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スタートアップが仮想生命を実装する話

仮想生命を実装する。

ゲノム、染色体、遺伝、突然変異。これらをシステムに落とし込む。
「まるで生きているかのような生命体」を私たちは実装できるかもしれない。

考えてみれば、「ペットを飼う」というライフスタイルは「当たり前」ではない。
人類は当然のように変わった行為をしている。

もしもこの「ペットを飼う」というライフスタイルを「仮想生命を飼う」にリプレイスできたらどうだろう?
それは新しい当たり前になりうるか?

さらに、高度に3DCG化した世界を想像しよう。Apple Vision Proでも次世代コンタクトレンズでもなんでも良い。
任意の物体が任意の場所に出現しうる世界に、何を期待するか?

人生を賭けて事業を起こすというのに、どうしても狂ったアイディアしか出てこない。
私たちは、大真面目にバカなことをしたいと望んでいる。

今日も、心臓の少し奥のあたりに、火が燃えているように感じる。情熱が起こる。駆り立てられる。

生きている。歴史に残る事業を、歴史に残る発明を、自分たちの手で掴み取るために。


仮想生命に至る道

ものを作る時に難しいのは、野望と妥協の折り合いをつけることだ。
大きなビジョンを描きながら、些細な機能から始めないといけない。

ビジョンがあまりにも小さすぎると魅力的な進化を辿っていけないし、機能があまりにも些細すぎると誰にも使ってもらえないまま終わっていく。世界中で定着するサービスはこのバランスが絶妙だと思う。

まず作ったものは、「日記を書けばペットが育つアプリ」だった。
「ペットを介した新しい対人コミュニケーションを生み出す」というビジョンを掲げながら「日記と育成体験の融合」をしようと考えていた。

育成ゲーム×日記アプリ

様々な仮説を持って開発したが、実際にリリースしてみて、以下のようなインサイトを得た。

1. エンタメ化で日記習慣を定着させるのはかなり難しい

そもそも習慣を定着させることは難易度が高い。大きく環境が変わらない限り早起きできるようにはならないし、どうしても叶えたい目標がない限り筋トレは続かない。

ペットを育成することが日記を書くモチベーションになるためには、その育成はかなり完成度が高いゲームシステムを備えていないといけない。そして困ったことに、文章を書くこととペット育成には明確な関連性がないため、どうしても「ユーザーが理解できないゲームシステム」になってしまっていた。

2. 自己実現という欲求が根源的ではない

日記という機能に着目した時、ユーザーが満たしたい欲求は自己実現ではないかと想像していた。
何か目標を達成したいと願う人に使ってもらえるだろうか?しかし、人は自己実現を強く求めるだろうか?仮に自己実現を強く求める人物がいたとして、彼らには外的なモチベーション促進が必要だろうか?

良いプロダクトには納得感のある欲求が必要で、理想の欲求をユーザーに押し付けたのは傲慢だった。

3. 日記は書かない。けれどペットを眺める人たちがいる

「動物たちが増えました」と、スクショと共に連絡してくれる人が何人かいた。そして、自分の想定とは裏腹に、ユーザーは全然日記を書いていなかった。ただ毎日ゲットできる動物を集めるのを楽しみにしてアプリを開いてくれるのだった。

そして、にわとりにKFCという名前をつけたと嬉々として話してくれた。かばが可愛くてお気に入りだと教えてくれた。
育成をするという体験にはそれだけで継続する価値があるのだと理解した。

一方で育成ゲームによる日記の継続という機能に関しては可能性を疑わざるを得なかった。この方向性でも掴み取れる希望はあるかもしれないが、どうしても具体的な道筋が思い描けなかった。

こうして、「日記を書いたらペットが育つアプリ」の開発は中止した。


その後、少しの間プロトタイプを開発したのは、「カバと一緒にラジオ体操をするアプリ」だった。

今考えると冗談のようだが、当時は本気で魅力的なアイディアのように思えていた。
「デジタルペットと一緒に、何か目標に向かって伴走できる世界」というビジョンが魅力的だと思ったし、「一緒にラジオ体操をする」という機能はキャッチーだと思えた。

こんな感じの怠惰なカバを画面越しに飼って、一緒に運動をするアプリを考えた

しかし、周りに話すとポカンとされる確率が高かった。

DeNA創業者の南場さんと話す機会があったのでアイディアを話したところ、「私は使わない」「流行らない」「投資しない」と一蹴された。
長い1秒が過ぎ去ろうとした瞬間、このまま黙りこんで終わってしまえば、起業家としてこれから挑戦する権利などないような気がして、「いや、もっと聞いてください」と、自分たちが考える未来の可能性を熱弁した。

そこからはヒートアップしてさながら口論のようになったが、伝えたいことは全部伝えられたと思った後、「根性はあったね」とニコッと笑顔を向けられ、人生で初めて渡したWrong Inc.の名刺に目配せをされ、少しだけ救われたような気がした。

この時からだろうか、少しだけ自分が反抗的になったのを感じる。起業家は、権威に迎合してはならない。
「あなたと違って、私はこう考えています」と言えた時に初めて自分の価値を創出できる。


その後しばらくして、根をつめて開発に打ち込んだ息抜きに、宮下パークの芝生の上でディスカッションをしていた。そこでたまたま、Widgetableという「友達と一緒にデジタルペットを育てるアプリ」がTikTok上で、特に海外で人気なことを発見した。

育成体験とソーシャルアプリという掛け合わせには非常に興味があったので、大きくインスピレーションを受け、いっそ私たちも育成体験にもっとフォーカスしたいと考え始めた。

育成アプリはApp Storeにごまんとあるが、それらが提供する仮想生命のほぼすべてが、ほとんど生命感を持ち合わせていない偽物だと気付いた。

つまり、人が犬や猫をペットにする時にはその生命の維持に細心の注意を払う一方で、育成ゲーム上で生命を放置することにも、一度始めた育成を放棄してアプリをアンインストールすることにも何ら心理的な障壁など生まれないのだった。

そこで私たちは、「まるで生きているかのような仮想生命を生み出す」というテーマでプロジェクトを再始動していった。
「仮想生命が当たり前の世界を生み出す」というビジョンを掲げて、「ただ見るだけで癒される仮想生命観察アプリ」の開発を始めた。

生命とは何か

私たちの一番の興味領域として没入体験というものがある。これは、Apple Vision Proのようなテクノロジーが進歩した時に、3DCGと没入体験が新しいUXになるという未来予想図に基づいている。

しかし、そのようにテクノロジーが進歩するまでもなく、その没入体験を既存デバイスで実装することはできる。
私たちがまず考えたのは、カメラを通してこちらを観測し、マイクを通して音声を認識し、タッチすると反応してくれるというシンプルなモデルだった。

試作品の段階で会う人に見せて回ったが、「こっちを見てきて、目があう」というだけで、なんだか面白がってくれる、ウケが良いということがわかった。

また、先行研究として山中俊治先生のサイクロプスという作品があるということを知った。
それは、「人を見つめ、視線で追うだけの怠惰なロボット」ということだった。そして先生が探求していたことが、「生き物っぽさ」の抽出ということらしい。
カメラで追うというセンサー要素、そして脊椎によるアニメーションが生き物を模倣できているという。

私たちは、これを応用することができると思った。視線で追うという機能から、カメラで見つめ、そして学習・成長するという機能へ。シンプルな構造のアニメーションから、3DCGを活用した自由度が高く表現力が豊かなアニメーションへ。

さらに、以下の問いについて考えよう。
地に生える植物が生命らしさを持ち合わせていないと感じる理由は、こちらを見つめる目と自律した動きがないからではなかろうか?
もしも雑草がこちらを見てきて、目が合うと草をひらひらさせたなら、雑草を簡単に踏み躙ることなど出来まい。

センサーとアニメーションによる生命らしさ。
これらを実装していくことで、人が視覚的に感知できる仮想生命につながるのではないか。

しかしそれだけか?それだけで電子的空間に仮想生命を誕生させることはできるのか?
私が、全く同時期に抱いていた仮説はこうだった。

生命とは、遺伝システムを構成する「個」のことである。

数学的なメタファーで言うと、ベクトル(矢印)の定義に思いを馳せたい。あれはベクトル空間という空間を構成する要素、個としてのベクトルを定義する。

それと同様に、生命も遺伝システムという集合の中の個として定義できるのではないか?
父と母と、その先祖たち、脈々と受け継がれてきた遺伝情報。そして未来、私たちの先に広がる子孫、こうした集合の存在が、私たちを私たちたらしめる性質なのではないだろうか。

まず私は、遺伝を語るには教養がなさすぎたため、遺伝についての学習を始めた。
遺伝子とは何か、染色体とは何か、減数分裂とは何か、どのように遺伝的多様性が生まれるのか、どのように人は病気になるのか、ウイルスとは何か。
学べば学ぶほど、生物学の奥深さに吸い込まれていった。同時に、この仕組みはプログラムできると思った。

電子的空間では、実世界と異なり化学的な作用を起こすのは難しい(化学反応までシミュレーションするには計算リソースがかかりすぎる)というのは難題だったが、そこまで再現するというよりは、ある程度単純化したモデルで遺伝システムを実装することができると感じた。

つまり、ビット列でDNAを模倣し、特定の場所にあるデータから、例えば目の色や肌の模様を発現させられるということ。そして、交配システムを実装し、遺伝する生命体をシミュレーションできるということだ。

長い歴史の目で見ると、人が何を見てどのような動きをするかという生命らしい個の振る舞いは、種にとって取るに足らないことである。
一方で、私たちが運んでいるゲノムという命のバトンこそが、種にとっての生命の意義と言えるだろう。

これは種というマクロな視点に限った話ではない。
生命はゲノムを運ぶからこそ生きることへの執着を持ち、人類は先祖というルーツの中に自分たちの生まれた意味を探す。

生命を模倣しようというのであれば、遺伝システムから組み上げることによって仮想生命をより奥深く神秘的なものにできるのではないか。
これがどれだけ確からしい問いかけかは未だ疑問だが、一度チャレンジしてみる価値はある。

現在の育成ゲームは、システムの管理者の恣意によって管理されすぎている。そうではなく、元となるシステムを実装し、あとは生物学の仕組みを模倣して展開されるような仮想世界を生み出すということにロマンがあるのだ。

私たちがつくるもの

これまで話してきた遺伝システムは私たちが提供するプロダクトの背景となる世界観であり、むしろプロダクトが説教くさくなることは避けたいと思っている。いかに理解しやすく、使ってみたいと思ってもらえるかが鍵だ。

最初に実装する機能は以下の3つだ。

  • こちらを観察してきて、見た人に懐き、成長していく仮想生命

  • 自分のペットを触れること、指でつまめること

  • 親の特徴を受け継ぎ、友達のペットと交配できる遺伝システム

フォーカスしたい提供価値は「癒し」である。癒されたいユーザーを全力で癒すことができるプロダクトを作る。
そしてこの固い文体からは想像できないかもしれないが、「可愛い」が最大の褒め言葉である。

もふもふの可愛い子たちが誕生した

ここで、主要機能を搭載したプロダクトのデモを見せたときのリアクションの深さは特筆に値する。

刺さらないプロダクトのデモを見せた場合、ユーザーの反応は大抵「めっちゃいいですね」「面白いですね」という感じだ。言葉による反応が先行している場合、これは本当に刺さっていると言えない。

今回のプロダクトのデモで反応が良かったものの中には以下のようなものがあった。

  • 見せた途端、急に笑顔になる

  • 笑顔で友達と顔を見合わせる

  • あんなこともこんなこともできると話が弾む

  • 驚きで瞳孔が開く

  • スマホと顔の距離が異様に近くなる

誰が何を言ったかなんていうインタビュー結果は実はさほど重要じゃないのかもしれない。真実を言っていると確かめるのは難しい上に、言葉は都合よく解釈されてしまうからだ。

それよりも、デモを見せた時の瞬発的な心情の変化。これに注目すれば、方向性の確からしさをより単純明快に推し量ることができる。

今回のプロダクトに関しては、「一歩目としては間違えてないんじゃないか」という手応えがある。

絶対に上手くいくと保証するものはないし、腑に落ちる論理的な説明は出来はしない。けれど、デモを見せた時のユーザーの食いつきの頻度と深さから推し量ると、これまで以上の可能性を感じる。


私たちの仕事は、ユーザーがワクワクする空想の未来を現実に変えることだ。

人が当然のように街中で犬と散歩するように、全ての空想上の仮想生命は、未来では人と散歩するのだと思っている。
デジタルペットの美容院、デジタルペットのクリニック、デジタルペット自体を生み出すクリエイターのような職種だって生まれるかもしれない。

私たちは日々オフィスの外に出て、幾人もの見知らぬ人々にプロダクトを見せている。
すると、自分が考えていたことが全くもって理解されないことを知れるし、良いと思ったアイディアが想像以上に良いことも知れる。

ユーザーが触れているプロダクトのクオリティは日々上がっていて、価値が感じられないものはすぐに見極められる。
この容赦がない世界で、私たちは新しいライフスタイルを生み出そうとしている。
それをユーザーの心に届けるために、私たちは全身全霊をかけて、強く光り輝くプロダクトを作らなければならない。

毎日、進んでいるような、または迷宮に迷い込んでいるような、目まぐるしい日々を送る。

答えのない問いかけを胸に船を漕ぎ出す。

自分たちが描いた航路で、波間を切り拓いて大海を征く。

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