手の言葉が、やけに自分の弱点を突いてくる気がする。

そういう時はぼんやりと「あ、認知のゆがみ」と思う。

認知がゆがんでいるぞと意識するところまではいくのだけれど、いったいなぜ自分の精神がそこまで追い込まれたのか、後から考えると分からない。

このようにブログを書いていれば、その時々で考えていたこと、感じやすかったことなども整理していけるだろうか。


今回はお互いの言葉に込める意図について書いたけれど、受け取り手のテンションや状況によってもまた変わってくる。

コミュニケーションで生まれる感情や状態は、関わる人間の状態によって変わってくるということは忘れずにおきたい。

全ての可能性を考えて生活して、果たして情報処理が追い付くだろうかと疑問に思うけれど。


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