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六本木1990-2001 跡形もないのに

今はShake Shackになっているその場所は、まだカルチェ六本木だった頃のまま六本木通りから裏通りへ突き抜けるうなぎの寝床みたいなレイアウトだ。90年代にはここはカルチェ六本木という喫茶店で1990年から2001年までの11年間、テレ朝通りのマンションに住んでいた僕は誰かと待ち合わせるとき地下鉄の真上にあるここをかならず使った。テレビ朝日六本木センターが近いこともあってか奥のほうのテーブルでは芸能人や時折新日本プロレスのレスラーなんかの姿も見かけたものだ。

そしてカルチェが満員だったりたまに気分を変えたいときにはWAVEにつながる裏道のおしゃれでこじんまりした白い喫茶店も使ったが、この店の名前がどうしても思い出せない。
WAVEといえばあの裏道にはその喫茶店以外にも年配の上品な女性が営んでいた帽子屋さんなんかもあったのだが、再開発で六本木ヒルズができて地形ごとごっそり変わってしまって跡形もない。
いつも僕は外出から帰るときあの裏道を通り、小澤忠恭さんの事務所が入っていた六本木スタジオを横に見ながらテレ朝通りへと抜けた。

僕は90年代に六本木でたくさんの夢を見ていた。今とは違う名義でモデルプロダクションの撮影やエステサロンの撮影などいろいろしながら、なんの根拠もなく写真家として本懐を遂げることを夢みていた。愛用のカメラメーカーは僕の仕事でプロ登録をしてくれたし注文に応じてカメラの細かい作動を地方の工場でチューンしてわざわざ何回も六本木まで持ってきてくれたり。そんなことがちっぽけな僕の大きな夢を支えるちっぽけな実感だったりした。あの頃はちょっとした一歩を、いや半歩を踏み出しただけでそれが未来に向けて果てしなく広がるような気がしていたのだ。けっしてそんなうまく人生はいかないという現実に気づくまでは。

夢とか希望というものは実に厄介なもので、思い入れが強いほど影のように人生につきまとう。どうにも諦めがつかないのだ。

僕はある出版社の編集者からのすすめで写真だけではなく取材して文章を書くようになり、むしろそれからのほうが周りに認められ始めた。しかもすぐに、だ。これといって編集の下積み経験などない。子どもの頃プロレスのファンクラブの会報を作ったり学生時代にミニコミを作ったりして友達には受けていたが素人のお遊び程度だ。そんな何もない僕が一冊本を作っただけで100万円を超えるギャラが入った。それまで写真ではじき出した最高額のギャラは京都の代議士のポスター撮影でもらった撮影料30万円+お車代20万円=50万円だったから、一冊だけでいとも簡単に倍以上の金額を得てしまったのだ。出版社からは「才能がある」と言われた。でも嬉しくはなかった。何度結果を出して何度褒められても。

あのさ、普通に冷静に考えてみようね。
と、僕が僕に言う。
やりたいことと求められていることが異なることが往々にしてある。その場合、求められていることをしたほうが自分も周りも幸せになれるんじゃないのか?

だけどもうひとりの僕は言う。
誰がなんと言っても自分の人生だろう。周りが評価しようがしまいが写真を撮り続けることでしかお前は本懐を遂げることはできないんだよ。

生きていくことって時に苦しいね。いや全般苦しい。

六本木に行くたびあの頃の夢心地な自分を思い出す。
そしてあの裏道を探してしまう。
カルチェからWAVEにつながり六本木スタジオを横にテレ朝通りまで抜けていく、何度も夢を抱えながら歩いたあの裏道を探してしまうのだ。
もう跡形もないのに。

model:鈴木由希奈(ヴォーカリスト)



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