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BB ⑧ ~BB (その1)~

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BB (その1)
 
 再会をはたした、学者犬と北京犬。
 だが、絵の中の額縁にはいったふたりは、もうお互いに多くを語りあうことはなかった。
 語りあう代わりに、二匹の犬は、その絵の作者のBBの話をもっぱら聞くことになった。
 BBはもう、この世にいなかったが、彼の作り出した作品の中で、彼は永遠に語ることができるのだ。
 BBは、人にまとわるつく寄生生物の話をした。
 その寄生生物は、人にまとわりつくが、自然界の犬にはまとわりつかない。だが、人であるBBが作り出した作品である学者犬と北京犬には、それがまとわりついていた。
 なぜなら、作品はその人の分身に他ならないからである。
 そして、時に、人は自分自身を嫌うことがあるように、BBが作り出した作品である学者犬は、BBを嫌ったのだ。
 そのことを学者犬は知った。
 それはけっして、学者犬が、突然変異犬だったからというわけでもなく、「ショーガネーゼ」とよばれる成分の入ったドッグフードを食べ続けたからでもなかった。
 
 ぼくには、もの心ついて以来ずっと、周囲の人の体に虫や生き物が寄生している姿が見えていた。手で触れてみても、空を切るだけなので、それは妄想なのだろう。それに、常にそれらが見えているわけではなく、ぼくの心が高まったり、おちこんだり、通常とは違う気分になったとき、目の前の出現するのだ。
 たとえば、蝶々がある人の周囲に寄生しているとしよう(ゴキブリや毛虫は、例としてあげるには、気色わるいだろうから)。そこに鳥がやってきて、その蝶々を攻撃する。蝶々も、ただやられるわけでない。鳥に反撃する。あるいは、その人の体に、さらにしっかりとしがみつき、鳥に攻撃されても、そこからはなれまいとする。とにかく、簡単に、その人の体から蝶々ははなれようとはしない。それに、その蝶々の数は膨大で、その人の体をすべて覆わんばかりなのだから。
 それでも、ついに、その蝶々が、その人の体からはなれていく時がくる。他の人の体に集団で移動するとか、鳥に食いつくされるとか。そうすると、かわりにその人の体には、他の虫とか、蝶々を食べつくした無数の鳥とかがまとわりつく。
 あるいは、たとえば、その鳥に、誰かが外からパンを投げる。鳥は、一斉にパンのところにいき、一時的に体からはなれる。だが、パンを食べ終わると、またその体にもどってくる。
 人の体にまとわりつく鳥は醜いが、パンにむらがる鳥は、ある意味自由で、美しいともいえるかもしれない。たとえ、欲望のかたまりだとしても。
 だれか、この鳥を、焼きとりにして、食べてくれないかしら?というと、つまらないジョークと思うだろうか?でも、それはけっしてジョークにすぎないことはなく、何人かの人は、自分の体にまとわりつく虫や鳥を調理して、人に食べさせることで、実際に収入をえている。こういう人に寄生している虫や鳥は、その数が普通の人の何倍もある。そして、その種類は、例外もあるが、単一、あるいは数種類だ。多くの寄生生物がいれば、それを料理して他人に提供するという生活も成り立つのだ。また、種類が同じなら、いつも、同じ質のメニューをだすこともできる。
 だが多くの人の場合、その寄生生物は、種類が多様で、その数もさほど多いとはいえない。だが、寄生生物を体のまわりに纏わない人間は、この世の中にいない。
 ただ、人間でない者が、この世の中にはいる。人間を装った、人間でない者。魔女。彼女の体の周囲には寄生生物が一匹もいない。
 そして、君たち犬たち周囲にも寄生生物はよりつかない。君たち二人を除いてね。
 
 小さいころは、この自分以外の他の人間すべての体のまわりにみえる寄生生物は、自分の体にはついていないと思っていた。だが、それは間違いだった。
 ある夜、ぼくは、金縛りにあって、自分にも寄生するものがあることを知った。その夜、ぼくが、枕元でなった電話の受話器に手をのばしたとき、そいつは現れ、ぼくの手をつかんだ。
 ぼくに馬乗りになったそいつに、ぼくは言った。
「とにかく、話をしよう。そこをどいてくれ」
かくして、寄生生物は、他人からはみえるが、寄生されている本人からは見えないのだ、ということをぼくは知った。でも、まったく本人から見えないわけではなく、工夫すればみることができるということも、後に学んだ。
普段から、見えない自分の寄生生物を観察している人は、鏡を上手に使っているのだ。
 ぼくは、寄生生物は虫や鳥の姿をしているように、描いてきたが、必ずしもそうはみえない。様々に色がかった、もやとか霞のようにみえることもある。いずれにしても、昔から今にいたるまで、いったいそれは何なのか?ぼくにはわからない。そして、なぜぼくに見えるのが他の人にはみえないのか?もわからない。ただ、長年、それを見てきて、ひとつの仮説がある。その虫や鳥は、その人そのもののエネルギーを奪っている。まとわりつく寄生生物が多いほど、その人の「パワー」はおちる。でも、実は、パワーがおちることで、人はむきだしの力を覆い隠し、人と人、あるいは人と集団の中で、うまいぐあいにやっていけるのだ。その証拠に、寄生生物のいない、魔女のような存在は、「フルパワー」で、人間の姿をしているが人間ではない。
 とはいえ、自分が、知らないところに行ったり、いろいろな人に会ったり、新しいことをしようとするとき、あるいはひとりでいるとき、どうして自分が苦しくなるのか?それは、ぼくの体のまわりにいるが、自分からはみえない寄生生物のせいだった。この寄生生物が、増えたり減ったり、新しいのがきたり、自分から少し距離をおいたり、あるいは自分を攻撃したりしているのだ。
 自分の周囲のものはみえないが、他人の周囲のものが、昔からよく見えていたぼくには、そのことを、想像し、理解しやすかった。
 だが、病気の原因がわかっても、それがすぐ治療につながるとは限らない。例えば、スギ花粉のアレルギーがあるとわかっても、毎年スギ花粉症になるし、肺がんとわかっても治療方法がない、というようなものだ。
 でも、後にぼくの妻となるAが、ぼくにいい方法を教えてくれた。彼女もまた、ぼくのように、他人についている寄生生物が、小さいころから見えていたという。
 彼女にいわせれば、ある意味、世の中の本の中のお話に限らず、日常にやりとりされる、取るに足らないいろいろなお話であってさえも、それらは、その寄生生物たちの記録集ともいえる、という。
「ときどき、その寄生生物は、暴れ出して、自分の体にきつくしがみついたり、爪をたてたり、とがったナイフのような口で刺したりするでしょう?たとえば、外から、外敵の鳥が襲ってきたといとか、自分は疲れているときとか。そういうとき、どうしたらいいか、いい方法を教えてあげるわ」  
 傷心をかかえたぼくに、Aは教えてくれた。
「くすぐるのよ。自分の体をくすぐると、体のまわりの寄生生物はおとなしくなるわ」
 そう言って、実際、Aはぼくの体をくすぐった。
「これで、虫はおとなしくなった」
「虫?ぼくには、虫などついていない」
「自分に寄生している生物は、自分からはみえないのよ」
「あっ、そうか、そうだよね」
 Aは魔法使いかなんかで、特別な能力をもっているに違いない。ぼくが、そう言うと、Aは言った。
「そんな、特別な魔法でも能力でもないよ。ただ、人をくすぐると、寄生生物はおとなしくなるのよ。それだけのこと」
 

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