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カウンセリングに行き始めた。

「誕生日から十月十日(とつきとおか)ひいた日が、ほんとうの誕生日だと思ってる」

という話を友だちがしていて、なるほど、まわりが「この日が誕生日ね」って指定する日を素直に受け入れなくてもいいんだな〜、おもろ!と思った。

住民票なんかにも書いてある、他人が「この日があなたの誕生日ね」っていう日が“客観的な誕生日”だとして、「自分はこの日を誕生日とする!」っていう、“主観的な誕生日”があってもいい。

俵万智さんだって、七月六日をサラダ記念日に(勝手に)制定したし、僕だって、すきに記念日をつくってもいいはず。それでいうと、僕の“客観的な誕生日”は12/20だったのだけど、“主観的な誕生日”は今日、12/22でもいいのでは?と思っているんである。

なぜか。ひとつは先週自分のために買ったプレゼントが今日届いた(ええ感じのサングラス)のと、もうひとつは、過去の自分との出逢い直しをはじめた日だから。

今日からカウンセリングに行き始めたのだ。

以前から、人間関係において気になる自分の特性があって、その根っこにはちいさいころの親との関係だったり、傷つきがあるんじゃないか、ということは思ってた。

とはいえめっちゃしんどい!という状況にはなってないので、ほおっておいたのだけど、今は時間にも余裕があるし、いろんなカウンセリング体験記(植本一子さんの『愛は時間がかかる』や、土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』など)を読んで、自分もやってみたいなあと思って、えいやと申し込み。そのクリニックはえらく人気なところで、申し込みから最初の面談が2ヶ月くらい先になったのだけど、それが今日だったのだ。

詳細を書くと長くなるので、またいつか、という感じなのだけど、1時間ちょっと、自分の家族構成や生育歴、こまりごとなどをカウンセラーの方にじっくり聴いてもらうなかで、「やっぱり、まだ癒えていないなにかがあるなあ」と感じた。これから1ヶ月に1回くらい、カウンセリングに通いながらむきあっていくことになる。

なんだかカウンセリングというと、「そんなつらい状況のか?」と思うかもしれないけど、ぜんぜんそんなことなくてですね。むしろ日々しあわせで、どっちかというと「いまも最高だけど、向き合ったあとはもっと最高の毎日が待ってるかも」という期待感があるから受けてみた、というかんじ。なんか、そういうポジティブな感じでカウンセリングをうけてみるのもアリなかんじだと思うかんじなのだ。

そんなわけで、これからあたらしい自分との待っていそうな予感がある。いや、今日、あたらしい自分が生まれた、っていうふうにも言えるかもしれない。おめでとう、おれ。よい人生の旅路を。



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