みんなゲンキでバカだった。テレビと昭和2
昭和30年代の終わりから40年代の日本は、高度成長と呼ばれる世界でも珍しいほどの好景気トレンドにある時代でした。
それまでは夢の世界だったアメリカに追いつけ、そして追い抜けとばかりに日本中が躁状態。日本のテレビ番組もイケイケのサイクルに入っていきます。
テレビ初期のお笑いスターは落語家さん
いつの時代にはお笑い番組は強力なコンテンツです。とはってもまだその頃は今の“芸人”的なキャラクターがいるわけではありません。
そこで各局が目をつけたのが落語家さん。寄席でお客の相手をしているんだから生放送も行けるだろう。
という安易な発想でしたが、これが大正解。
もともとラジオの落語番組という下地もあり、落語家さんの方にも若手を中心に寄席ばかりでなく、新しい活躍の場をという欲求があったのです。
才能ある若手落語家がテレビの笑いをつくった
古今亭志ん朝師匠、立川談志師匠など当時の若手落語家は一躍テレビのスターへと躍り出ました。
なかでも古今亭志ん朝師匠は俳優としても活躍し、若い女性にも大人気だったそうです。
また、今でも日本テレビで放送されている「笑点」の初代司会者に抜擢されたのが立川談志師匠。いえ抜擢というより談志師匠が笑点を作り上げあげたといった方がいいかもしれません。
番組の企画から構成、出演者選び、さらには主題歌に至るまで深く関わっていたのです。
話術のうまさから司会者として起用されたのは、落語家から映画俳優へと転身していた桂小金治さん。ワイドショーの司会者として一つの時代を築きあげました。
お笑いから、俳優、番組の仕切り、そして司会とテレビが求める様々なパートで実力を発揮した落語家さんたち。立ち位置としては現在のテレビで活躍する芸人さんたちによく似ていますね。
クレージーキャッツという怪物がいた時代
ロックが出てくるのはもう少しあとのこと、昭和の中期はジャズの時代でした。時代の先端をいくジャズメンは若者たちのアイドル的存在。
その中でテレビ、そして映画の世界の新しいエンタティナーとなったのが伝説のグループ「ハナ肇とクレージーキャッツ」です。
後に東京都知事にもなった天才放送作家青島幸男とこのクレージーキャッツが引き起こしたブームは凄まじいものでした。
ナンセンスギャグ、ブラックジョーク、コント、米軍の基地巡りできたえた本場アメリカでも通用するリズムネタや演奏テクニック。後に日本のお笑いのスタンダードとなるほとんどが彼らのよって広まっていったのです。
それまでにない明るく乾いた笑いは日本の笑いの質を変えたといってもいいでしょう。
1億総白痴化ってなんですか
“1億総白痴化”突然そんなこといわれてもなにいってるんだかって話ですよね。これはテレビに夢中な日本人を批判した大物評論家の言葉。
ここでいう1億とは1億円という意味ではなく、当時の日本の人口が1億人を突破したことに関係しているようです。
面白さこそ正義だったテレビがヒーローだった時代
それまで主役だった映画やラジオ、新聞に代わるメディアとしてテレビ一強のサイクル。そうなるといろいろなところから反発も生まれます。一方テレビ側はというともう鼻高々状態。番組作りもどんどんエスカレートしていきます。
生番組では放送事故も頻発します。深夜の番組で女性の見せてはいけない部分が全国に放送されたり、酔っ払って放送禁止用語を連発する出演者がいたりなど。
とはいっても、ビデオ機器などがまだ普及する以前のこと。厳重注意程度で済んでいたようです。
そんな注意にも特に反省することなく、始末書上等といった風潮が当時のテレビマンにはあったといいます。番組を面白くさえできれば何でもやる。コンプライアンス的にはマズイですが、昭和という時代には今の時代が失ってしまった野蛮なほどのパワーがあったのですね。
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