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普通じゃない勉強と行動が、ヒトやコトの構造を浮かび上がらせる。一見結びつかない半導体産業とビジネスコーチングを繋ぐポイントとは?(1/5)

株式会社WAVES代表の近藤氏は、半導体材料の輸出入・開発支援という盤石な事業がありながらビジネスコーチング事業にも乗り出している。その背景について聞いていくと「リセット」「勉強」「実践」「着想」といったキーワードが浮かび上がってきた。どんな人となりでどんな事をしてきたのか、コーチングとは具体的に何をしていくのかを掘り下げていきます。
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お寺の子、ギリギリになって家に帰らない選択をする

─本日はよろしくおねがいします。まずは今やっている事を教えてください。

近藤:近藤弘潤と申します。株式会社WAVESの代表をしています。弊社では主に「半導体材料の輸出入・開発支援」と「ビジネスコーチング」の、2つの事業をやっています。

─何やらすごく難しそうですね。普段あまり身近ではないことをなさっているので、近藤さんがどうして半導体やビジネスコーチングをやられているのかを、今までのご経歴と併せて伺いたいと思います。よろしくお願いします。

近藤:よろしくお願いします。

─さっそくですが、小さいときのことから聞いていきたいと思います。近藤さんの幼少期は、どういう感じのお子さんだったのでしょうか?

近藤:実家がお寺なんですけども、お寺の長男として生まれて、いろんな人に知られていましたね。

─いろんな人に知られている?

近藤:普通、子どもが生まれたことを知っているのって親戚くらいまでじゃないですか。でも、私のことは村人みんなが知っている。「あそこのお寺についに長男が生まれたよ」みたいな。

─なるほど。

近藤:待望だったかどうかはわからないですけど、村のみんなには知れ渡っていますね。例えば、自転車に乗って村を駆け回っても、出会う人みんなに認知されているという世界です。おっちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん。みんなに知られていましたね。

─それってどんな感覚なんでしょうか。常に緊張感があるとか?

近藤:緊張感というか、自分のことを知られている世界が基準でした。それこそ隣町の大きなスーパーに行って初めて、自分のことを知らない人に出会うという感じです。普通の子どもだったら、自分のことを知っている・見られている範囲は家の中ぐらいのものだと思いますが、私の場合は半径1〜2kmくらいまでは知られていて。そこからさらに離れて、ようやく自分を知らない人の割合が多くなっていくという状態でした。

─全然想像がつかないですね。今振り返ってみると、自分の性格や価値観に影響しているものはありますか?

近藤:「見られているから、変なことはしちゃダメだな」という抑制は入りますね。

─別に監視されているわけじゃないですけど、何かやったら「寺の子が何かしてるわ」って言われてしまうような世界にずっといたんですよね。

近藤:そうです。でも、お寺の法事で数百人くらいの大人が集まったときは、私がワチャワチャ遊んでいるのをみんなが微笑ましく見ていてくれる、というのもありました。

常に見られているという感覚はありましたから、高校を卒業して大学で京都に行ったときは気持ちの軽さが出ましたよね。「見られていない世界だ」みたいな。

─大学からは誰も自分のことを知らない世界に出て行ったんですね。

近藤:そうですね。誰も知らないところに行った、という経験は結構大きかったかな。

─大学入学を一つの転機として、いろいろなことが変わったという感じでしょうか。

近藤:小さいときから人の目があったので、人に気を遣うようになるというのと、良くも悪くもお坊ちゃまみたいなことになってましたね。分け隔てのない感じになったのは高校や大学以降です。

─分け隔てない感じというのは?

近藤:特別扱いされない世界ですね。直接的に何かをされたわけじゃないけど「お寺さんの子どもだ」という変な空気感はありました。それで、高校・大学以降は「ただの人」という扱いに変わりました。とはいえ就職するまでは「お寺さんの子だからね」という枕詞のようなものがずっとありました。仏教系の大学だったからというのもありますが。

─「寺の子だから」という言葉にどういう意味が込められているのかイメージがつかないのですが、「ちゃんとした子」とか「賢い子」といった意味合いでしょうか?

近藤:それは親も言いますね。「お寺の子なんだから」「見られているからちゃんとしなさい」と。

─そういう感じなんですね。

近藤:世間体がどうこうみたいなことは過剰に言われていた記憶があります。それに対して「世間体ってなんやねん、そんなん知らんわ!」と反発することもよくありました。

─では、寺の子としてちゃんと生活を送ってきたというよりかは、反発していた子どもだったんですかね?

近藤:家の中では常に反発でしたね。学校の通知表には「すごい素直です」と書かれましたし、先生に反発した記憶はないのですが、家では常に押し付けられることへの反発をしていました。だから反発する一面と、素直な一面が出たり入ったりという感じでした。

─反発してきた中で、印象的な出来事はありましたか?

近藤:神社のお祭りで、毎年秋まつりでお神輿を引くというようなイベントがあったのですが、寺の子だからという理由で参加させてもらえませんでした。宗教が違うんですよ。お寺によっては参加させてもらえる子もいますが、うちの場合は「寺の子なのにそんなのアカン!」と言って禁止されていました。それで、自分の生まれのせいで選択できないことがあるということを自覚しました。別に、秋祭りに行くのは宗教的な気持ちがあるからではなく、お友達と一緒にワイワイしたいだけなのに、それを許してもらえない。だから、基本的には反発しないけど、自分の選択を妨げられるようなときは「どうして自分だけなんだ!」というのはありました。

─じゃあ普通の子どもよりも選択肢が狭いと感じることが、高校生くらいまではあったんですね。

近藤:あったかもしれない。周りの人はそう思っていなかったのかもしれないけど、自分としては、なにか違う境遇なんだろうなという感じです。

─クリスマスとか、夏祭りとかもそうですもんね。

近藤:クリスマスプレゼントも当然ありませんでしたね。でも大学で、私と同じような寺の子と話していて「うち、あったよ」「なんで?」みたいなやりとりはありました。だから世間とちょっと違っているとか、みんなにはあって自分には無い経験というのは結構ありました。

─なるほど。高校や大学の進路は、自分で選択できたんですか?

近藤:それは自分で決めました。でも、どうせ寺を継ぐだろうなと思っていたので、それに合わせて大学を選んだりはしました。

─そのときは、まさか自分が半導体に関わるなんて一ミリも思わず、大学を出たらそのままお寺に戻ると思っていたんですね。

近藤:そうです。

─大学を転機に、自分の知らない外の世界に出てみて、どんなことが変わりましたか?

近藤:当時、クラブ系の音楽が好きだったので、クラブでバイトをしていました。それがすごく楽しくて、それこそ週末は夜中から朝までバイトすることもありましたね。そのときのオーナーさんに「お前みたいな寺の子は全然苦労もせずに育ったやろ」ということをよく言われていまして。実際に自分でも気遣いが全然できない人間だと思っていましたから、気遣いとかはその仕事の中で身につけさせてもらっていました。そうこうしているうちに「このまま社会の苦労も知らずに実家帰るのもなぁ」と思いはじめて、じゃあ就職しようかなと。

─そうだったんですね。両親からは反対されたんじゃないですか? それこそ寺の子がクラブで働くことも、就職して家に戻らないことも。

近藤:いえ、バイトのことは特に報告していなかったので、反対も賛成もなかったです。ただ、就職するときは「家帰ってくると思っていたけど」って反応はありましたね。

自分自身でも帰るだろうと思っていましたし、まさか外に出ることになるとは、という感じでした。だからいざ就職しようというときも、会社選びなんて全然してなかったんです。私は1年留年しているので5回生だったのですが、年が明けてもうすぐ卒業間近ってタイミングになって、やっと学生課に行って相談しに行ったというくらいです。

─本当に間近ですね、3月末で卒業ということは、1月くらいに就職すると言いだしたってことですよね。

近藤:はい。ずっと外に出たいなあとは思っていたけど、日に日に「俺このまま卒業したら実家に帰るのか」という思いや臨場感が増してきて。

(聞き手:Shovell インタビュアー 加美雪絵)
https://twitter.com/proud_career

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