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自己憐憫ミルクレープ

『自己憐憫ミルフィーユ』の方が語感良く思えたけれど、近くのパテスリーを回っても販売していなかったので、『ミルクレープ』にした。

他にもある

先日、オンラインコミュニティ前田デザイン室のプロジェクト「ぬけだ荘」の宣言で、「自分にウソをつく事からぬけだしたい!」を記事にした時、『自己憐憫』になっていた事について書いている。

https://note.com/kokemusume/n/ncf14e1820c58

大阪へ移住し、長男を出産した事で起きた『可哀想な私』なら、指摘された時に直ぐに気がつくこともできたのではないだろうか?

何度も何度も指摘されても気づかなかった『自己憐憫』。

もしかしたら、色々な『自己憐憫』が、ミルクレープのクレープと生クリームのように幾層にも重なっているのではないかという「仮説」を立てた。

上層部分

ミルクレープでいうと、この辺り

「見映え第一」
キレイに焼き目のついたクレープを最上部へ置き、その下辺り。 

突然のギックリ腰

長男が2歳の頃、年度末にギックリ腰になった。
その頃、大阪市更生療育センターというリハビリ施設へ週3日間、長男と一緒に母子通園していた。

年度末が近づき、今年度のPT(理学療法)、OT(作業療法)、ST(言語聴覚)それぞれのリハビリの切り替わり時期。
療育センターの卒業は突然言い渡される。
なぜなら、リハビリを受けたい人数に対して、受け入れ人数が少ないからだ。

もしかしたら、来年度は無いかもしれない。
そんな中でギックリ腰。

「長男にリハビリを受けさせたい」と思う私

乳幼児は、沢山の事を吸収できる時期であり、リハビリという専門家と過ごせる唯一の子ども時代
(当時は、保育園や幼稚園、小学生以降はリハビリに通えなかった)

親としての期待ももちろんあったが、それより長男が少しでも生き易くなったなら…。
長男が少しずつ、身体の使い方を覚えてきた時だった。

定型発達の乳幼児が、自然にステップを踏んでステージを上がっていく事をリハビリでは、専門家がスモールステップに分解して、専門家の大人が介しながらも「本人が自然に気づける環境」を作っていく。

当時、本を20冊も30冊も買い、読み続け、
インターネットで調べ、
医科大学病院主催の勉強会に参加していたけれど、
家庭だけの支援では、やはり難しい。

専門家の専門家的な支援が必要だ。
当時の私は、そう強く思っていた。

そう強く思った私は、ギックリ腰で2週間安静にと言われていたのを無理をして、長男をリハビリへ連れていった。

結果、ギックリ腰が悪化した。
(自業自得である)


もうひとりの私は「休まなければ…」

自分の身体を労りたい、ギックリ腰を治したい…
医師から4週間安静に、安静期間が増えた。

長男を単独で預かってくれる施設は無かった。

当時住んでいた大阪市内の区では、定員が一杯で、一時保育をしている公立の保育所も私立の保育園も無かったのだ。

民間の託児施設は、障がいを持つ長男を預かってはくれなかった。

静養する方法は、ただ一つ。
実家に帰ること。
でも、帰りたくなかった。

母が椎間板ヘルニアの治療を受ける為に、私が幼い頃、長期に渡り家を空けた記憶。
そして、その母が家を空けた期間に、父が浮気をした嫌な記憶が蘇る。

それでも休まなければ。
そう思い、実家に電話をした。
帰省と宅配以外で電話したのは、これが最初で最後かもしれない。

「ギックリ腰になって、少し回復していたけれど、長男を看ながら、静養することが難しい。
しばらく、茨城へ帰りたい。」
たぶん、こんな感じで伝えたと思う、電話に出た母に。

でも、母に断られた。

当時の母は、体調を崩し、寝たり起きたりしている生活。
予測はしていたが、やはり何処かで期待していた。

もう、何処にも頼れない。帰る所も無くなったと思った。

『天涯孤独ではないのに、同じような感覚持っちゃった可哀想な私』の層、だろうか。


中層部分

ミルクレープでいうと、この辺り。

もう、お腹いっぱいな感じだけれど、中層部。
幾重にも重なっているからこそのミルクレープ。


弟(三男)との関係と記憶

私が、5歳半の幼稚園年中組の時に生まれた弟。

生まれたばかりの弟ともう直ぐ年長組になる私では、自分自身で客観的に見ても、弟の方に母の関心が向くのは仕方ないよな、と思っていた。

ただ泣いている弟と1人で着替えられる私
ただ泣いている弟と1人でご飯を食べられる私
ただ泣いている弟と1人でお風呂に入れる私
ただ泣いている弟と1人で体温計で熱を測れる私

何もできない弟と1人で大概の事は出来る私。
諦めるしか無かった。


弟のお迎え

私が小学4年生の頃、同じ町内で引越。
弟は保育園の年長組。私が幼稚園へ行く前に通っていた保育園に通う弟。
公立の保育園だったが、園長先生も同じ先生だった。

その頃、母は、仕事をしていた。
引越した家から保育園が近く、子どもの足で歩いて10分以内。

私が小学5年生になって、弟を保育園まで迎えに行くことになった。
洗濯物を取り込み畳むのも、私の仕事になった。
もちろん、毎日。

弟を迎えに行くと、友達とは遊べない。
3月生まれの弟を連れては、友達と遊べなくなった。

いや、遊んだ。
友達と遊びたかったから遊んだ。
弟を保育園へ迎えに行き、新しい家に弟をひとり置いて。
(今なら、6歳の子どもを家にひとりで置いておくのはコワイと分かるけれど…、いや、当時もなんとなく分かってた)

弟を家に置き、ひとりにしたことがバレて、母に怒られた。

それからは、弟を置いて遊びに行く事はなくなった。

翌年、弟は小学1年生になって、保育園へのお迎えは1年で終了した。
が、弟と家で留守番をするミッションは続く。

『小学生なのに友達と遊べない可哀想な私』の層、だろうか。


下層部分

ミルクレープでいうと、この辺り。
(ここまで読みすすめて下さってありがとうございます)

土台部分。上から見ると隠れて見えない。
だからこそ、記憶はほとんどないけれど、鍵になっているかもしれない部分。


記憶がない

中層に出てきた弟は三男である。
ということは、他に弟が2人、長男と次男がいる。
戸籍上だけ、だけれど。

私が3歳過ぎたくらいの時に、母が妊娠した。
田舎の個人院の産科で診察を受けていた。
(後から母に話を聞いていたので覚えている)

ある日、母は出血をしたらしい。
その時、妊娠8ヶ月。

今から42年も前の話だ。
田舎の個人院の産科に、エコー検査が出来る機械など無い。保育器もなかった。

母は妊娠を継続できなかった。
その時、初めて分かったこと。
弟たちは、双子だった。

この頃から数年の記憶が、私にはない

3歳の頃、ちゃぶ台の上でピンクレディのダンスの真似をして踊っている私の記憶。

その後の記憶は、三男の弟を母が妊娠しているくらい。

42年も経過しているから、忘れてしまっている訳ではないのだ。
幼稚園年長組の時の私にも、その頃の記憶が無かった。

母は、私が大人になってからも私に話ていた事がある。
「もし、設備の整っている総合病院で診察を受けていたら、双子の弟たちは助かったかもしれない」

きっと、ずっと母は辛かったんだと思う。
今なら、そう思えるが、母が生きている間、私は心からそうは思えなかった。

『よくわからないらないけれど記憶がなくて可哀想な私』の層、だろうか。


三層ではないかもしれないけれど

大きく分けると三層くらいだろうか。
これら意外にも細かい自己憐憫が重なっているように思う。

『こんな可哀想な私』が幾重にも重なって、強固たる鎧を作り上げていった。
ように思う。

一度や二度や三度や四度、五度や六度…
『自己憐憫な態度や物言いは、やめなはれ』
と言われた所で、
「ハイ!分かりました!」
と治せるどころか、
自分自身のどんな態度が自己憐憫で、どんな物言いが自己憐憫なのかさえ分からず、
心の片隅で『こんな可哀想な私を責めるなんて…』と思っていたのかもしれない。

かもしれない、というのは、本気で気づいていなかったのだ。

自分の事を『可哀想な私』と思っていることすら気づいていなかった。

だから、何度言われても上の空で、何も改善することが出来なかった。

鎧の無くなった今なら分かる。
ミルクレープように幾重にも自己憐憫が重なっていたこと。
自分を可哀想に思っていたこと。
自己憐憫に浸っていたことを。

まだあるだろうか。
もう終わりにしたい。もう終わりにする。

たった一度の人生。自己憐憫に浸っている時間なんてない。

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