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憂うつな自己分析のまえに、やるべきこと。

自己分析、という言葉の、つめたさはなんだろう。

なんだか「自己分析をする」というと、まな板のうえにのせられて調理される鯉になった、みたいな印象を持ってしまうんですよね。(ピチピチ)

それはそうで、調べてみると「分」はもちろん、「析」という字も、「ばらばらに切りはなす」という意味があるみたい。だとすると、僕の「まな板の鯉感」もあながち的外れではなさそう。

「自己分析をする」とは、言葉によって自分をばらばらに分けて、理解すること、と言っていいんじゃないか。

そしてそのとき、包丁を握ってる調理する、つまり分析するのも自分なわけです。自分で自分を調理している。

そう考えると、うへえ。ちょっとグロテスクな気がしてきます。

もちろん、自己分析を否定したいわけじゃない。生き方について考えるうえで、自己分析はとても大切な行為です。

でも、そのまえに、ばらばらに自分を分けるまえに、やるべきことがあるんじゃないのかな、と思うのです。


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西村佳哲さんは著書『なんのための仕事?』のなかで、「人は『思考』と『感覚』の二種類の言葉で話す」と言っています。

「思考」の言葉は頭で考えたもので、考えや価値観、過去の経験などを伝える。

それにたいして「感覚」の言葉は、頭ではなく身体からくる。

「歯が浮くような」とか「地に足がついていない」とか、身体の感覚表現を通じて本人のあり方をあらわす。過去ではなくて、「その人生の最前線から、最も新鮮な表現で語る言葉」だといいます。

時制がちがうのが大切なところで。「思考」の言葉は「過去」のことを。「感覚」の言葉は「いまここ」のことをあらわす、と。


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そう考えると、自己分析は、言葉によって混沌とした「いまここ」の自分を分け、自らが理解し、誰かも理解できる「過去」にすること、だと言えそうです。まな板の上の鯉は、「いまここ」の自分だったんですね。

だとしたら、当然、「いまここ」抜きには自己分析はあり得ない。

どんなスルメもいつかはイカとして大海を泳いでいたように、どんな「過去」も、いつかは「いまここ」だったわけですから。

だから、自己分析の前に、「いまここ」の自分であることが大切です。

具体的には、「いまここ」の自分をすくいあげて、解きはなつこと。

その、すくいあげること、解きはなつことは、言葉ではなくて、身体や感覚を通してできることな気がしています。


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インタビューやキャリアカウンセリングをしていると、身体表現に出会います。それは、「なんていうか、こうして、こういう感じなんですよね」と、手でふわっとなにかをすくいとる動作だったり。

そういう身体表現と出会うと、その人の「いまここ」が発露したことに、嬉しい気持ちになります。

自己分析をするまえに、身体の声を聴いてあげる。

わかります、これ、むずかしいですよね。ひとりではむずかしければ、だれかに話を聴いてもらうのもいいでしょう。散歩したり、森林浴したりするのもいい。

自分にとって、身体の声を聴きやすい場所や人や時間を見つけれると良さそうです。

そうした場所や人のもとで、自分はどんなときに心がおどるのか、最近どんなことにわくわくしたのか、あるいは心が重くなるのはどんなときか、など、身体と対話をしてみる。

僕の場合は散歩が、そういう時間になっています。

さて、みなさんには、そういう場所や人はありますか?







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