おじさんこそ、かわいさが必要である。
ちまたにはおじさん向けの雑誌もたくさんあって、そこでうたわれているのは「イケオジになろうぜ」、みたいなことだったりする。
僕もねがわくばイケオジになりたい。おじさんになってもモテたい。けれど、年齢的にはほとんどおじさんと言ってもいいくらいになった今、渋さやスマートさと同じか、それ以上に、“かわいくありたい”と思うようになった。
おじさんこそ“かわいさ”が必要なんじゃないか。
おじさんは、そこにいるだけである種の圧をもってしまう。たとえば20代の頃と比べて、会議で自分が話すとみんながじっと耳を傾けてくれるような気がする。「これやってね」ってお願いしたら、無茶なことでもすんなりやってもらえるようになった気がする。
ひょっとしたら、気を使わせてしまってるのかもしれない、と思うのだ。僕が男性で、年齢の、つまりおじさんだからという理由で。
存在しているだけでマウントをとれてしまう、そんなおじさんというポジションに、「これはしめたもの!」と居直る人もたぶんいる。たくさんいる。「俺が若い時は…」なんていらない説教をかましてくる人とか。正直言って、そんなダサいおじさんにだけはなりたくないのだ。
だからこそ、その処方箋としての“かわいさ”である。
たとえば「ちょっと疲れちゃってだめだ〜」と弱音を吐いたり、「前こんな失敗やらかしてさ…」と挫折や失敗体験も話したり。そうすることで、おじさん性をちょうどよく中和していきたい。
つまり、しめるところはしめつつ、弱さやダメさを垂れ流していく。弱くある、という生存戦略。でないとめんどくさいおっさん、果ては老害になってしまう気がしてこわいのだよなぁ。
けれどそれもいきすぎると、あざといおっさんになってしまう。あぁ、そんなの、考えただけでタチがわるい。今背中ちょっとゾワっとした。
むりにかわいくあろうとするんじゃなく、「男なんだからつよくあらねば」「大人なんだからしっかりせねば」とか、そういう「ねばねば思考」をほっぽりだせば、自然と人間味って滲み出る気がする。それが周りから見たら、かわいさにつながるということ。
そろそろ、強い人じゃなくて、健全によわくあれる人がロールモデルになっていいと思うのだ。
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