出来合いの感傷

 鼻先を掠めた影を目で追う。眼鏡に手をかけた頃にはもう、ピントの合わない部屋の中へ滲んでいった。これで私の就寝時間は一時間は延びた。虫が苦手なわけではないが、自分の領域でぶんぶんやられると気になって何も手につかなくなってしまう。鼻の両側にかかる圧が均等になるよう片手で調整をしながら、部屋中をぐるりと見渡す。テレビや本棚の輪郭は定まったものの、真夜中の侵入者の姿は見当たらない。探し回るうちに自然と舌打ちが出てしまう。
 田舎の古いアパートなので覚悟はしていた。目ぼしい隙間は塞ぎ、戸や窓の開閉にも気を使っている。それでも防ぎきれない、それも承知のうえで越してきた。この舌打ちはアパートに対して出たものではなく、異形の居候に対してのものだ。
 キッチンの窓のサッシに小さな丸い窪みがある。そいつはいつからか、そこを寝床にして周囲に目の粗い網を張っていた。確認したことはないが、それが外に繋がっていて、そこからやって来たのかもしれない。だとすれば、侵入者への備えとしては好都合だと、同居を許すことにしたのだった。
 もう一か月ほどは経っただろうか。そいつの成績はとても芳しいものとは言えなかった。蛙の合唱が壮大になっていくにつれ、侵入者は徐々に増えていったが、そいつの捕物劇はおろか網に囚人が繋がれているところを見ることも出来なかった。どうやって食いつないでいるのかはわからない。もしかしたら得物は糸ではないのかもしれない。ともかく、何時見ても、どんなに私が近づいても一向構わず呑気にしているのを見ると苛立たしいような、何となく力の抜けるような気持ちになるのだった。からかい交じりに息を吹きかけてやれば申し訳程度に身を縮めるのが愉快でもあった。
 ある時、仕事に向かう準備をしていたら、居間でそいつと似た侵入者を見かけた。他の侵入者と同じようにティッシュで包んで圧し潰したが、ふと、もしかするとそいつの番いだったりするのだろうかという考えがよぎった。もしそうだとすれば、繁殖をしてしまったら。蜘蛛の子を散らすという言葉がある。今晩帰ったらそいつの処遇を決めよう。そう思っていたのを忘れたままにしていた。
 サッシの前に立ち、そいつを見下ろす。未だ何も捕らえたことのない、なまくらにぶら下がって呑気にしている。ふっと、短く息を吹きかける。やはり、ふると身を軽く震わせるばかりで、目と鼻の先の窪みに隠れることはしなかった。ティッシュを持った右手をゆっくりと伸ばす。先に穴を塞いで、からめとる算段だった。
 指から枝垂れた白が糸に触れた。瞬きの後には姿が消えていた。窪みをのぞき込むと、微かに足先が見えた。計画では、その足はティッシュの上を経て外の夜闇に降ろされるはずだったが、頓挫してしまった。
 もちろんそうなる可能性もあるだろうとは思っていた。その時にとる行動も決めていた。もう片方の手にはスプレー缶が握られていた。ティッシュと持ち替え、穴を見つめる。そこからのぞく足先が動く気配はない。もう一度右手を伸ばし、スプレー缶のノズルを向け、指先に力を込めた。

 結局、私の鼻先を掠めた羽虫は見つからず、布団にもぐりこんでしばらくが経つ。暗闇の奥に滲む天井に向けて、右手を翳してみる。利き手の人差指に、硬いスプレー缶のトリガーの感触がいやに残っていた。それを消してしまいたくて親指と擦り合わせてみる。この感触が消えるのも、消えないのも嫌な気分だった。水で漱いだらいくらかマシな気がしてキッチンに向かう。電気はつけないまま、指先だけを濡らして再び床についた。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。