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コロナの反動で「会う」が飽和することの、楽しみと不安。

ちょっと気がはやいけど、コロナ禍がおちついて、気兼ねなく人と会うことができるようになったときを想像してみる。すると、「飲みいける!」「旅行に行ける!」ということが楽しみな反面、ちょっと不安もわいてくる。

それはいまの自粛の反動で、「会う」が飽和すること。端的に言えば、飲み会とかイベントとかの誘いがブワーと増えること。それをなんとなくホイホイカレンダーに入れてしまって、気づいたら疲れてしまっていることへの不安、だったする。

(もちろん、会いたい人には会いたいし、誘われたら嬉しいんです。でも過去にも、「会う」が飽和して疲れてしまった経験があったなーとか、思い出しまして。)


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「関係性がだいじ」という言葉を僕らはよく使う。そのとき、どこか「多くの人と、親密な関係をきずくこと」がだいじ、っていうふくみがある気がする。

でも、ほんとうにそれがだいじなんだろうか? 

親密すぎる関係はときに共依存みたいに、おたがいを損ないあう関係におちいってしまうし、そこまで行かなくとも、「みんな仲良く」みたいな同調圧力にぐむむと息苦しさを感じた経験がある人は僕だけではないはずだ。


一方で、遠すぎる関係は孤独につながる。僕はコロナ禍で人と接する機会が極端に減って、「めちゃくちゃ楽だ!」っと開放感にひたっていたのもつかのま、しばらくすると気持ちの落ち込みっていう事態に直面した。映画を観ても心が動かない。旅に出たいという気持ちも湧かない。「あ、人との関わりがなさすぎると、心が枯れていくんだな」、ということに気づいたのだ。


人と会う、ということはストレスだ。これは間違いない。そしてそんなストレスは、ありすぎてもよくないし、なさすぎてもよくない。斎藤環さんが以前書いていたみたいに、他者と会うことはある種の暴力性をはらんでいる(それはいいもわるいもなく)。

人と会うことは気を重くもさせるし、一方でほどほど会わないことには、僕らは欲望を維持することができない。(なんのストレスもない水槽みたいな環境で生きるのがはたしてしあわせなんだろうか?)


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コロナが僕らに「あなたは誰と、どんな関係のもとで生きていきたいのか?」という問いを自分に投げかける機会をくれた。

ハーバード大の研究で「人間の幸福や健康は、年収、学歴、職業と直接的には関係く、関係があったのは『いい人間関係』だった」という結果が出たらしい。ここでいう「いい人間関係」はとうぜん、関係の数が多けりゃ多い方がいい、ってことじゃないのだと思う。

けれどもなんだか、SNSのフォロワー数の多さとかいいね数の多さとかカレンダーに入った約束の多さとかを「いい人間関係」の指標のように思ってしまってないだろうか? 

僕はSNSのフォロワーが増えただの減っただので一喜一憂してる。もう、そういうのやめたいのだけど、脳みそはきちんとフォロワーが増えるとドーパミンだかエンドルフィンだかわからないけど、そういう物質をブシャっと出して僕を駆り立てるのだ。やめてくれー!と思うけれど、脳内物質は止まっちゃくれない。

そういう、いうことをきかない飼い犬みたいな脳みそにきちんとリードをつけて、自分が歩きたい方に人生の歩みを進めていくために、「あなたは誰と、どんな関係のもとで生きていきたいのか?」という問いを、ときどき自分に問いかけてみたいと思うのだ。






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