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2年間の留学を経て思うこと。

これはこの名無しの文無し、の中の人()が、実際に2年間の留学が終わって帰ってきた時の感想と言うか詩と言うか、です。
マジ話ですね。こんなの書いて残すのもこっぱずかしいですがまぁ、忘備録と言うか。残しとこう、てなもんなので別に無理して読まないで大丈夫です。

で色々あったんですがまぁ楽しかったですよ。
オーストラリアとニュージーランドにそれぞれ1年ずつ。
割といまだにちゃんと英語も喋れます。
この写真も自分で撮ったやつ。
誰がどこで撮っても綺麗な写真が撮れる、素敵な島で撮った写真です。
興味ある人はハミルトンアイランド、でググって、コロナが落ち着いたら行ってみて下さい。客として行くと馬鹿高いけど。わかりやすい楽園ですよ。

では。

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今現在帰国して3週間経った。
今ではあの日々が、ニュージーランドやオーストラリアの日々が本当に遠く感じる。
ふと口から英語が出てくるのが確かに行った、あそこに住んでいた確たる証拠なのだろう。
携帯の中に残る写真はまるで他人事の様に瞬間を切り取り、ただそこにあり続けている。その瞬間の笑顔と共に。

この2年を経て自分は何を得たのだろう。

友人、生き方、尊厳、誇り、希望、諦観。

その全てが集められて、濃縮されて吸収されて1つになっている。まるで何か…そう、色々な栄養素を混ぜ合わせて自分の肉体を維持している様な気分。
これら全ての要素を再分解し、組み上げて1つの形にした物を、心と呼ぶのかもしれない。

ニュージーランドで見上げた朝日が、オーストラリアで見送った夕日が、オークランドですれ違った雑踏が、ハミルトン島で目を細めた木漏れ日が、全てが額の無いジグソーパズルの1ピースとなって宙に浮かぶ。
永遠に完成される事のないこのパズルが、新しい風景や色が、自分、と言う個体の新たな配色となってただそこに存在している。

ここにあるのは積み重ねられた経験であり、記憶。
過去は決してこちらに手を出してこない。
…こちらが手を出さない限り。

ふと気付いて目に止めた雲は過去にも、今まさに違う場所にも同じ物が流れているのかもしれない。が、それに気付く事はない。気付く、なんてそんな無粋なことするもんじゃない。

少なくとも挑戦はした。少なくとも険しい道は歩いた。少なくとも誰かが笑顔だった。

海外に出た意味は大きかったのか?
それを決めることすら自分で行う。
行き過ぎたセルフサービスは日本じゃ流行らないけれど、確かにテーブルに座って出された物を疑問無く食べ、時に味に文句をつける、そんな無意な時間は過ごしていなかったかもしれない。

これを生かすか殺すかすら自分で決めていいのだ。
これこそが自由であり、恋い焦がれるものなのだ。

この世で金を稼ぎたい、沢山の人の羨望の眼差しが欲しい、お金持ちになって理想的な生活がしたい、なんて大それた事は思わなくていい。
ただ
清く貧しく美しく楽しく、粋に生きてこそ立つ瀬が浮かぶ。

これが海外で得た全てであり、今の俺の全て。
残念ながらこのお話はまだ終わりが見えず、もう少し歩かないといけないらしい。

だったら歩こう。歌いながら踊りながら叫びながら泣きながら。

全ては自分の物であり、また全ては誰かのものであるなら、笑顔を忘れず冷静に、踏まれる草の音に耳を傾けながら、体重をかけてゆっくりと、確かな大地を踏み締めて。


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電波ですね。でもそんな自分がわりと好きです。あはは。

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