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僕が君で、君が僕 アゴタ・クリストフ『悪童日記』

アゴタ・クリストフの『悪童日記』について。

アゴタ・クリストフは、1935年生まれのハンガリー人女流作家です。亡命後、働きながら第二言語であるフランス語で創作し、今回紹介する『悪童日記』で一躍世界的作家の仲間入りをしました。亡命後に習得したフランス語で創作しているため文章が簡潔で独特の緊迫感を持っており、その作風は文学界に大きな衝撃を与えました。
僕もこの作品が図書館や本屋で目に入ると、初めて読んだ時の衝撃を思い出したいがために、つい手に取ってしまいます。

アゴタ・クリストフは、1956年にハンガリー動乱から逃れるようにオーストリアを経てスイスに亡命します。そこでは、ハンガリー語で作品を発表しても読者が少ないため、フランス語での創作活動を始めます。シングルマザーでありながら工場で働き、余った時間で作品を書いていたとの事。(詳細は、自伝『文盲』で読むことが出来ます。)このような過酷な状況の中で、『悪童日記』は書かれました。

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同じ時期にハンガリーからオーストリアに亡命した作曲家ジェルジュ・リゲティがいます。リゲティの代表作に『ムジカ・リチェルカータ』という11曲から成る組曲があるのですが、この曲の最初の曲は2音(“ラ”と“レ”)だけで作曲されています。曲を追うごとに、1音ずつ使用される音が増え、終曲では、12音全てが使用されています。これは、作曲当時「社会主義リアリズム」が芸術家にとって自由な表現への足枷となっており、創作活動の幅が制限されている状況の暗喩になっていると言われています。
抑圧され、緊迫した状況下で作られた作品には、簡単には真似できないシンプルさと強さがあり、『悪童日記』を読むといつも『ムジカ・リチェルカータ』を思い出します。もちろん、その逆もあります。

『悪童日記』は、疎開先として祖母の家に預けられた双子の兄弟(ぼくら)によって書かれた日記という形をとっています。徹底的に感情が排除された非常にシンプルな文体で書かれているためか、深刻なことも、そうではないことも同じテンションで淡々と書かれています。(日記というより、日誌に近いのかな?)戦時下のため、人間の残酷さや親切が隣り合わせになったカオスの中で、兄弟が逞しく冷徹に生き延びる様が描かれています。

双子が主人公のこの物語は、“ぼくら”という一人称複数で語られます。(かなり珍しいスタイルだと思います。)彼らは一心同体で、思考や行動が全く同じと言っても過言ではありません。自分と相手の境目がほとんどなく、愛情や絆とは違った結びつきをしているように見えます。それが、過酷な状況下で正気を保ち生き延びる唯一の手段だったのでしょう。

ということで、自分にも一人称複数で書いたものないかな?と考えていたら、妻と付き合っていた頃に二人で書いていた日記(のようなもの)を思い出しました。『悪童日記』と比べると、ぬるくてゆるくて、これまた人には見せられない日記です。(かと言って処分するわけにもいかない。)けど、そういう時の一人称複数は楽しいですねー。

それはさておき、この『悪童日記』のように、自分が相手を見ること(またはその逆)が、鏡を見ているかのように一心同体となり、自分と相手の境目がなくなったような様子を音楽にした作品を作りました。良ければお聴きください。

高橋宏治作曲・作詞《24 Songs for Voice and Piano (2017-2019)》より
〈 20.両方になる "Be Both"〉


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