「自分の人生を生きれていない感覚」があるときこそ、大切な人とすごしてみる
「自分の人生を生きれていない感覚」があるのはなぜだろう。
逆に、「自分の人生を生きれている感覚」があるとしたら、それはどこからきているんだろう。
ふとそんなことを考えて、先日こんなツイートをしました。
(念の為いうと、落ち込んでいるとかじゃないんです笑 純粋な問いとして、深掘りしたいなと。僕はそういう、深掘り癖があります)
そしたら、友人からとてもハッとさせられるコメントが。その人は鍵垢なのでリンクは載せませんが、ざっくりといえば、次のうような内容です。
山中くんは覚えていないかもしれないけれど、自分が悩んでいるときに、山中くんにかけてもらった一言で救われたことがある。自分の人生を生きれてない感があるかもしれないけど、わたしの人生には山中くんは山中くんってゆう存在でちゃんと在る。人は誰かの人生の中で生きてるってことも十分あると思う。
もうね、その言葉がすごく嬉しかったし、大きな気づきあったわけです。
「自分の人生を生きれていない感覚」があるときは、自分の人生を生きているという手応えを、自分のなかにもとめていたような気がする。その結果、生きてる手応えがない、と思ってしまうこともありました。
でもその友人が言うように、他者のなかに思いもよらないかたちで自分が存在している、ということがあるんですね。
平野啓一郎さんも、TED×Kyotoでのトークで、「愛」についてこんなことを言っています。
「愛とは誰かのことを好きになることだ」。この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」と、そういうふうに考えてみたいと思います。
自分を愛するというのは、なにも鏡を見て「ああ、俺が大好きだ」ということではなくて、誰かのおかげで自分を愛する、他者を経由して自分のことを好きになれるということなのではないでしょうか。おそらくそこが、自分を愛するという入り口なんだと思います。そしてだからこそ、やっぱり我々は他者を愛するのです。かけがえのない存在として。
今回のnoteのテーマに照らしていえば、「自分の人生を生きれている感覚」、言い換えれば生きている手応えを感じるときというのは、「他者を経由して自分のことを好きになれるとき」なんじゃないでしょうか。
逆に、いくら鏡を通して自分を見つめてみても、「自分の人生を生きれている感覚」を得ることはできないのかもしれません。
だから、「自分の人生を生きれていない感覚」があるときは、自分探しの旅に出るよりも、家族やパートナーや友人や同僚など、その人といるときの自分が好きだなぁ、と思える人と過ごしてみるといい。その時間が、自分が生きている手応えを取り戻させてくれます。
さらにずうずうしく、「僕のどんなとこが好き?」って、聞いてみちゃうのもいいかもしれませんね。今度やってみよっと。
では、また明日。
サポートがきましたって通知、ドキドキします。