ある日facebookで 1
例年になく暑かった北海道の夏は8月31日に30度を記録したのを最後に、あっさりと秋へと切り替わった。
いつかあの夏になるはずの、この夏。どこかで聞いたようなフレーズだが、ありふれた言葉にだって予想外の真実が含まれていることがある。年老いた驢馬にだって、経験から得た生きる知恵ってものはあるはずだ。
冬が終わってさみしいとか、もうすぐ春も終わりかと思うと残念だ。
聞かないねぇ、そんな言葉は。秋に至っては「もうすぐ冬だ」の一言で済まされてしまう。
夏だけをえこひいきするのは、決して僕だけではないはずだ。
いや、私はそう思わないやら、オレなんざ夏が終わると清々するぜぃ。という人の意見を無視するわけではないが、とりあえず少数派ということで、聞かなかったことにする。
その証拠に若かった頃の思い出はいつも夏じゃないか。もちろんクリスマスや新年、スキー、それからお花見。そんな年次イベントの記憶もないではないが、記憶の奥底から浮かび上がってくる季節はいつも夏ばかりなのだ。
だからといって、それが楽しい思い出だったり、辛い経験だったりといった特別印象深いものというわけでもない。
雨の中を走ったあの日のぬるくて痛いほどの土砂降りであったり、アルバイトの合間の日焼けタイムだったり、アイスクリームが目の前で売り切れた悲しさ。どれもありきたりだけど、なぜか記憶に残るいくつもの夏の日常。
逆に思い出したくもないことのほとんど冬の情景だ。例えばこんなケース。
通りの向こうに見覚えのあるコートが見えた。ほとんど黒に見えるダークブルーのヨージヤマモトは、12月のあの日から彼女のお気に入りだった。彼女があのコートを脱ぎ捨てるまでに後2週間、いや3週間はあるだろう。といって、それが彼女の唯一の冬というわけではないけれど。
立ち上がって手を振ろうとした時、彼女の後に男の姿が見えた。踏み固められ氷のように滑る雪の上を器用に駆けてきた男は、彼女の肩に手をかけ大げさに笑いかけた。すぐにそれが飯田だと気づいた。彼女も飯田に笑いかけている。
どんなに希望的で前向きな心をなけなしの勇気を振り絞って集めても、二人でいくはずだったライブがダメになった、眼の前の事実以外の理由を探し出すことはできなかった。そうかこういうことだったのか。確かめるように心のなかでもう一度。そして残念なことに、冷静に受け止めるほど大人ではなかった。
こういう時の男の反応は大雑把に2つだ。
1,怒りに任せて彼女をなじる、または相手の男に詰め寄る(オレの女に手を出すんじゃねぇ)
2.悔しさをにじませながら2人に気づかれないように姿を隠す。
ボクの場合は悲しいことにパターン2だ。そもそも彼女と付き合っていると言い切る自信さえなかった。といってもセックスは3度ほどした。身体の相性も悪くはなかったと自分では思っている。だがそこまでだ。
だから冬なんて嫌いなんだ。
苦い思い出が残るその通りは、当時オヨヨ通りと呼ばれていた。それにしてもオヨヨ通り。『なんて間抜けな名前なんだろう』
そんな理由で僕や仲間たちはホワイト通りや白札ストリートとそれぞれに自分勝手な呼び名をつけていた。こちらも芸はなく、単にサントリーホワイトをおいている店が多いという理由に過ぎないのだけど。
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