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ブルーピリオド展が教えてくれる、「表現・不安・ネガティブケイパビリティ」

現在開催中のブルーピリオド展がすばらしかった。漫画を読んだ方は必ず行ってほしいし、読んでない方はぜひ読んで行ってほしい。
っていうか行ってくれ!!たのむ!!!!
と懇願したくなるレベルで、すばらしかった(2回言う)。

漫画の原画を解説付きで展示する…みたいな単純な企画じゃなく、「漫画の登場人物」「過去の芸術家」「現代の芸術家」そして「漫画の作者」の「ブルーピリオド=青の時代(不確かな青春時代)」を、映像・絵・文章・音声さらには制作過程の鑑賞っていう稀有な鑑賞体験を通じて追体験できる構成。かなり練られている。

会場で、表現者たちの「ブルーピリオド=青の時代(不確かな青春時代)」に触れることで、訪れた僕ら自身も、かつての(もしかしたらこれから訪れる、あるいは今経験している)「青の時代」についてつい思いを馳せてしまう。「あ〜、あの頃しんどかったなぁ」とか、「自分の青の時代はいつ来るんだろうか」とか。

そうなのだ。アートをテーマにした漫画の展示なのだけど、ブルーピリオド展はすこぶる「表現するという生き方」について考えさせる展示なのだ。もっといえば、「表現するという生き方における、青の時代」について、考えさせる展示なのだ。


「表現するという生き方」なんていうと、「別に自分は表現者じゃないし」って思う人もいるかもしれない。だけどここはひとつ、人生がひとつの物語で、その意味で僕らは誰もが表現者だって考えてみたい。だとすると、ピカソにとって「青の時代」が必要だったみたいに、誰もに「青の時代」があるのだとも言える。

つらく苦しいその時期を経て、ピカソの作品が奥深くなっていったみたいに、人生という物語が奥深くなるためには、「ネガティブケイパビリティ」、つまり「青の時代」の不安をガシッと受け止めて、逃げずにとどまる力が必要なんだろうな。『ブルーピリオド』の主人公、矢口八虎が悩みながらも表現を続けてるみたいに。

何気に僕も、写真という表現についてかなりもがいてる。ちょっとした青の時代だ。思うようにいかなくて、自分の表現っていうものがつかめなくて、くるしい。そのくるしさの先に、光があると信じて進むのみ、である。





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